その愛は義理じゃなかった「……やぁ、本当に来たんだ」
がらり、と控えめに病室の扉が開く音がする。
消灯時間も過ぎ、夜中と言って差し支えない時間。巡回のナースだってこのタイミングには来ない。
病室のベッドで管に繋がれた老人は視線すら扉に向けることなくそう、しわがれた声で投げかけた。
「鬼太ちゃん」
「……さすがに馴れ馴れしいです」
ベッドの中の老人は喉を鳴らして笑う。さながら悪友にでも会ったような、そんな笑い方だ。
「失敬。ジジィになると距離感が分からなくなるもんなんだ。アイツもそうだったんだろう
?」
「イエ……。特にあまり感じませんでした」
そっけない鬼太郎の回答に「そうかい」と天井を眺める。それもそうだよなぁ、と。
「まぁアイツが他人にべたべたしてるなんて媚びを売っているようにしか見えないからそんなもんか。……それで、肝心のアイツは」
「お義父さ……水木さんは、まぁ、長生きした方だと思う」
「それはそうか。アイツ煙草も酒もやってたからなァ」
「亡くなる数週間前までパンケーキ屋のオーナーをしてて、……あっという間だ」
「あぁ、アミーゴパンケーキだっけ。アミーゴなんて随分『らしくない』。……イヤ、かえって『らしい』のか」
「といいますと?」
老人は眼だけ鬼太郎へと向け、少しだけ微笑んだ。
若いころは狐などと呼ばれていたかもしれない、そんな風貌の老人。管だらけだというのに、鬼太郎が病室に入る前、窓から見た彼は死を待つだけの老人だったというのに。
「それじゃあ始めようか。君が知らないだろう、◇の話を」
いたずら気に笑う老人の顔はやけに若々しく見えた。
◆
俺が初めて水木と出会ったのは帝国血液銀行に入社したその日だった。
入社式の時には既にあった南方で負った桜耳と目元の傷がやけに記憶に焼き付いている。他にももっと重篤な奴だっていたはずなのにな。
アイツは自己紹介の時やけに人好きのする、少しだけ地声よりも高くて凛々しい声で、まぁ、常套句と言えば常套句だが、新入社員らしくこれから頑張ります、みたいな事を隣で言っていた覚えがある。
その時には既に目はギラギラしていたさ。同時に感じたのは「こいつは戻ってこれてないんだ」ってことだった。もちろん体は東京にはあるが、そういう事じゃない。なんていうんだろうな、『魂が戻ってこれてない』というか、『なにか大切なものをおいてきちまった』そんな風に感じたんだ。
のし上がるためなら他者も自分も使える物は使って、強者の側に立ってやる、そんな向上心や気概といえばまだ聞こえはいいものの、その実……まぁ端的に言ってしまえば『いやなやつ』で『おっかないやつ』だったよ。俺はそんな奴が同期で、隣の席なもんだからなにかと比較されて内心嫌だった。まぁ表には出さないさ。大人だからな。
とはいえ、この頃のサラリーマンなんてまぁどいつもこいつもそんな感じで、どこまでもガツガツいくか、まぁほどほどの成績で生活できればいいやみたいなやつか、本当に成績が出ないかのどれかなもんだから――あぁ、いやそれは今も変わらないかもしれんが、比較されるのは心底嫌だったが、さっきはああいったけども、別に隣の水木が特別嫌いなわけではなかったんだ。
好機を逃すまいとゆがめた口元だとか、なにかの拍子に踏み外して死んでしまいそうなほどの上昇志向の強さだとか、そういう……なんだろうな、隣の席に動物園の檻の中の珍獣がいるような感覚だったんだ。見世物に近い感覚だったのかもしれない。
とはいえ、別に水木は性格がひん曲がってるような男ではないことは君も知っての通りだろう。他人に対して特別横暴な態度をとるわけでもなし、だからと言って気障なわけでもない。今ならわかるが、単純に出世以外興味が無かったんだろうな。良くも悪くも無関心。それで顔はいいわけだから女性に言い寄られたって適切ないなし方というものを心得ているから勝手に女性間での評判は良くなっていく。
あいつ自身はそれでも興味は無いのにな。
……話がそれたな。
俺には嫁と子供がいてな。見合いで知り合ったが、とてもいい女房だったよ。もうずいぶん前に死んで、今は孫が俺の面倒を見てくれてる。都内からずいぶん遠かっただろうが、俺がこんな東京から離れた場所に入院してるのはそういう事だ。
