幸福を重ねて オレは疲れていた。
心底疲れていた。
権力争いも妬みも僻みも、どうにかしてオレを引きずり降ろそうとする連中にも。
心底くだらないとわかっていても黙っていられるものではない。
最初は流していたが、堪忍袋の緒が切れる時がきた。
人間に。
人間という生き物に愛想が尽きた。
老齢のオレを買ってくれた王には悪いが、さほど長くなかった“宮仕え”を辞める時がきたようだった。
清々した。
オレは最期までクズらしく生きてやる。
決してスマートとは言えない辞め方で王宮を後にした。
王には申し訳ないとは思ったが、なにやらわかったような顔をしていた気がする。
“宮仕え”という肩書がなくなったマトリフは、酒や女にだらしない典型的なクズに成り下がった。
まだ明るいうちから酒を飲み、女を抱きたくなれば退職金としてもらったゴールドを使って好きなだけ抱いた。
そんな自堕落な生活を送っていると、王宮の連中からの度の過ぎた嫌がらせを受けるようになった。
酒に酔っているところを王宮の魔道士に絡まれ、用心棒がわりに連れてきたのであろう屈強な戦士にひたすら殴られた後、魔道士の地味な呪文で体に傷をつけられた。
どうやらオレが回復呪文も使えることを知らないくらいの下っ端らしい。
酔狂な男たちに口や手足を抑えられ、嬲り者にされたことも一度や二度ではない。
大臣に頼まれたとかいう話だが、それでこんなジジイを犯そうというのだからある意味見上げた根性している、とマトリフは気にすら留めなかった。
ほかにも色々とあったが、「よくもまぁこのジジイにいろいろ思いつくもんだぜ」とある意味感心していた。
どんな暴行もマトリフにはさしたる精神的なダメージを与えることにはならず、散々痛めつけられはしたが、それもやがて面白くなかったのであろう連中の興をそいだのか、ほどなくしてなくなった。
けっ!
中途半端な奴らばかりじゃねぇか。
どうせなら徹底的にやりゃあいいのによ。
野郎に犯されたって抵抗なんざしやしねぇのにあちこち抑え込みやがって!
もっと。
もっとだ。
オレをボロボロになるまで痛めつけてくれ。
マトリフの決して普通とは言えない生活と人間嫌いには拍車がかかっていたが、まれに脳裏に浮かぶ情景があった。
遠い昔の出来事のようだが、それほど前のことではない。
それはかつての仲間たちと――……
飲んだくれる生活は変わらなかったが、ある時からマトリフは古今東西の呪法や禁呪法に関する書物を入手し、読みふけるようになった。
クズのジジイとして生きてやる、そう決めたはずなのに、その瞳に宿るのは知性の光。
何かに取り憑かれたように寝食を忘れてのめり込んだ。
新しい理論を構築し、術式を練る。
それがとても楽しいことだと思い出したかのように、アイデアは湯水のようにわいてきた。
何度かの試行錯誤ののち、いけると判断したら、実行は早かった。
新月の夜。
マトリフが引きこもっていた海辺の岩窟の中。
明り取りにそこそこ大きめの穴をあけてあるその部屋には、床いっぱいに複雑な術式を組み込んだ魔法陣が描かれていた。
穴からは新月のため柔らかな光は入ってこないが、代わりに紺碧の空いっぱいの星が見えた。
右手に輝きの杖を構え、魔法力を調整する。
炎系呪文と氷系呪文がプラスかマイナスかという違いだけ、というならば、生と死の呪文だって表裏一体のはずだ。
床の魔法陣が光を帯び始める。
膨大な魔法力が魔法陣に流れ込み、風が舞い起こる。マトリフのマントがばさりと舞った。
かつての仲間たちはそれぞれの道を歩んでいる。
オレだけが時間を止めたように動かない。動けない。
――孤独。
ギュータにいたころは家族のような存在があったから、魔王討伐というできごとがなければオレは今でも真の孤独の意味を知らなかったろう。
そうだ、オレは孤独だ。
周りにどれだけ人間がいてもひとり。
どうしてオレだけが動けない?先へ進めない?
思考を放棄し、マトリフは両手に生み出された魔法力の調整に入る。
思いは一つ。
オレの望みを叶えてほしい。
そして――
両手から放たれた白と黒の光球が、混じりあい形を変えながらしばらくして完全な球体へと収束する。
マトリフの口から苦悶の声が漏れる。圧倒的な力を無理やり己の全魔法力で抑え込んだ。
やがて光が弾ける。
「……うッ!」
光が弾けた瞬間、マトリフの体も弾かれ洞窟の岩壁にしたたかに打ち付けていた。
……失敗したのだろうか?
