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    はろるど

    @5MeO_DMT

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    はろるど

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    エレオス男女会のやつです。

    ミートパイを作るリュヴェイ ソンブルとの戦いが終わって一年も経っていないというのに、人々はただひたすら前を歩もうとしていた。
     兄であるリュールが新たな神竜王としてリトスを治めるのはほぼ確定していることだが、戦後処理がある程度片付かなければとは常に口にしていた。
     なんとか兄の力にならないものかとヴェイルは考えるものの、邪竜の娘として散々迫害されていた身としては如何せんいい手段が思いつかない。政に口出しできるほどヴェイルは賢くもなく、力仕事をしようにも竜の姿を捨てた身では瓦礫を片付けるのも一苦労だ。
     今日も兄はイルシオンに出向いて小難しい話をしている。邪竜ソンブルの支配下にあったとは言え、ヴェイルの立場はイルシオンにおいては危うい。
     それでも、共に来てくれとリュールが頼んだ。ヴェイルに断る理由はないものの、やはりなんというか視線の鋭さに落ち込むのも隠せない。
     イルシオン王城の中庭には知識と魔力によって造られた庭園がある。会議室を借りてリュールはイルシオンの女王となるアイビーと復興について具体策をまとめているのだろう。
     昼間だというのに暗く陰鬱な雨が降っている。
     イルシオンでは概ね雪か雨が多い。夏の少しの間だけ照らされる日光よりも陽気なソルムへバカンスに向かうのも無理からぬ話だ。
     リュールたちが会議している間、ヴェイルとその騎士であるモーヴは控室で待つように言われた。雨が窓を打ち付けているが、これといって話すことはない。
     一見ヴェイルがモーヴにしつこく話しかけたり、干渉するように見えるが実際はもっと落ち着いた関係だ。
    「ヴェイル様」
     モーヴから話しかけられることは滅多にない。モーヴ自身が寡黙なものあるが、基本的にヴェイルから話しかけることのほうが多かった。
    「やはり、リュール殿が気になりますか?」
    「お兄ちゃんのことだから、色々うまくやるんだろうって思っているけど」
     ふうとヴェイルはため息をつく。何もできない自分が悔しいという気持ちが隠せない。
     従者として付き添ってくれているモーヴだからこそ、その些細な表情に感づいた。
    「リュール殿は神竜王として様々な国の仲立ちをせねばなりません」
    「必要なことだって分かっているよ。わたしも子どもじゃないから、理解はしているつもり」
     人間の年齢で言えばまだまだヴェイルは子どもだ。理解していると言わせても、本当はそんな気負わなくていいとモーヴは心の内で思う。
    「お兄ちゃんをもっと支えられたらって思うの」
    「今でも十分支えているではないですか。リュール殿が神竜王として外遊すると決めたのもヴェイル様のこれからを考えてのことと聞き及んでおります」
     兄は優秀なのだ。過去でも現在でも憧れる存在。ヴェイルとしてはそれは誇らしい気持ちになったが、同時に自分の無力さを噛みしめる。
     何かしたいと思っても優れている誰かに比べてしまうとヴェイルの気持ちは落ち込んでいく。復興のために働いているときは感じなかった無力感。
     ヴェイルを苦しめるそれは自分で克服せねばならない病のようなものだった。
    「ラファールやエルのこともお兄ちゃんは考えている」
    「浮上したグラドロンをどうするか、リュール殿も持て余しているのでしょう」
     邪竜が住まう大陸ではあるのだが、千年も昔のことだ。そもそも、あそこは邪竜だけのものではなく魔竜も住人に含まれるだろう。
     一筋縄ではいかないのは重々承知だが、それでもよりよい落とし所を探しているようにも思えた。
