全年齢リヒシモ“リヒター、正しいことに力を使うんだぞ。お前のそれは誰かではなく、誰でも傷つけられるのだから”
リヒターはとある研究施設の付近にある森で鹿を追っていた。静かな夜で息を潜めながら、何故だかそんな言葉を思い出したのだ。
祖父ジュスト・ベルモンドがリヒターに語ったそれはリヒターが誰かを傷つけそうになる時に戒めとして刻まれている。
西暦1999年、一族の宿願であるドラキュラ伯爵が滅ぼされ恒久的に続く平和を人類は享受しているはずだった。
だが、それが再び脅かされそうになっている。脅威に立ち向かうために魔術書内に綴られた過去の英雄を魔力で再現し顕現させた。
リヒター・ベルモンドもその一人だ。今、ここにいるリヒターはリヒターであって、もはや実体のある亡霊のようなものだ。
「あと少し、動くなよ……」
亡霊と言えど腹が空く。奇妙なものだとリヒターは思いつつ、しかし無尽蔵に魔力が供給されないのであれば何か別のものから補充しようとするのは当たり前の行為だろう。
リヒターは愛用のナイフを何本か投擲し、成獣になったばかりだろう若い鹿を仕留めた。
痙攣している鹿を捌きながらリヒターは大きく落胆した。
かさりと枯れ葉を踏む音にリヒターは作業を止め、立ち上がる。躊躇いもなくナイフを構え、その人を見て慌てて頭を下げる。
「高祖シモン、何故このような場所に」
血まみれの手を隠しながらナイフを仕舞う。敬愛する大英雄に凶器を向けるのも、汚れた姿を見られるのも恥ずかしい。
リヒターは羞恥から顔がカッと熱くなるのを感じた。
「マリアからお前を探すように言われたのだ」
「そ、そうだったんですか」
吸血鬼ハンターは夜、魔物狩りするのがほとんどだ。日中から人間に危害を加えようとするのは稀であり、昼夜問わず動けるものがいるとするのならそれは宿敵であるドラキュラ伯爵と同等の危険性を孕んでいる。
リヒターも夜型の人間であり、夜はぐっすりと眠るマリアとは昼から夕方ぐらいしか触れ合わない。
「凄腕の狩人であるお前に何も心配はいらないのだろうが、最近思い詰めた顔をしていただろう? そのこともあり、一度話をしてみたいと思っていた」
「いえ、俺なんてまだ未熟な身です。二度もドラキュラを退けたあなたの高名に比べたら俺は――」
最強のベルモンドだと召喚者であるルーシーは言ってくれたものの、不完全な形で再現されているため長時間の活動は制限されている。
魔力を消費しない条件下であればこうして普段通り生活を送れるのだが、戦いとなれば守ってやりたいと思っていたマリアが傷つくのを黙って見ていることしかできない。
完全に実力を発揮できる場ならば、いくらだって俺は戦えるのに。リヒターは悔しい気持ちをシモンに吐露しようとは思わなかった。
「ははは、そんな顔をするな、リヒター。八つ当たりで鹿を仕留めていたわけじゃないんだろう」
「腹が空いてしまって、あ、あと、昔アネットが作ってくれた鹿肉のシチューが美味しかったので皆に振る舞いたかったんです」
シモンがおもむろに捌いていた鹿に触れようとしたのをリヒターは慌てて止めた。
「それはダメなやつでした。触らないほうがいい」
「どうしてた? お前がつい先程仕留めたのだろう」
この暗闇の中でシモンはよく見えないのかもしれないとリヒターは思った。シモンが持っていた火を使わないランタンで血肉を照らしてもらう。ナイフの先で脂肪が入っているように見える場所を差した。
「野生のものにサシは入りません」
「なるほど、合点がいった。この月明かりで察するとはリヒターは目がいいのだな。マリアが言っていたが、人里離れた場所で暮らしていた時に学んだのか」
「ベルモンドの屋敷を出てから、修行の意味も兼ねて暮らしていました」
だから、そのとリヒターは慌てるように言った。シモンにどこまでの記憶があるのか分からないが、決して人々に迫害されて僻地に住んでいたわけではない。
「あなたが心配するようなことは、少なくとも俺の時代には何もなかったのです」
「それならばよかった」
うんうんとシモンは頷きながら、リヒターの顔についた汚れをマリアが渡してくれたハンカチで拭いてやる。
「あの、自分で拭えます」
「枝で傷ついたのか、マリアも不思議な子だな」
シモンから渡されたハンカチを押さえると、じくりと傷んだ。マリアは予知ではないものの、そうした察する力が強い。霊的な繋がりがあるのか、魔力が常人よりも濃く流れているからなのか。
少なくともリヒターよりも過敏に危険な気配を察知するのだ。
「俺とマリアは直接、血の繋がりはありません。ですが、マリアのことを兄として一番に守ってやれるのは自分だと思っているんです」
両親を殺されてしまったマリア、帰る場所も破壊され引き取ってしばらくは夜泣きも酷かった。大丈夫と笑っていた子どもをもう泣かせたくない。
だから、俺は――そうリヒターは拳を強く握った。誰もを傷つける力で誰かを守りたい。
「だが、不完全な召喚をされ、力を発揮できないのがもどかしい……と言ったところか」
「ああ、高祖シモンにこんなことを頼むのは申し訳ないのですが、マリアをどうか守ってください」
ずっと昔から敬愛しているシモンに対し、リヒターは無意識に祈っていた。
「存外、強かな女性でもあるぞ。私がお前を連れて帰らないと、粘着質な紙布で腕や脚をビリビリすると脅してきたのだから」
リヒターは何度か瞬きをして、マリアなんてことを言ったんだと冷や汗がドッと流れた。ベルモンド家の歴史はある程度教えたというのに、敬愛すべき高祖に対し脅すなど穏やかではない。
「私の身を案じて、ここは素直に帰ってくれないかリヒター」
堪えるように笑うシモンにリヒターは緊張した面持ちで頷いた。シモン、シモン・ベルモンド。肖像画と祖父ジュストの話でしか知らない高名なベルモンド。
いつかの憧れは眼の前で、手の届く場所にいる。それ以上に胸に溢れてくる気持ちは何なのだろう。
リヒターは落ち着かないような、昂ってしまう気持ちに無理やり蓋をする。本来ではありえない出逢いに興奮しているだけだと納得しようとする。
「ええ、心配させてしまって申し訳ありませんでした」
幼少期のあの日から、ずっとあなたに恋をしている。決して追いつけない背中に焦がれているのだと素直に言えたのならどんなに楽だっただろうか。
鮮やかな血肉に蔓延る虫のように、じわりじわりと蝕む感覚にもう少し未来の自分であれば、もっとマシな言い方や思考ができたのだろうなとリヒターは苦々しく笑った。