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    k_mk0927

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    k_mk0927

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    杉元が見た光についての話

    オオカミと北極星.

     夢を見た。懐かしい夢だ。どこからか獣の鳴く声が聞こえる。
     ――泣いている。いや、怒っているのか。
     傷だらけの獣は絶えず咆哮する。天を貫くほどの悲しみが、怒りが、その身を震わせていた。


     数多の人を殺し、決死の思いで生き抜いた先に見たものは何か。自らが命を奪ったひとの顔を忘れたことはない。それでも、その一人一人と向き合うことなどできるはずもなかった。彼らもまた、自分と同じ「人間」であるのならば。彼らにも愛する家族や友人がいるのならば。
     ただ生きたいと願う心を咎める権利が誰にあると言うのだろうか。無論、答えは問うまでもなくわかっていた。

     戦地から帰還した後、一度だけ赴いた昔馴染みの土地には、戻ることはできても帰ることはできなかった。幼い日を共に過ごしたあの人は変わらずそこに暮らしていたというのに、全身に染み付いた血の匂いが郷愁を覚えることすら許さなかった。鈍色に塗り潰されていく世界の中で己だけが不自然なほど赤い。
    「不死身」の身体が手にした未来で、杉元はどうしようもなく抜け殻だった。


    ・・・・・


     金塊を探す旅の最中、二人きりの狩猟小屋の中でアシㇼパが言った。
    「杉元、私はお前を忘れない」
    唐突な言葉に返事もできずにいる杉元を両の目で見つめながらアシㇼパは続ける。
    「いつだったか、お前に聞かれた。もし杉元が死んだら私だけは忘れないでいてくれるか、と」
    ――ああ、そういえば。
     こちらを射抜くようにまっすぐ伸びる青い視線に耐えきれなくなって、杉元は目を落とした。
     酒に酔っていたとはいえ、自覚すらない願望を口にしてしまったことが杉元にはどうにも居心地が悪かった。そう思う反面で、酔っ払いの仕様もない言葉を覚えていてくれたことが嬉しくも感じられた。
    「人の記憶力は完全じゃない。いくら忘れたくないと心に刻んだことも時が経つほどに褪せていく。杉元の存在を忘れることはなくても、会えなくなればこうして交わした言葉やお前の声だって少しずつ記憶から薄れていくだろう」
     だから、と続けるアシㇼパの声が微かに震えている。
    「もうあんな無茶はするな。私は杉元佐一を忘れたくない」
     はっとして顔を上げた杉元をアシㇼパの双眸が捕らえた。無茶、というのはきっと先日赤毛の羆と対峙した時のことだ。前足を大きく振りかぶった羆は、杉元の顔を斜めに裂いていった。先刻、アシㇼパの手によって塗られた油がたらりと頬を伝う。

     このくらいの傷どうってことないよ、そう言う杉元にアシㇼパは顔を顰め、もっと自分を大切にしろと言った。丹念に羆の油を塗りつける小さな手が抉れた皮膚をなぞるたび、言いようのない感情が湧き上がり、全身がそわそわと落ち着かない。そんな杉元の様子に、アシㇼパはじっとしていろともう一度ぴしゃり言い放ったのだった。

    「心配かけてごめんね」
     杉元の口から零れ落ちた声は、傍でぱちぱちと爆ぜる薪の音にかき消されそうなほど小さかった。
     不死身であることが――この程度の怪我では死ぬことはないという経験からの確信が――杉元を無頓着にさせた。戦場で生きるためには必要なことであったし、何より死の恐怖に囚われない心こそが杉元を生かしているのも事実であった。迷うな、躊躇えば自分が殺される。あの修羅の中で傷だらけになったのは身体だけではない。

    「杉元」
     普段の凛とした声色からは想像もつかないほど儚い声が杉元の名を呼んだ。切なげに眉を下げたアシㇼパがゆっくり杉元に近づき、耳を覆うように傷の増えた顔の横に手を添える。
    「私は、杉元を…」
     ――守りたい。
     殆ど息を吐くように呟かれた言葉は二人の間をふわりと舞い、かろうじて杉元の耳に届いた。こつんと合わせられた額にアシㇼパのマタンプシの刺繍を感じ、杉元は小さく息を呑む。
     色のない世界を変えてくれたのはひとりの少女だった。アシㇼパの隣で、アシㇼパの瞳を通して見る景色は、厳しくも美しい。
     雪を踏み締め、歩く。前をゆくアシㇼパが時折振り返って杉元を見る。
     獲物を狩る。食べる。アシㇼパはいつも自分が食べるより先に、椀を杉元に差し出す。誰かと食卓を囲む経験が他人より少なかった杉元にとって、何よりあたたかい時間だった。北の大地を生きるカムイたちは杉元の血となり、そして肉となる。
     生きる。生きる。アシㇼパのくれた言葉が熱を持って杉元の中を巡る。どくどくと音を立てる心臓が、確かに命のそこにあることを主張していた。
     ああ、ああ。俺は。