オレの魔法力はほぼカラということは、途中までは問題ないはず――
「……大魔道士?」
「…………!?」
思考の海に沈みかけたマトリフを引き上げたのは、聞き覚えのある懐かしい声だった。
「ガンガディア!ガンガディアなのか!?」
マトリフは痛む体を無理やり起こし、魔法陣の中央へ向かう。
部屋の中は煙とも光のかけらともわからないもやでよく見えなかった。
満天の星のきらめきが、その謎のもやを時折きらめかせていた。
「大魔道士!?
これはいったい――!?」
声がした方へかけよると、確かに懐かしい、夜明け前の空の色をした巨体があった。
「ガンガディア、ガンガディア、ガンガディア……ッ!」
「だ、大魔道士!?これは一体どうしたことだね?
私はあなたとの戦いに敗れ死んだはずでは……!?」
言ってガンガディアは周囲を見渡す。
床いっぱいの魔法陣はどちらかといえば魔族の言語に近かった。
――まさか!
「大魔道士!まさか禁呪法を――!?」
そもそも媒介もなしに死者をよみがえらせる方法など聞いたことがない。
この天つ才を持つ大魔道士はついにその次元まで到達したというのか――?
「このような大掛かりな禁呪法を使って、体やら精神に何もないはずがない!
大魔道士、早く体を見せ――」
ガンガディアの言葉は途中で途切れた。
マトリフが縋りつくように大きな腕をかき抱いたからだ。
「……よぉ、久しぶりだな、デカブツ」
しばらくして顔を上げるとそうつぶやいた。
複雑な、いろいろな感情がないまぜになった表情。
その懐かしい響きに、ガンガディアは胸の内が震えるのを感じた。
もやが晴れ、周囲の様子を見る余裕ができたガンガディアは、ずいぶんと荒れた様子に驚いた。
「……大魔道士、あなたの生活はどれだけ乱れているんだね?」
「この部屋はさっきの呪法で色々荒れたんだよ、ほかの部屋は……」
……どうだったっけか?と頭をボリボリかくマトリフに、似たようなものなのだろうな、と勝手に結論づけるガンガディア。もっとひどい、ということは考えもしないようだった。
「ところでこの呪法、ずいぶんと危ういバランスのものだと推察するのだが……」
「あん?」
興味を持ったらしいガンガディアに、マトリフは呪法の概要を説明する。
みるみるうちにガンガディアの顔色が悪くなり、最終的には怒りへと変わった。
「大魔道士!生と死をつかさどる呪文を安易に混ぜようなどと、どうして思い至ったのだ!下手をするとこのあたり一帯、国一つくらいは滅びてしまう!
何よりもあなた自身への」
「いいんだよ!失敗してあたり一面滅んだって!成功したんだからいいじゃねぇか!」
マトリフを思って怒っているガンガディアに対し、自分勝手な感情をぶつける。
理知的な大魔道士らしくない。
ガンガディアはひとまずそのままにしておいた。
「オレは……人間がとことん嫌になったんだよ。オレたちが命がけで守った大地で生きている人間がよ。
都合のいい時だけ担ぎ上げて、平和が確定したら恐怖の対象だ……怖くなったんだろ、そんなのが側使えの魔道士やってるのが。実際オレは国一つくらい消滅させられるしな。
アバンが勇者を廃業して、諸国流浪を始めたのが今になってわかるぜ」
「……大魔道士」
「思ったんだよ、ガンガディア」
マトリフの静かな声が降る。
「――人間なんかより、お前の方がよほど高潔だ」
表情は見えない。
しかし、どこか泣き出しそうな声色に、ガンガディアは反対の手でそっとマトリフに触れた。
「……あなたのような優しい人を傷つけるだなんて、人間はなんて愚かな生き物なのだ。
その気になれば、『とことん嫌いになった人間』を消滅させる力を持ちながら、実際にはしなかった。
消滅させずに、自ら――おそらくあなたの性格だから――泥を被る形で、人間と距離をとった……違うだろうか?
やろうと思えばできたことをせずに退いたのは、あなたの優しさだ、大魔道士」
「違う!オレはそんなできた人間じゃねぇ!