ウン、そうだな。少し馬鹿にしてた気持ちもあったのかもしれない。
嫁とりもせず、ただひたすらモーレツサラリーマンをやっている水木のことを。外面はいいけど家庭内では問題があるんじゃないかとかそんな噂があったこともあったな。すぐに消えたのはなんでだったんだか。
女房がいて、子供がいて、働いて金稼いで、それが当時の男の中での幸せとか、立派の定義だったんだ。
だから母親と二人暮らしのアイツを内心馬鹿にしてたと思う。なんとなく下に見てたんだ。仕事ができたって女もいないんじゃァどうするんだ、って。
だけどそれ以上にあいつは仕事人間だった。本当に、仕事ばかりだった。
龍賀製薬の席を立った時のあいつの顔はよく覚えてるよ。
不敵な笑みで、今時いいカモを見つけた詐欺師だってあんな露骨に笑いやしない、それくらいのし上がるチャンスだ、って書いてある顔だった。
◆
「あとは知っての通り。龍賀製薬の件で飛び出したと思ったら数週間後、髪を真っ白にして戻ってきたわけだ」
いやぁ、驚いたね。すっかり腑抜けちまったんだから。
天井を眺めながら老人は言う。
「あのギラギラした目は気づけばぼんやりと天井を眺めてるわけだ。あいつの目って青みがかってただろう。だからどことなく異人……どこか遠い国の人間と入れ替わっちまったんじゃないかなんて噂も長いこと流れてたんだ。」
一年まで行かずとも、半年以上。
「それがある冬の日、急に戻ったんだ。髪は真っ白のままだが、目には正気が戻ってきて」
きっとその時鬼太ちゃんを拾ったんだろうな。その呼び方に鬼太郎は眉を顰めるが、どこか懐かしむように語る老人に強く文句を言う事が出来なかった。
「しばらくして、調子が戻ってきて、誰かが聞いたんだ。『また急にどうしたのか』って。あいつは一瞬驚いた顔をして、心底幸せそうに笑っていったんだ。『子供ができたんだ』、『それはもうかわいい子なんだ』」
「エッ……」
「ずいぶんな反応をするな。それはもう、ベロベロだったんだぜ。口を開けばこの間鬼太郎がなんとかしたんだなんだの、今日も鬼太郎がかわいいだの、早く帰って鬼太郎を吸いたいだの」
「わああああああ!」
鬼太郎はといえばベッドの足元で耳をふさいで声をかき消すように騒いでいる。到底恥ずかしくて気いてられるものではない。それどころか、あの、あの水木がそんなにも自分に対して外で甘かっただなんて初めて知ったのだ。
「鬼太ちゃーん、ここ病院だからねー」
「そんな、だって……ッ!」
「……逆にあいつ、どうやって育ててたんだこの子」
呆れながらも、明かりの無い病室でも分かってしまうほど顔を真っ赤に染め、くちをはくはくと開閉する鬼太郎に一周回って面白さすら感じてしまう。
「そういえば、女性社員に子供の好きなものだとか、簡単に作れるおやつだとかを聞きまくってた時期もあったな。そうと思ったらスーパーのリサーチやらなんやら。今思えば完全に主夫のそれだったなァ……」
「……!」
それには鬼太郎にもなんとなく覚えがあった。
その昔、それこそ鬼太郎が小さかったころ。今日はホットケーキとやらを作ってみたんだ、そう言って差し出された皿に乗っていた二枚の茶色いそれは、はちみつこそかかっているものの、まだ形が歪で、ところどころ黒く焦げているお世辞にもきっと上手いとは言えない代物であった。しかし、鬼太郎はそれがたまらなくうれしかった。黒い部分は妙に苦くてがりがりしているのに真ん中は生っぽかったりしているのに、なにより水木が鬼太郎の事を思って作ってくれたことがたまらなくうれしかった。
作る機会が増えるにつれ黒こげの部分や生焼けの部分は減っていき、形も整っていったがあの時の心躍る感覚は今でも鮮明に思い出すことができる。
「本当に、君には甘い奴だった。……ウン、きっとその愛は義理ではなかったんだろうよ」
「……」
「……そうはいっても俺も、ただの隣の席にいた同僚にすぎないからこれ以上は、……もう覚えてないんだよ」
「いいえ、……十分です。ありがとうございました」
いつもの読めない表情。しかし老人には心なしか声は笑っているように感じた。
「さァこれでしまいだ。……俺も、きっとこれが最期だ」
「……よき、旅路を」
「あぁ……」
鬼太郎は頭を下げ、そして部屋は静寂に沈んだ。