エントゥアがその男を助けてしまったのは「顔が見えなかったから」に尽きる。
エンナカムイへウマを走らせる最中、川に半身を浸し倒れている人影を見つけた。放っておけず、その巨躯を引き上げた。彼がヤマト八柱将『豪腕の』ヴライだと気づいたのは、苦悶に歪む顔に張りつく仮面を見てからだ。
無論後悔した。関わるべきではなかったと己が不運を嘆いた。ヒトをヒトとも思わぬ冷酷な男である。帝の崩御にかこつけ、エントゥアの恩人を窮地に追い込んだ男である。エントゥアの故郷、ウズールッシャを蹂躙した将でもある。彼だと気づいていれば、助けなどしなかった。
それでも。涸れた喉で叫ぶだけ叫んで気を失った男を、その顔を水面に沈めこれも天命とうそぶくことが。一度は握ってしまった手を放すことが、エントゥアにはどうしてもできなかった。
近くにあった洞穴まで巨体を引きずり、火をおこし暖を取らせる。深く口を開ける傷にありったけの薬草を載せ、手持ちの布をきつく巻きつける。到底命を繋げるとは思えない素人手当てであった。
このまま死んでしまった方が良いのに、精一杯の手当てをして、エントゥアは矛盾に膝を抱える。横たわるヴライは身じろぎひとつしない。不規則に上下する胸が、かろうじての生を伝える。
ぬらり、と。
白い仮面が焚き火を反射し血色に輝く。
エントゥアの喉がひゅっと鳴る。彼女は直に相対したことはないが、その仮面がヴライに異形の身と尋常ならざる力を与えることを知っている。
危険なもの。
故郷を灰塵に帰したもの。
衝動だった。その真白い角を掴み、こめかみの部分へ指先を潜りこませ、引き剥がす。
もしも、このときヴライが起きたなら、問答無用で殺されていただろう。この仮面を、ヤマトの帝より下賜されたという仮面を、己れに帝から仮面を与えられる程の力と忠義があることを、彼は殊の外誇りとしていたから。
それを、武人でもない、ヤマトの民でもない女がむしりとる。
ぷち、と、細い糸を引き千切るような感触があって。
仮面はエントゥアの手に収まっていた。
ヴライは抵抗しなかった。唯、微かな呻きがひび割れた唇から漏れた。
脈絡もなく吐き気がする。なにか、なにかやってはならないことを為した実感に視界がぐらぐらと揺れる。
このまま逃げるべきだと思った。意識を取り戻したヴライが、仮面を奪われたと気づいたとき、下手人であるエントゥアをどうするのか。想像しただけで怖気が走った。
不意に。ごぼりと濁った音がした。
弾かれるように見たヴライの口元から血泡が垂れる。太い喉が痙攣する。血が、喉に詰まった。吐き出す力もなく呼吸はあっという間に止まり、
――衝動だった。
エントゥアの口の中、ヴライの唇をこじ開けきつく吸った中に、なまぐさい塊がべちゃりと転げ落ちる。粘りつくそれを吐き捨て、再び口と口とを合わせる。
二度の口吸いで、ヴライの呼吸は弱々しいながらも安定した。
呆然とへたりこむ。洞穴の土は湿り、つけた尻が冷たい。口の中がなまぐさい。気持ち悪い。男に意識を取り戻す様子はない。エントゥアは。ならば、エントゥアは。
震える手で仮面を荷袋の底に押し込む。のろのろと立ち上がったのは、口をゆすぐため。そして薪を集めるためであった。
見捨てられなかった。
敗北し、誇りをうばわれ、ひとり死にゆく武人を置いてゆくことが、どうしてもできなかった。
それから十日、エントゥアは意識のないヴライを介抱した。ただ薬草を傷に載せ止血に包帯を巻くだけの治療は、男の命を現世に繋ぎ止めた。
十日目の朝だった。
ウォプタルの世話を終え、アマム汁を作っていると、傍らの巨躯が呻いた。そろそろ寝返りを打たせてやろうとかと覗き込むと、赤い目が、エントゥアを、見ていた。
言葉を失うエントゥアの腕が痛いほどに軋む。掴まれた、と気づいたのは、洞穴の壁に背中を叩きつけられてからだ。かは、と、息が漏れる。視界が暗い。焚き火の灯りが遠い。大きな躰が、エントゥアに覆い被さっているせいだ。
ぎりりと骨と肉とが軋む。悲鳴を噛み殺す。険しい顔が、エントゥアを見下ろす。
「誰だ」
掠れた問いが降ってくる。「わ、私はエントゥア、」
喘ぎながらの答えにも赤い目は揺らがない。
「此処は」
「ッ、エンナカムイの、近く、です。川で倒れた貴方を見つけて、手当てを」
「……我、を」
男は。真っ直ぐ――不審を覚えるほどに、エントゥアを、エントゥアだけを見つめる。
顔の右半分を覆っていた仮面が失われたことにすら、気づかぬ様子で。
「貴方……」
「我は」
「我は、誰だ」
睨みつける眼差しが、途方に暮れるもので。女の腕を軋ませる手が、縋りつくかたちであることに。エントゥアもようやく気がついた。
ヴライは記憶を失っていた。
偽りとは思えなかった。そんなことをする理由がないし、寝床に尻を下ろし項垂れる姿は到底つくりものと思えなかった。
ヴライが巨躯をちぢめ、太い腕を躰に巻きつける。我が身を絶えず確かめていなければ輪郭すら保てない。そんな不安が全身から滲んでいた。
「……薬湯です。胃が弱っていますから、ゆっくり口に含みなさい」