確かに人間の嫌なところを腐るほど見てきたが、全員がそんな奴らじゃねぇことも知ってる。
それでも許せなかったんだ……今の平和がたくさんの犠牲の上に成り立っていることを理解しない、想像さえしねぇ奴らが!」
「……その犠牲とやらには私も含まれているのかね?」
なんだか少し笑えてしまって。
犠牲の中にかつての魔王配下まで入れてしまう大魔道士がいとおしかった。
「お前の命はオレが奪ったんだ。
そのことは絶対に忘れちゃならねぇし、忘れねぇ」
「しかしそれはお互い合意の上で死力を尽くした結果だろう?
あなたが最初から私を殺すつもりでいたとは考えていない。私もまた同じだ。
……違うかね?」
「結果だけ見たら、俺がお前の命を奪ったことが事実だ。その中に感情が入り込む余地はねぇ」
「……つらい思いをさせてしまったようだね」
マトリフが意味がわからないという風に顔を上げる。
「私はあなたとの戦いに満足して滅びを迎えたが、あなたは違ったのだね、優しい大魔道士」
「ちが……ッ!
オレは優しくなんか……ッ!クズで女好き、酒浸りのジジイだぞ!?」
ムキになって言うマトリフがおかしくて、ガンガディアはさらに言う。
「クズで女好き、酒浸りなのはまぁ事実なのだろうね、人間としては高齢なのも事実だろう。
だからどうしたというのかね?そんなことであなたの優しさが曇るとでも?」
きっぱりと言い切られてしまった。
マトリフはいたたまれない気持ちになる。
「……あなたの優しさは表面だけ見ていてはわからない。だがきちんと向き合えばわかるのだよ」
「…………そう思いたきゃ思ってろ」
ケッ!と吐き捨てて、またうつむいた。
「ところで大魔道士。なぜ私を生き返らせようなどと無謀なことを?」
マトリフの背中がわかりやすくビクリと揺れる。
ガンガディアにしてみれば当然の疑問だろう。
未練もなく、どこともしれない世界へ霧散していたのだから。
「大魔道士……?」
応えがないことに、ガンガディアは顔を覗き込もうと窮屈そうに体を動かした。
「…………かった」
「大魔道士、よく聞こえない」
「オレを……
オレを断罪して欲しかった」
「断罪?あなたが何の罪を犯したというのかね?」
「オレは……ッ!
あんな人間たちのために、お前という好敵手を……人間なんぞよりはるかに高潔な好敵手を手にかけたんだ!
その罪を……償わせて欲しかった」
苦しそうに。
悲しそうに。
寂しそうに。
私という存在が、あなたの心にそんなにも深い傷を負わせていたなんて――
ならば――
「……わかったよ、大魔道士。あなたに罪を償ってもらおう」
「……ガンガディア……!」
「私のために、少しだけ泣いてほしい」
「……なっ!?
泣け……るかよ……ッ!泣いて許してもらえるのはガキだけだ!」
ガンガディアの脳裏に、かつて地底魔城にいた子供の姿が浮かんだ。赤子のころ、言葉を話す代わりに泣いていた気がする。
「いままでつらかったのだろう?私に言わないだけで、もっといろいろなことがあったはずだ。
私はあなたが理不尽に傷ついたままなのが気に入らない。
だから、どうか私のために泣いてほしい」
「……ッ!」
「……醜悪な大男の前で涙を見せるのが嫌ならば、決して見ないと誓おう」
「オレが……泣いたら何か変わるのか……?」
「何も変わらないよ。
あなたがどんな生き方をしてきたとしても、私の中のあなたは全く変わらない。色褪せない。
――誇り高く穢れをしらない、私の敬愛する大魔道士」
ガンガディアの指先がマトリフの頬をするりとなでる。
とっくにに枯れたと思っていた涙がひとすじ、頬を伝った。
そうか、オレはガンガディアに断罪して欲しかったんじゃない。
どんなに荒もうと、どんなに汚れようと、どんなに傷ついて周りに失望しようと、そのオレのままを受け入れてくれるガンガディアに救われたかったんだ。
記憶をたどればかつての仲間の姿。
そして次に浮かぶのは決まって一風変わったデストロール。
その記憶が、オレをこの世界に繋ぎとめていてくれた。
マトリフの頬を伝った涙の雫をガンガディアが器用にすくいとる。
明り取りの穴から見える星の光でチラチラと輝いた。
「……涙というのはこんなにも美しかったのだね」
「相変わらずこっ恥ずかしいことをぬかしやがる」
