寒いのはきらいだから。 指に絡む柔らかい猫っ毛から香るシャンプーの香りを、ここ数日の間何度も思い出そうとしてるけどなかなか上手くいかない。
あのドラッグストアやスーパーでいつも底値で売り出されてるシャンプー。しかも若干薄められてるのをさほど気にせず使ってる至さん本人より、俺の方があの香りにきっと馴染みがあるはずなのに。
だって、どれだけあの髪に顔をうずめて口づけて来ただろう。至さんお気に入りの黒い布地のソファーの上で。
ひょい、と手を伸ばせば届く距離で。
その日常から離れてもうすぐ十ヶ月だ。
大学の制度で一年間のアメリカ留学の機会を与えられた俺を、劇団のみんなは快く送り出してくれた。勿論至さんも。
大学と提携して安く借りられてる学生ばかりのアパートは、寮で兵頭と同室生活を送っていた俺にとっては十分過ぎる広さだ。いつでもどこかで話し声や物音がしてた寮よりもきっと静かで少し寂しい気持ちになるかもしれないと思ったここでの暮らしも、周りはどいつもこいつも一癖も二癖もある様なヤツらばっかで、思ったよりずっと騒がしい。結局個人部屋がある学生寮の様なものだ。
現に造形学を学んでる隣人の部屋からは朝から金槌で何かを叩く音や何かを研磨するような機械音がしたりしてやたらと騒がしい。この前なんかチェーンソーの音で苦情が殺到してたっけ。二部屋先の音大の生徒の部屋からは夜遅くまでバイオリンの音が響いている。だからここで俺が多少声を上げて台本を読もうがとやかく言われる事はなかった。
そう。土曜日の朝午前七時のこの時間に目が覚めたのも、隣からまたもやチェーンソーの音が鳴り響いたからに他ならない。それでもイライラしないのはどっちみちそろそろ起きようかと思ってた時間だからだ。
日本は日曜の夜八時ってとこで、休日出勤で散々らしい至さんからそろそろ電話かかかってくる予定だ。
ここ数週間、至さんの仕事が忙しくて電話さえも全く出来ない状態だった。時差のせいで昼夜が逆転している俺達の生活はあと一歩でなかなか噛み合わなかった。日付を跨いで帰って来る至さんのただいまの文字を俺が読める時は至さんが眠っている時間だったし、俺のおはようは至さんが社畜ってる真っ最中だった。そんな生活が続いてた折に至さんから連絡が来たのだ。
『そっちの土曜の朝に電話するから出て』
至さんはあまりの多忙っぷりにソシャゲの推しイベントも疎かになってたみたいだったし、残業続きの休日出勤が終わってやっとゆっくり出来るって所なんだろう。日本にいるいつもの日常だったらその帰宅に合わせてポテチとコーラを買って冷蔵庫で冷やしておいてあげられたのに。
もう随分と至さんに触っていない。
手の届く距離にいて、いつでもその身を引き寄せて、腕の中に収める事が当たり前だったのがすごく遠い出来事みたいだ。長く続く禁欲生活も辛いけど、至さんが近くにいない、声さえもまともに聞こえないこの状況は結構、いやかなりキツい。
それでも離れ離れになってるのは俺の都合だから勿論弱音を俺から吐くつもりなんか更々ないけど、会いたい気持ちに変わりはない。そうだ。本当はものすごく至さんに会いたい。
別に視線はアンタがいつも釘付けの、四角い画面のままでいいから。いくらでも悪態ついて、舌打ちしててもいいからさ。不意に肩と肩がぶつかるあの距離に戻りたい。
……なんて、至さんだって何も言わないのに俺が言えるわけねーんだけど。
冷蔵庫からミネラルウォーターを出してカーテンを開けると、ランニングしている人がチラホラ見えた。ランナー達が吐く息は白く、窓も結露していてここは既に冬の寒さだ。日本は残暑も厳しくて十月でもまだまだ半袖で過ごしてる子もいるよ、なんてLIMEくれたのは紬さんだったか。でもその十月も終わりの今はちょうど過ごしやすい時期だろう。