椀を差し出す。薬草と塩を入れ煮立てた湯が入ったそれを、ヴライはのろのろと受け取った。
己れの椀にアマム汁をつぎ、エントゥアは溜め息を吐く。まさか、こんなことになるとは。
何か憶えていることは、とのエントゥアの問いに、ヴライは軋るように首を横に振った。何を憶えていて何を忘れてしまったのかも分からない様子であった。奇妙な食事の合間に、エントゥアは問いを重ねる。己が名を思い出せない、なら誰か他のヒトの名は、エンナカムイという地名に聞き覚えは、ここがヤマトという國であることは憶えていますか? ――答えが返るものもあれば、返らないものもあった。ヴライの記憶はひどく欠けていて、特に自らに関わる情報がすっぽりと抜け落ちているようであった。
「貴様は何か知らぬのか」
「……私は旅の途中で倒れている貴方を見つけ、介抱しただけですから。なにも」
そうか、と力無く呟き椀をすするヴライを、エントゥアは眺めることしかできなかった。奇妙ないたたまれなさがあった。
「少しお眠りなさい。急に起きては傷に障ります」
ヴライは己が胸から腹にかけて巻かれた包帯を見、大人しく横になる。
いたたまれなさがあった。
エントゥアの知っている男は、もっと尊大で、横暴で、もっと、もっと、「済まなかった」
掠れた謝罪に意識が引き戻される。
「痛めたであろう」
ヴライの目が、エントゥアの腕に。ヴライが掴んだ場所に向いていることに、何故だか混乱する。
「……いえ、平気です。いいから休みなさい」
ヴライが、もぞり、と丸くなる。
ぐらり。ぐらり。足元が揺れる。目の前にいるのは寄る辺を失った男だった。『豪腕の』ヴライは何処にもいなかった。
荷袋の中には仮面がある。
何時でも取り出せるソレに、近づく気になれなかった。
旅の途中で倒れた男を見つけ、介抱した。男自身については何も知らない。エントゥアの半端な嘘を、ヴライは信じたようだった。目覚めて数日はエントゥアの指示に従い大人しく寝ていた。が、何日目かにちょっと目を離した隙に洞穴から姿を消した。
エントゥアの胸中にまず沸き上がったのは、ヴライの身を案じる気持ちだった。驚いたことに。記憶を取り戻し去ったのかもしれない、という考えはあとから生まれた。慌てて荷袋を探ると、一番底に仮面があった。
洞穴の周囲を探索しながら、エントゥアはぐるぐると考える。或いは、悩みの種が消えたのだ。望むところではないか。元々エントゥアは、ヴライの襲来を報せるため、エンナカムイに向かっていたのだ。仮面を持たぬ今のヴライは、仮面の者たるオシュトルの脅威にはなり得ないだろう。あの状態のヴライがエンナカムイに突っ込んだところで返り討ち、エントゥアが塞いだ傷も再び口を開け、ヴライは死ぬ。誰もが安堵するみんなが望む大団円。それでいいではないか。
吐き気がした。
疲れ果て洞穴に戻ったエントゥアを出迎えたのは、死んだ猪と生きているヴライであった。
「……」
「……とってきた」
はあ、と気の抜けた相槌を打つのが精一杯であった。せめてひとこと言ってから出ていきなさいとか、なんでそんな困惑した、自分の力に戸惑うみたいな言い方なんですかとか、これ誰が捌くのですか? 私ですか? 等々。言いたいことは、あったのに。
「……手を」
「うむ」
「手を、洗ってきなさい。躰も。なるべく」
今日はご馳走ですね。
笑ってしまったエントゥアの中で、なにかが、かたん、と落ちた。
ヴライの記憶は戻らない。不便だったので仮の名をつけることにした。
「ゼグニ、ではどうでしょうか」
「ゼグニ」
慣れぬ音を転がすヴライに、エントゥアは「死んだ父の名前ですが」微笑む。
「思い出すまでの仮の名です。思い出したら返していただければ」
「うむ」
その夜、少しだけ、父の話をした。戦場での話を避けたから、父と共にウォプタルに乗り夜の荒野を進んだ思い出や、はじめて織った帯を贈り喜んでもらえたこと、ぶあつく乾いた手が好きだったこと、そういう内容になった。
道がほんの少し違えばあの戦場で父を殺していたかもしれない男は、ただ、エントゥアの話を聞いていた。椀を傾ける手は多分父よりも大きい。
腹の傷が塞がったヴライが、森に出るようになった。時折狩ってくる獣はそのまま食卓に上ることもあれば、エンナカムイの市で交換に使うこともある。
腹の傷は塞がったが、ヴライの躰には細かい傷が増えている。獣を狩るときについた、と語る顔には微かな困惑がある。武人として練り上げた躰を扱いあぐねている風であった。
「無茶はしないでください」
せっかく助かった命なのだから。
エントゥアの懇願に、ヴライは、うむ、と頷いた。
エンナカムイに居るのは危険だ、と悟ったのは案外早かった。戦の真っ最中の國である。ヒトの流入は激しく、エントゥアもその中に紛れていたが、何処からともなくやってきて獣の皮や肉や胆を食糧や薬に換えてゆく女を怪しむ視線が増えている。
危険だった。
誰かがあとをつけ、ヴライを発見してしまえば。それで終わり。
――危険?