悪態をつくマトリフだが、表情は幾分か明るかった。
最後に泣いたのはカノンが死んだとき。
あの時はただただカノンを喪ったことが悲しくて寂しくて泣いた。
今回はちょっと違う気がする。
泣いたというよりは、かさぶたが取れたというか蓋をしていたものから溢れたというか。
「……ガンガディア、もう一つおめぇに謝らなけりゃならねぇことがある」
「大体見当はつくが……なにかね?」
「オレの身勝手な理由で禁呪法を使って、勝手に生き返らせたことだ」
「やはりそのことか……
そうだな、対価はこの涙でかまわないよ」
さらっと言ってペロリと小さなひとしずくを舐めとる。
誇り高く偉大なる大魔道士の瞳から零れ落ちた雫。こんな甘露があるだろうか。
「……オレは真面目に腹でも切る勢いで謝罪をしてぇんだが……?」
「私を生き返らせるだけ生き返らせて自分は消えようだなんて、結婚詐欺師でも始めるのかね?」
「やらねぇよ!人聞きの悪いことを言うんじゃねぇ」
「あなたの人聞きの良いところというのを是非教えてほしいものだがね」
「ンなもんねぇよ!」
喉の奥でガンガディアが笑う。
つられてマトリフも笑う。
「そうだな、では……私を生き返らせたことに罪悪感を感じるのならば、ずっと私の側にいてほしい」
「……側でずっと罪悪感感じてろってか?意外とねちっこいのな、お前」
「ねちっこい」という言葉に一瞬びきっと青筋が入るが、ふぅと一息ついて整える。
いまだに右腕にしがみついていたマトリフを自分のひざの上へとそっと動かた。
「あなたが感じる罪悪感よりももっとたくさんの幸福を、ふたりで積み重ねていきたいと思うのだが?」
「お前、死んでる間に死生観というかなんか……情緒?とかおかしくなったか?
それともオレの禁呪法の理論とか魔法陣、なんか間違ってた??」
「命を失ってもおかしくないような禁呪を犯してまで生き返らせてくれたのだろう?だったらその命、有意義に使わないとあなたに申し訳ない」
「……ジジイと一緒に幸福集め?それを有意義と言い切るなんざ、お前にしかできない芸当だな」
「そうだろうか」
ガンガディアは少しムッとした表情になるが、ふとひざ上のマトリフの顎へと人差し指をあてる。決して爪で傷つけたりしないよう慎重に。
マトリフはそのままガンガディアを見上げる形になり、ふたりの視線が初めて正面から絡まった。
「あなたが自分の我儘で私を生き返らせたのならば、生き返らせてもらった私は私の我儘であなたと生きていきたい」
「……まるでプロポーズだな、こりゃ」
「そう取ってもらって構わない。
人間の世界ではこういうときどう言うのかね?」
「オレもそんなもんしたことねぇからよくわかんねぇけどよ、さっきのでいいんじゃねぇか?」
「さっきの?」
「『たくさんの幸福をふたりで積み重ねて』ってやつ」
「……大魔道士も詩人だな」
「うるせぇな」
しばらくしてなんだかおかしくなって笑い出す。
マトリフはそのままガンガディアの首に向かって手を伸ばし口づけを――
「………………モシャス!!!」
ボフン!
初めてガンガディアと対峙したときにぶちかましたベタンの勢いでモシャスを唱える。
部屋にぎゅっと詰まっていた巨体が、人間の大男よりも少し大きいくらいのサイズに。
年齢の割には足腰もしっかりしていて背も曲がってはいないが、それでも成人男性としては大きくはないマトリフは、ようやくすっぽりとガンガディアの腕の中に収まることができた。
「あーもう!でけぇ!体格差がありすぎる!圧死する!ガンガディア、夜が明けたらモシャスの契約と練習!いいな!?」
「この岩屋も改造しねぇとなぁ」と頭をガシガシかきながら、モシャスの魔導書どこに放り込んだっけ?と思案する。
「だ……大魔道士直々に呪文の指南を受けられるなんて……いつ死んでもいい……!」
「生き返ったばかり、一緒に生きてくって話をしたばかりで死のうとするんじゃねぇよ!
そんなことくらい、これからいくらでもできるだろ?ん?」
言ってマトリフはもう一度ガンガディアの首へと手を伸ばす。
片方は少しの背伸びを。
片方は少し身をかがめて。
ガンガディアの腕がマトリフの腰へと回る。
お互いの距離が近づき、ようやくふたりは口づけを交わした。