月牙湾幼い頃から、僕の母に関する記憶はいつも曖昧で、まるで霞がかかった絵のようにぼんやりとしていた。母の思い出はまるで未完成の絵のようで、彼女が僕と父の前から姿を消してしまう前に、その絵が描き上げられることはなかった。母が僕たちの生活からいなくなったのは、ある土砂降りの午後のことだった。それ以来、父と僕は二人だけで互いに支え合いながら生きてきた。
父は不思議なくらいに優しい人だった。彼は熱心な研究者で、科学の世界に没頭していたけれど、心の中には無味乾燥な数式や実験だけではなく、温かさがあった。家にはもう母の姿はなかったけれど、父は決して僕に孤独を感じさせることはなかった。彼の愛は、さりげない日常の中でいつも感じられた。毎朝作ってくれる熱々の朝食や、僕が学校で友達と喧嘩して帰ってきた時、じっと話を聞いてくれる姿。父はいつもそっと寄り添い、どんな時でも僕の支えでいてくれた。
父は決して不平を漏らさず、僕の前ではいつも強く、明るくあろうとしていた。まるで僕が彼の世界の中心で、彼が守るべき唯一の存在であるかのように。そんな父が時折話してくれたのは、母との思い出だった。特に印象に残っているのは、二人が一緒に過ごした中秋の夜についてだ。彼の話す母の姿を通して、僕の中でぼやけていた母の姿が少しずつ形を成していった。
世間では母が「英雄」と称されることがあったけれど、父にとって彼女はただの普通の人で、月明かりの下でゆっくりと惹かれ合った相手だった。父の話を聞くたびに、その穏やかで優しい声に、僕は彼の中にある深い愛を感じずにはいられなかった。
父は母のことをずっと心の中で探し続けていたんだと、僕は気づいていた。何も言わなくても、その静かな眼差しの奥には、母への愛が確かに残っていた。
そして、僕は大人になり、父と少し距離を置くようになった。それでも、父は変わらず僕を見守ってくれた。彼は決して僕に研究を押し付けることはなく、僕が自分の道を進むことをただ見守り、応援してくれた。
でも、夜遅くに目を覚ました時、父の部屋の灯りが漏れているのを見かけることがあった。研究しているふりをしていたけれど、実際には母の古い写真を手にして、じっと眺めていた。僕はその時、父が母をどれほど想っていたかを改めて感じた。
そして、ある日。僕が出張から帰ってきた時、父の姿が家にないことに気づいた。机の上には一通の手紙が残されていた。恐る恐るその手紙を開いた僕は、父の優しい筆跡を目にした。
愛する息子へ、
君が立派に成長し、自分の道を進んでいることを父は誇りに思っている。そして、君が幸せであることが、父にとって何よりの喜びだ。
だけど、父にはまだ果たしていないことがある。それは、君の母さんを探しに行くことだ。長い間、母さんのことを胸に抱えて生きてきたが、今こそ、あの時の約束を果たす時が来たんだと思う。君がもう一人で立っていけることを確認して、父は安心して旅立てる。
母さんがどこにいるかは分からないけれど、必ず見つけ出すつもりだ。そして、再びあの月明かりの下で、母さんと出会えると信じている。
心配する必要はない。君はもう大丈夫だ。そして、いつかまた君と母さんと一緒に過ごせる日が来るだろう。それまで、どうか君も幸せに生きてくれ。
父より
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手紙を読み終えた僕は、しばらくの間その場に座り込んでしまった。けれど、父を責める気持ちは一切なかった。むしろ、彼が旅立つことを、僕はどこかでずっと知っていたんだと思う。
父はこれまで、僕のために全てを捧げてくれた。そして今、自分自身の心の中に残された愛を追い求め、母を探しに行くことを選んだのだ。
僕はただ、彼が再び母に会える日が来ることを願ってやまない。遠いどこかで、彼らが初めて出会った月明かりの下で、もう一度二人が出会う日が来ると信じている。
父の旅は、僕を置き去りにするためのものじゃない。彼の人生を完結させるための、長い旅路の始まりなのだ。星がきらめく空の下で、母が待つ場所へと向かうための。