    「竜族にとってはたかが土地であっても、人間にとっては魅力的なのです」
    「また、争いを始めてしまったら困るな」
     モーヴは悲観的な男ではないものの、人の欲深さは身を以て思い知っている。主君であるヴェイルやそのパートナーであるリュールにも、あの醜さはあまり経験させたくはない。
    「待つ、というのも時には必要だと俺は思います」
    「何かしなくっちゃって気持ちばかり焦ってしまって」
     ヴェイルのリュールに対する感情は、きょうだいとしての情だけではないのだろう。モーヴはそういうことに疎いが、ヴェイルに関しては何とか察しようと努力している。
     ヴェイルも女性なのだ。不安そうにする表情や、何かしなくてはと憂いを帯びた顔は今は亡き母と似ている。
    「……もしかしたら、何かできるかもしれません」
    「うん? お兄ちゃんを助けられることがあるの?」
    「四狗としてソンブル様に仕えていた頃の資料、例えばセピアが持っているような古いものであれば」
     ヴェイルは嬉しそうに微笑んだ。いなくなったから、ハイおわりという資料の捨て方はしないだろう。イルシオンを発つ際にグリが隠滅していた可能性も否めないが、何かしら残っていれば役に立てるかもしれない。
     控えていた衛士に席を外す旨を伝え、ヴェイルとモーヴはかつての詰め所を捜索することにした。
     信用はさすがにされていないのか、衛士は護衛という名目でヴェイルとモーヴを監視している。何かあればすぐに駆けつけて法の下に裁いてやるという態度は隠していても察する。
    「一切の持ち出しは禁止されています」
    「分かっている。メモを取ることは可能だろうか?」
     衛士の眉が上がる。邪竜の娘や元四狗の彼らの私物を使わせるわけにはいかない。衛士は渋々、懐から自身が使用している手帳とイルシオンが独占している筆記用具―魔力を伴ったインクは耐水性に優れていた―をモーヴに渡した。
     さっさと行けといった様子で衛士はヴェイルたちから顔を背けた。イルシオンを混乱に陥れた連中だとしても、今は私情に任せるべきではないと弁えている。
    「あんまり変わってないね、ここ」
    「……そう、ですね」
     四狗として務めていたモーヴからすれば、ここは二度と訪れないと思っていたがそうもいかないのだろう。
     ヴェイルは物珍しい感じで執務机の辺りをうろうろとしていた。
    「モーヴ、もしも嫌だったらわたし一人で探すからね」
    「いえ、俺にやらせてください」
     雨の勢いは未だ強い。日中だというのに薄暗く、陰鬱な雰囲気が漂っている。
     ヴェイルはイルシオンでよく扱われている燭台に向けて魔力を巡らせ、灯りを点けた。穏やかな照明によって、先程までの暗い部屋が一転した。
     ヴェイルとモーヴは一点ずつ丁寧に資料を漁る時間もないので、ざっと棚の端から順番に見ていく。モーヴがこの辺りを整理していたようで、基本的にまとまっている。
    「本当はマロンの仕事だったのですが、マロンにやらせると全部あべこべにされるので、結局俺がやることになりました」
    「そうだね、あんまり得意そうじゃないかも」
     ヴェイルが何気なく取った本から折りたたまれた羊皮紙が滑り落ちた。本と本の間に挟まっていたらしい。
     状態が悪く、文字が書いてあるのは辛うじて分かる。
    「え、っと――トナ、カイミートパイのつくりかた?」
    「何故レシピが挟まっていたのやら皆目見当がつきませんな」
     うーんと二人で首を傾げる。一応、メモしておくかとモーヴは使っていた執務机でミートパイのレシピを書き写す。羊皮紙のくたびれ具合から、相当の年数が経っているようだ。
     聖書、経典、歴史書などに使われることが多い羊皮紙は状態が良ければ、それこそ数百年は持つ。ここまで劣化してしまったということは古い資料なのだろう。
     文字も現代で一般的に扱われる口語ではなく、古文単語がちらほら扱われている。モーヴは経典を読むのに常日頃から慣れ親しんでいるため、解読には苦労しない。
