冬の日、まどろみしとしとと雨垂れの落ちる音がする。ふと窓を見ると、垂れた水滴が曲がりくねった道を何本も作っていた。
明け方まで降っていた雪は気づかないうちに雨に変わったようだった。わずかに積もっていた分も、そのうち溶けて土に吸われていくだろう。積もったままだと木々の手入れも大掛かりになるので少し安堵する。
喉の乾きを覚えて身体を起こすと、指の触れた先が身じろいだ。
「…シノ……」
「どうした、ヒース」
迷子のようにぼんやりと名前を呼ばれる。夢の中にいるのだろうか。朝に弱いオレの主君は重たげな目蓋をかすかにふるわせる。羽根のような睫毛が一緒に揺れる。
まだ外も暗い。
寝てていいぞ、とあやすように声を掛けると、ん〜……とむずかるようにむにゃむにゃ唇を動かした。心臓を羽ぼうきでくすぐられているような気持ちになる。幼い頃一緒に過ごした厄災の夜のことを思い出す。
湿気か汗か、絹糸のような柔らかな髪が形の良い額に張り付いていた。指の腹でそっとよけてやる。生え際の産毛がひそやかに皮膚を撫でた。
「んん……」
「起きたか?」
ヒースは軽く眉根を寄せ何度か瞬きした後、ゆっくりと目蓋を上げた。睫毛の隙間から澄んだ青の瞳がこぼれてくる。日が昇る瞬間に立ち会うときのような気分だった。
しばらく焦点の合っていない目をぱちぱちさせていたヒースは、額に置かれたオレの手をおもむろに握った。寝起きの彼はぬるま湯みたいだ。確かめるかのようにゆるゆるとなぞられる。
「……少しかさついてる……」
「そうか?」
ヒースが言うのならそうかもしれない。少なくとも彼よりはかさついているだろう。ヒースの肌は小川の小石のようだ。
それこそ昔はあかぎれやらしもやけやらをやらかしていた。頓着もしていなかったし、実際大したことは無かったのだ。
けれど坊ちゃんはひどく狼狽した。オレのせいで困ったような怒ったような悲しいような顔をするヒースを見るのはなんだか気分が良かった。ヒースはどんなときも綺麗だ。
「ちょっと待ってて」
オレが思い出に耽っていると、向こうも何かを思い出したかのようにすっと立ち上がった。
机を前に、カタンカタンといくつかの引き出しを確認すると、小さな丸い缶を手に戻ってきた。目で追っていたオレの隣に腰掛ける。
ヒースがきゅ、と蓋を回すとふんわりと優しい花の香りが鼻腔をくすぐった。知ってる香りだ。今にも泣き出してしまいそうな幼いヒースの顔が頭に浮かぶ。
おそらくブランシェット御用達なのだろう。植物を模した繊細な彫りが金属製の容器に入れられている。まさしくヒースにぴったりに見えてふふんと鼻を鳴らした。
「シノ、手貸して」
兄のような声色でヒースが言う。オレは大人しく両手を差し出した。
ヒースは容器から白玉のようなクリームを手に取ると、花びらを撫でるようにオレの手のひらに馴染ませた。妖精の飲む朝露はこんな感じなのかもしれない。ヒースの陶磁のような肌が皮膚の上をするすると往復する。
何となく、声を掛けるのは憚られた。
世界に二人だけのような静かな時間だった。
ヒースの手際は職人のように丁寧だ。爪の先まで滑らかな彼の指が、器用に肌を撫で回す。指と指の間、爪の隙間、皺の奥、細胞をひたすようにしっとりと塗り込めていく。手のひらから全身にヒースが染み渡っていくようだった。
オレはヒースが機械をいじっている様子を思い浮かべる。細かなパーツを正しく美しく配置していく。彼に整えられる機械はとても幸福に思えた。
こうやって繋がることができるのなら、腕があって良かったなと思う。それは脚もでありオレの全部がそうなのだと感じる。
ヒースと触れ合っているとそんなことを考える。
ひととおり塗りたくると、最後の仕上げとでもいうようにヒースはオレの手を両手で閉じ込めた。わずかにささくれた皮ごときゅっと握りしめられる。じんわりと熱が伝わってくる。オレの手とヒースの手の境目がわからなくなる。それは祈りにも思えた。
「シノは仕方ないな……」
内緒話のように、独り言のように、ヒースがこぼす。伏せられた睫毛が肌にうっすらと影を落としている。ヒースはどこか遠くを見ているようだった。オレもその先を見つめてみる。
オレは喉が渇いているのを忘れていた。
雨はまだ降り続いている。