     ――君に、救われていた。
     きっと俺は今、ひどく情けない顔をしている。どうしようもないのだ。君に会ってから、ずっと。
     鼻の奥がつんとして目頭が熱くなる。
     あ、と思った時には手遅れだった。溢れた涙が頬の油に弾かれて二人の間をぱたりと落ちた。
     艶やかな髪が杉元の肩をさらさらと流れる。手を滑らせ、離れていく体温を杉元は名残惜しく思った。
     アシㇼパの深い青に散らばる緑の星々が呼吸するようにちかちか瞬く。目の前の宇宙を言葉もなく眺めていると、ふとその光に手が届く気がした。確信めいた予感が杉元の体内を駆け巡る。けれども触れたいと思う心とは裏腹に、杉元の身体は石のように硬く強張り、指先のひとつも満足に動かすことはできなかった。

     怖かったのだ。本心では誰よりも強く光を求めながら、それを手にすることが怖かった。杉元の魂はここにいたいと叫ぶのに、お前に選択の余地などないとどこからか地を這うような声がする。足元に絡みつく無数の腕が、血溜まりの中に杉元を引き戻す。
     呼吸さえも伝わる距離にいて、どうしてこんなにお前が遠い――少女の痛切とも言える思いはとうとう声にはならなかった。

     死線を幾度もくぐり抜けてきた不死身の男は、その実、どこまでも臆病であった。


    ・・・・・


     水面を浮かぶようにゆったりとした微睡から、意識が浮上する。重たい瞼をなんとか持ち上げるとこちらを向いて眠るアシㇼパの顔が目の前に現れた。真白い肌に影を落とす長い睫毛、すっと通った鼻筋、ぽってりとした柔らかい唇。街を歩けば人の振り向く華やかな顔立ちに、あの頃見ていた少女の幼さはもうない。アシㇼパが杉元の帰る場所になって、何度目かの春だった。
     夜明け前の暗がりの中、杉元はそっと手を伸ばしアシㇼパの顔にかかった髪に触れる。すいと指先に引っ掛けて掬い上げると絹糸のような髪が炉の灯りを受けて煌めいた。
     尊い魂の炎が燃えている。杉元はいつか樺太で見た灯台を思った。吹雪の中でまばゆい光を放っていたあの灯台。それは見る者の向かう先を示す道標であり、特に杉元たちのような遭難者にとっては何より希望であった。
     灯台の光に相棒の姿を重ねたのは、杉元にとってのアシㇼパもまた“そう”であったからだ。

     己より幾らか小さな身体を抱き寄せ、全身で包み込む。あたたかな命が杉元の腕の中でゆっくりと燃える。ぴったりと隙間なく抱きしめると体温が混ざり合い、互いの身体の境界線が曖昧になっていくのを感じた。杉元はもうアシㇼパに触れることを恐れなかった。人を殺めた過去も、罪悪感もすべて背負ったまま、それでもアシㇼパが愛してくれた自分を、明日のために懸命に生きた自分自身を信じている。
     ふと、腕の中でアシㇼパが身じろぐ。
     ――起こしてしまっただろうか。慌てて体の力を抜くと、アシㇼパは眠りやすい体勢を探すように少しの間もぞもぞ身体を動かし、その内すうと寝息を立てて夢の中へと戻っていった。杉元は安堵して短く息を吐き、先ほど驚いて宙に浮かせた腕をもう一度アシㇼパの背中に回した。抱きしめたい気持ちを抑え、今度は手を添えるだけに留めておく。
     じわりじわりと触れた場所からアシㇼパの体温が杉元に伝わってくるように、アシㇼパにも伝わっていてほしいと思った。己の心臓を熱くする切ないほどに純粋な想いが、真っ直ぐ、ただあなたにだけ向かっているのだと知ってほしい。
     ゆっくりと目を閉じ、杉元はやがて青の瞳が開かれるその時を待つ。愛しい声に呼ばれて目を覚ます幸福がすぐそこまで近づいていた。

     杉元はアシㇼパに出逢って、優しさを知る。己の中に陽だまりのような柔らかい温もりが確かに存在していたことを知る。失ったはずの懐かしい感情は、青い瞳をした少女に姿を変えて杉元のもとへと還ってきた。

     二度はない。自らを強く戒める。もう二度と、失いたくなどない。

     それは一人の男の揺るがぬ決意であり、そして祈るような愛だった。
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