     使われている材料に見慣れないものがあった。モーヴは書き写したメモを見て首を傾げた。
    「あ、これ、イノンドのことだよ。ニシンやサーモンに使うことが多い緑の葉っぱ!」
    「もしかして、ディルのことですか?」
    「ディラ、ディル? うん、そんな響きでも呼ばれていたような」
     ヴェイルはうーんと唇に人差し指を当てて考える。竜族にとって言葉はそう変わるものではない。単語の意味もそれこそ万年単位で同じなのだ。
     年老いた竜同士の会話にもなると、分かりきっている言葉は殆ど省略され何も知らない人からすれば過去形と未来形が混ざった不可解なものになる。
     幸い、モーヴが書き写したメモは時系列がしっかりしている。一体誰が、何のために残したものなのだろうか。
    「お兄ちゃんの役に立ちたいのに、見つかったのはレシピかぁ」
     あからさまに肩を落として落ち込むヴェイル。モーヴが四狗に所属していた時も、この膨大な資料を端から端まで把握していない。
     イルシオン側も調査はしているだろうが、聞ける立場ではないのも承知していた。
    「そういうこともあるでしょう」
    「時間も時間だし戻ろうか」
     壁に掛けられている時計を見てヴェイルは言った。何時間もこの場所にいられない。そろそろ、戻らないと兄であるリュールが心配するだろう。
    「せっかくだから、パイ作りに挑戦してみようかな」
     ドア付近で待っていた衛士にメモ帳と筆記用具を返却し、控室まで戻る。雨は変わらず降り続いてるが、行く時よりも気が晴れた。
     明るい表情をしていたからなのか、衛士からも何かいいことがあったのかと訊かれてしまう。ヴェイルはいつもだったら隠したり、嘘をついてしまうのだが、こんなことで誤魔化す必要はないと思ってありのままを衛士に伝えた。
     警戒を完全に解いていないものの、衛士は拍子抜けしてした様子で肩を竦める。祖国イルシオンを混乱に陥れた邪竜。
     それが、パイのレシピを探し当てただけなんて。職務上許されないが、頬が緩むのを止められない。
    「あ、お兄ちゃん!」
     ヴェイルが手を振る先には次代の神竜王がいた。赤と青の奇抜な、人によっては神聖に思える髪が通路の向こうに見えた。
     リュールは何でも美味しそうに頬張ってくれる。謎のレシピのパイですら、きっと食べてくれるに違いない。
     兄兼パートナーであるリュールに抱きつき、ヴェイルはその素晴らしい計画に目を輝かせる。レシピ通りに作れば、何とかなる。
     安易な考えにモーヴだけは気づいていたが、主の邪魔をするつもりはない。主が望むなら手を貸すし、従者という立場からすればそれ以上でもそれ以下でもない。
     さすがにチリペッパーを山程入れるのは止めようと思う。
     ヴェイルとモーヴがイルシオンでトナカイミートパイのレシピを見つけてからというもの、ヴェイルはソラネルでパイ作りに勤しんでいた。
     放浪生活が長く、食事に関して相当の偏食であったヴェイルだが兄に食べさせるとなれば別だ。美味しいと思ってもらえるようなものを作りたい。
     そのためには練習あるのみとヴェイルはモーヴの力添えを借りながら、様々なパイに挑戦していた。定番のアップルパイは火を吐くほど辛くなり、ラズベリーパイに至ってはチリソース味に……極めつきはスターゲイジーパイだがチリペッパーを練り込んだ生地に魚の頭が飛び出しており、もはやお手軽な地獄絵図といったところ。
     あのモーヴですら頭を抱え、チリ、辛子、刺激的な、灼熱感の調味料が混入しないように目を光らせる必要があった。
    「ヴェイル様……」
    「わたしを止めてモーヴ! ひと味足りないと思ってつい入れちゃうの」
     ヴェイルがここまで辛いものが好きで、相当のこだわりがあるのは分かった。だが、いくらなんでもとりあえず辛くすればいいという考えは如何なものだろう。
     モーヴも辛いものが好きではあるものの、そこまで熱狂的なものではない。
    「気持ちは分かりますが、それ以上はいけません」
    「うう、いけないのは分かっているんだけど」