そういえば去年も残暑が厳しかったくせにいきなり気温が一気に下がって、普段から生活リズムが悪い至さんはその煽りをまともにくらって風邪ひいてたっけ。今年は大丈夫かな。
僅かに残っていたペットボトルの中の水を飲みきった所で携帯から着信音が鳴った。
『もしもし、万里?』
「至さん……」
名前を呼んだだけで言葉に詰まる。なんだこれ、カッコわりぃ。
『おつー。元気だった?』
俺の様子に気づいてんのかいないのか、至さんは一向に介さない様子でその声色は明るい。
「……ん、元気」
『あれ、何か声暗くない?』
「いや、へーき」
『もしかして寝起き?』
「まぁ……さっき起きた。アンタ外にいんの?」
『そう。来たるべき休日に必要なものとかね、色々欲しくて』
「明日休みなんすか。休日出勤の振替?」
『そういう事〜。一ヶ月分の仕事一週間でやった勢いだったから』
「体調とか大丈夫なんすか、去年この時期体調崩してたろ至さん」
『よく覚えてんね。そこは今回ぬかりなし。臣シェフにもご尽力頂き食生活もしっかりしてたし。ソシャゲも俺のログイン履歴でお前もわかると思うけど』
「まーな。確かにそれはある」
『でも寒いかも。思ったよりだいぶ』
「言ってももう十一月だからな。本当、風邪には気を付けて」
アンタが熱出しても熱用のシートすぐ取り替えてやれないし、薬の時間毎に声をかけに行けないし……そうだ、熱で浮かされて潤んだ目を見て触れないのに焦れる事もない。
……焦れてるのはむしろ今か。
『俺より子供体温の万里はうってつけの人間カイロなんだけどね。本当、いないの困る』
「…………」
至さんからそんな事言われるのは留学してから始めてだ。普段下らない我儘はポンポン言うくせにこの生活になった途端、至さんは何も言わなくなった。俺が物理的にどうする事も出来ないからなのはわかるけど、その他愛もない我儘が聞きたいなんて俺は至さんの前では結局まだガキのまんまだ。
『本当に寒い。激務に耐えて弱ったカラダにはかなりヤバいわこれ』
「至さん……」
そんな風に言われると思ってなくて俺は咄嗟に次の言葉が出てこない。だって今の俺には何も出来ない。
急激にもどかしさが襲ってきてさっきの夢がフラッシュバックする。あと少しで触れられそうだった至さんの髪。どんな感触だったっけ。嗅ぎ慣れた匂いはどんなだっけ。
至さんが寒いって言ったら今までどうしてたっけ。
『だからさ、今すぐ万里に触りたいんだけど』
至さんの声に被る様に隣人のチェーンソーの音が盛大に響き、いきなりの爆音にびくりとした。ったく! なんてタイミングだっつの。
ちょっと待て。至さん今なんて言った?
「至さん、今なん……」
チェーンソーの音にかき消されないよう至さんの声をよく聞こうと押し付けた携帯側からどういうわけかチェーンソーの音が聞こえ、次の瞬間アパートの玄関から派手なインターホンの音が鳴り響いた。
「──!」
考えるより先に身体が動いて弾かれる様にドアを開く。
「至さ……」
「俺の今日に必要なもの、取りに来ちゃった」
さむい、いれて。そう続ける至さんの腕をぐいっと引っ張る。頭は呆然としてるのに本能で身体が動いた。
まるで至さんを感じるように俺の細胞が出来てるみたいに。
「あ、」
バランスを崩した至さんを腕の中に引き込むと至さんの髪がふわりと鼻を掠めて俺はようやく思い出した。
ああ、これだ。
シャンプーの香りとか、髪の感触とかじゃなくて。
ただ至さんと1ミリの隙間もなく一緒にいる事。
鼻の頭を赤くして寒そうに震える至さんを抱きしめながら、思いがけない休日の始まりに胸が詰まる。
痛い、万里、ギブギブ、俺の腕の中で潰れた声を至さんは出したけど俺は力を弱めなかった。
もうちょっとだけ待ってよ至さん。
思わずゆるんだ涙腺を見られる前にどうにかするから。
その間だけこうしてて。
チェーンソーの爆音を遮る様に扉を閉めて、至さんの頭の中にもう一度、そっと顔をうずめた。