おかしな話もあるものだ。危険というなら、エンナカムイの雄たるオシュトルの敵、『豪腕の』ヴライが生きている事実こそが危険ではないか。
エンナカムイの兵が、或いはオシュトルそのヒトが、ヴライを見つけ、捕らえ、処断する。危険を排除する。それが正しい。
吐き気がする。
「ゼグニ殿」
エントゥアはヴライの前に立ち、告げる。
「私はこの地を離れようと思います」
貴方も、と言いかけたエントゥアを、ヴライが遮る。
「我はエンナカムイに向かう」
「え」
何故。何故。
「獣どもと相対して分かった。我は武人であったのだろう」正しい。ヴライは武人であった。ヤマトの矛とも呼ばれる、強い。強い。「エンナカムイは戦の最中と言っていたな。兵の中に、我の素性を知る者がいるやもしれぬ」正しい。きっと誰かが知っている。ヤマト八柱将『豪腕の』ヴライを。エンナカムイの、オシュトルの敵を。「世話になった。この恩は何時か必ず――」
「いけません!」
叫びは悲鳴になった。
ヴライが静かに目を眇める。困惑と、見定めるような眼差しに、エントゥアは激しく首を振る。
ヴライがエンナカムイに行けば、確かに彼は名を取り戻せるだろう。けれどその先は。記憶全てを取り戻せる保障は。
近い未来を幻視する。
ヴライがエンナカムイに赴き、捕らえられる。抵抗はするが、自身の躰の使い方すら忘れてしまった身ではどうしようもない。そうして、憶えていない罪で裁かれ。終わる。
厭だ。
厭だ。
「行かないで」
肩を、掴まれる。軋むほどに強い力。「何故だ」何故。エントゥアは知っているからだ。
ヴライを。
荷袋の底の、仮面を思う。
もしかしたら。仮面を返せば、記憶も。エントゥアはきっと殺されるだろうけれど。エンナカムイはきっと業火に沈むだろうけれど、ヴライはヴライを取り戻せる。きっと、ヴライとして生きて、死ねる。
軋んでいる。それでもエントゥアの肩がまだ握り潰されていないのは、加減がなされているからだ。ほんとうのヴライはこうするだろうか。分からない。エントゥアは、今の彼しか知らない。
「エントゥア」
男がエントゥアを呼ぶ。真実を話せと。選べと。このまま行かせ死なせるか、彼女の命と仮面を差し出すか。
「行っ、て、欲しく、ない」
厭だ厭だ厭だ。
選びたくない。
「貴方といっしょにいたい」
溢れた。零れた。肩を掴む手が動揺したかのように緩んだ。離れかける手を追ったのはエントゥアだった。
助けてしまった。傷から熱が引いて安堵した。食事を「美味い」と言ってくれるのが嬉しかった。夜になるより先にこの洞穴に帰ってくるのが嬉しかった。大きくて乾いた手が、愛しいと、思った。
男はエントゥアの側にいた。
エントゥアが奪ったからだ。
仮面を奪った。何も知らないと嘘を吐いた。戦いを渇望する男から戦いを奪った。それが都合がいいから。それが、ヴライ以外のヒトを傷つけない方法であったから。
散々奪っておいて。今更、どうやって手を離せばいい。
もう。手の離し方を忘れてしまったのに。
「お願い」
懇願はどうしようもなく浅ましい。己れが奪い、こんなにも欠けてしまった相手に、どうやって手を伸ばせば良かったのだろう?
ぎしり、と、肉の軋む音が聞こえた気がした。聞こえたけれどエントゥアの躰は何処も痛くはなかった。
ゆっくりと、手が重なる。
そっと下ろされる。
「そうか」
静かな。こたえが。
「ならば、我は共に行こう」
エントゥア、と呼ばれた。
「ええ、行きましょう――ゼグニ殿」
もう後戻りはできないのだと、絶望の音が聞こえた。