     そのまんまの味ってオリジナリティ足りないよね。そう思ってしまう自分が憎いとヴェイル。病的なまでに辛いものが好きな主君にモーヴは頭を抱えた。
    「色味が似ているパプリカパウダーでは満足しませんか?」
    「パプリカ?」
     ソラネルのキッチンからモーヴは瓶詰めされた赤い粉を取り出した。見た目はチリペッパーに似ているが、見た目だけの話だ。一応風味はあるものの、辛味はほとんどない。もっぱら色味で使われるのが多いだろう。
    「こんなに辛そうなのに」
    「見た目だけ変えるだけでもずいぶんと違うでしょう」
     リュールも辛いものに付き合ってくれるが、辛そうに悶えていることから美味しいと思っているかは危うい。誰かに料理を食べてもらうというならなおさらだ。
    「ありがとう、モーヴ」
    「パイ作り自体は中々上達していますからね」
     見た目はキレイなのだが、中身は激辛。一度、通りかかったラファールが試作のパイを口にして卒倒したのは記憶に新しい。
    「味が美味しくなれば、きっとお兄ちゃんも喜んで食べてくれるよね」
     モーヴのアシストがあるものの、ヴェイルのパイ作りは着実に上手くなっていた。最初は焦がしていたパイの表面も綺麗な黄金色をしている。
     もちろんですとモーヴに微笑まれ、ヴェイルは一層やる気になる。リトスの専属調理師に比べれば天と地の差があるとしても、美味しいものを食べてもらいたいという気持ちは諦めきれない。
    「一日三食パイのかいがあるよ」
    「ええ、本当に」
     二人して遠い目をするヴェイルとモーヴ。そんな二人に近づいてくる白いもちもちとした生き物。ソラネルの守護神的な存在のソラだ。
     ぽてぽてと歩く姿は地上で見られるどの生き物にも該当しない。
    「ソラってパイも食べられるのかな」
     ヴェイルの不穏な言葉にソラはビクっと跳ねた。ヴェイルが作る料理は大体辛い、しかも激辛と決まっているのでソラは不満そうな表情をしたように見える。
    「どうなんでしょう」
     モーヴもっと強く言えといった様子でソラは二人を見つめている。リンゴやオレンジならともかく激辛パイなんてリュールから食べさせられても無理だ。
    「ソラに余計なものをあげないでってお兄ちゃんから言われているから、そんなことしないけどね」
     最近、ソラがふくよかになってしまってとリュールが困っていたのをヴェイルは思い出した。昔ほどソラネルの走り込みもしていないのだから当然か。
     あの頃はリュールの後ろをつきまとって、とにかく走っていた。
    「ソラ、ミルク飲む?」
     食べ物じゃなければ大丈夫だよねとヴェイルは小皿にミルクを注ぎ、ソラに飲ませる。ああ、こうしてソラはもちもちのふかふかになっていくのだなとモーヴは傍観していた。
    「よし! 練習するよ、モーヴ」
    「今日もパイ、ですね」
     
     あれから、一ヶ月足らずでついにヴェイルは満足の行くトナカイミートパイを完成させた。見た目だけなら非常に綺麗な出来上がりになっている。香味としてディルを添えて、肉の臭みも消した。
    「今日は珍しいですね。ソラネルで昼食を、と誘ってくれるなんて」
     ほわほわとした雰囲気の神竜王。兄はとても忙しい。むしろ、ソンブルと戦っていた頃の方が穏やかに過ごせていたんじゃないかと思うほどだ。
    「う、うん、今日はがんばって作ってみたんだ」
     カフェテラスでヴェイルは切り分けたミートパイをリュールに差し出した。魔力によって保温がなされており、食べるのにちょうどいい温度になっている。
    「これをヴェイルが作ったのですか?」
    「前にイルシオンに行った時にレシピを見つけて、それがとても古いものだったから、もしかしたらお兄ちゃんも気にいるかなって」
     兄でありパートナーであるリュールに緊張することはないのだが、ヴェイルの頭は混乱していた。竜族としてもっと別のことが出来たんじゃないか、兄を支えることは他にあったのではないか。
     そんな考えがぐるぐると頭の中を回っていく。これで美味しくないと言われてしまったら、ヴェイルはショックで数日は落ち込むかもしれない。
    「私なんか台所に立つなとラファールやエルから言われてしまって、ヴェイルといっしょに作ってみたかったんですが」
     はははと笑うリュール。作り笑いでもなんでもなく、ヴェイルとの時間を愛おしく思っている。
    「味は、たぶん、大丈夫だと思う」
    「モーヴとずっと試行錯誤をしていたでしょう?」
     いそいそと何かを準備していたのをリュールは知っていた。従者であるはずのモーヴに妬いてしまうくらいには、気になっていたのだ。
    「最初は激辛にしてしまって、やっとレシピ通りに出来たとおもうんだ」
     では、ヴェイルも食べましょうとリュールにカフェテラスの椅子を引かれヴェイルは緊張した面持ちで座った。絶対大丈夫と言い切れない性格のため、かつてソンブルに歯向かった時よりも冷や汗が流れる。
     悪いことをつい考えてしまうのは、兄の信頼を裏切りたくないからだ。自分の意志ではないが、リュールを弄んで苦しめてしまった。
    「お、美味しくなかったら食べなくていいからね」
    「ええ?」
     あまりの美味しさにリュールはうっとりした表情をヴェイルに晒した。肉の風味も鹿に似ており、独特の臭みはあるもののそこまでクセはない。パイの生地も想像以上にサクサクで食感がたまらない。
     バターもふんだんに使われているのか、一口頬張れば芳醇な香りが辺りを漂った。
    「これ、めちゃくちゃ美味しいですよ」
    「本当に本当?」
    「本当です。赤かったので辛いかと思ったんですが、そうではないのですね」
     こくこくとヴェイルは頷いた。モーヴが見つけてくれた秘策パプリカパウダーによって見かけは辛そうに見えるが、全くそんなことはないパイが出来上がったのだ。
    「この具材は何でしょうか? 鹿ですかね」
    「あ、それはね。トナカイを使っているの」
     イルシオンではそこまで珍しくない動物だ。リザーズトナカイはイルシオンの人にとっても親しまれる食材として知られている。
    「なんだか昔食べたことがあるような気がするんですよね」
     しみじみとリュールはミートパイを見つめる。忘れてしまったはずなのに、覚えている不思議な感覚だった。
     過去の自分にそこまで思い入れはなくとも、いつの日か思い出すこともあるのかもしれない。ヴェイルが求めているのは過去の自分なのか、現在の自分なのかリュールは聞こうともしなかった。
     取り返しがつかないものを追い続ければ破滅が待っている。かつてのソンブルがそうであったように。
    「そうだと、ちょっと嬉しいな」
    「今の私もこの味が好きですよ」
     にこっとリュールが微笑むとヴェイルも同じように嬉しい気持ちになり笑みがこぼれた。母を失ってから放浪生活を送り、信徒と出会ってからは多少なりとも幸福を噛み締めたヴェイル。
     彼らに罪悪感を覚えるほどヴェイルは幸せだった。ふとした瞬間に襲ってくる罪の意識から逃れる手段はきっとない。
    「ヴェイル、顔色が悪いようですが大丈夫ですか?」
     レモンの果汁が含まれている水をコップに注ぎ、リュールはヴェイルに差し出した。素直にヴェイルは受け取ると何口か口に含む。爽やかな風味が気分を無理やり上げてくれる気がした。
    「大丈夫、じゃないかも」
    「ソンブルとの戦いが終わってからヴェイルは時々、そんな表情をしますね」
     なるべく顔に出さないようにしていたつもりなのに、リュールは気づいていたらしい。ヴェイルは慌てて顔を隠すようにする。
    「何か気にかかることがあるんですね」
    「うん」
     テーブルの下で足をぶらぶらとさせながらヴェイルは眉を下げた。リュールに隠し事をするつもりはないが、叱られるようなそんな気持ちにさせた。
    「お兄ちゃんは何回もそこまで追い詰めないでって言ってくれたけど、どうしても考えてしまうの」
    「忘れてほしいとはもちろん言いません。私ですらどうしようもない罪悪感に襲われます」
     過去の自分がやってしまったことにリュールは否定しようと思わなかった。いつか思い出せば報いは受けるのかもしれない。
     その罪の在処はどこにあるのか誰かに決められるものなのだろうか。
    「罪悪感もなしにニコニコ笑って生きていくのと、罪悪感があって何か償いたいのは違うとお思いますよ」
    「心のどこかで楽になりたのかなって思ったら、何だか申し訳ない気がして」
     今の生活はとても幸せだ。ずっと逢いたかった兄と再会して、世界は違えど同じ邪竜のきょうだいもいて、常に晒されてきた憎悪に身を震わせることもない。
     もう一人の攻撃的な自分が、もっと凄惨なことをしていたらきっと自分はここにいないとヴェイルは思っていた。誰かに責められるのは慣れているが、リュールに言われた時は頭が真っ白になるほど恐ろしく、悲しかった。
     だからこそ、安易な終わりを望んでいたのかもしれない。
    「苦しくても、頑張らなきゃいけないんだよね。全て巻き戻ってしまえばって考えてしまうけれど、一つ一つやっていくしかなくて」
    「私たちには長い時間がありますからね。立ち向かうと決意するのは大変なことです」
     深呼吸をしてくださいとリュールはヴェイルにお願いをする。ヴェイルは困惑したまま、言われた通りに深呼吸をした。ソラネルの空気は常に清らかで気持ちいい。
    「私は嬉しかったですよ。こんなに美味しいものをヴェイルは作ってくれたじゃないですか」
    「そう言われると、嬉しいな」
    「幸せなことは幸せで、嬉しいことは嬉しいと感じていいって思うんです」
     本当にいいのだろうか。こんなにも幸せな気持ちでリュールに甘えていていいのだろうか。
    「ヴェイルは私の妹ですが、パートナーでもあるんですよ」
     何回も言っても足りない言葉をリュールはヴェイルにかける。恋人がするのと同じようにリュールはヴェイルの頬に手を伸ばした。
     柔らかい頬を撫でる手は優しく、身を預けたくなるような心地よさがあった。
    「パートナーなのに、ちゃんと力になれないの悔しいなって」
    「ヴェイルはよく頑張ってくれています。モーヴとよく復興の手伝いをしてくれているでしょう?」
     最近、いい報告を聞くんですよとリュールは目を細める。ヴェイルが罪を償おうとしているのは知っている。何かしたくて、ひたすらに頑張ろうとしている。
     それを支えてあげたいと思う。パートナーであり、愛おしい人である。
    「私が大切にしているものを、ヴェイルも一緒に大切にしてくれていることがとても嬉しいんです」
    「同じ気持ちなのが嬉しいの?」
    「ずっと、そばにいられなかったのに同じ気持ちなんですよ。すごいことだと私は思います」
     リュールからの言葉に嘘はない。落ち込んでいく気持ちから引き上げてくれる力を感じる。初めて会った時から、再会した時からヴェイルはリュールに何か運命めいたものを悟った。普段は声をかけようと思わないのに、あの日すぐに逃げなかったのはリュールなら救ってくれると思ってしまったのだろうか。
    「お兄ちゃんにそう言ってもらえると、何だか元気が出るの」
    「だから、笑ってくださいヴェイル。私のために、あなた自身のためにも」
     笑顔。幼少期のヴェイルをリュールは覚えていない。でも、きっとこんな風な表情を浮かべてくれたのだろうと想像に難くない。
     愛しているというこの気持ちは兄としてなのか、パートナーとしてなのか判断がつかなかった。どっちでもいいとリュールは考える。
     母ルミエルは邪竜という立場を、血を断ち切りたかったのかもしれないがリュールは全て否定するつもりはない。邪竜としての自分も、神竜としての自分もどちらも大切なものだ。
    「お兄ちゃん、大好き」
    「私も大好きですよ、ヴェイル」
     この愛情が果たしてどちらのものか、リュールには判断がつかない。ただ、ヴェイルと何も考えずに笑い合って生きていければ幸せなのだろうなと思った。
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