お持ち帰り。
『店内でお召し上がりになりますか? それとも……』『あ、持ち帰ります』の簡単なやり取りの後、紙袋で渡されてがさがさ鳴りながらレジに並ぶ列の横を通り過ぎていく。
そんな光景を浮かんだ単語で思い出す。
アルコール臭が充満する空間で、呂律の怪しい男たちが酔いに任せて表情を取り繕うことも忘れながら『おもちかえりぃ、できる?』と歪んだ唇で作り上げるのも、続けて脳内に浮かんだ。
そこに配役してみると、どちらも似合わなかった。
きっと適応の早い彼ならば演じることは容易いのだろう。
でも、似合わない。
だから、お持ち帰りは却下だ。
一人残された室内で、取り留めもなく思い巡らせたのは、未だにこの状況に迷いがあるからだ、と希佐自身もわかっている。
希佐の借りている部屋よりも新しくなく、けれど古びているわけではない部屋には西日が差し込み始めている。
その陽光でようやく方角がわかるくらいには馴染みが無い場所という理由だけではなく、落ち着かなかった。
本当に付いてきてしまって良かったのか、という思考は、もう数えきれないほど持ち上がっていて、その度に希佐の胸を引っ掻いていく。
けれどこの短い間に使いすぎて擦り切れて角が丸くなってしまったのか、傷にはならないようだった。
だから、またどうでもいいことを考える。
お持ち帰りは似合わないけれど、あれならしっくりくるかもしれない。
『お前も行き場がないのかな?』『にゃあ』『……うちの子になる?』『にゃあ』
この場合、問う人物とにゃあにゃあ鳴いている方との明確な意思疎通は必要ない。
けれども不思議と肯定とみなされる。
「こっちかな……」
ぼそりと呟いた言葉は、一人だけの部屋の中では誰も聞き取らない。
しかしこれも、その無音の空間の中に肯定が潜んでいるのを、希佐は知っていた。
一人でいなくなるのが一番いい。
三年間の夢を見られたのだから幸せだ。
きっとみんな私のことを忘れるはず。
思い出にして生きていくのがいい。
全部、全部、一人の部屋の空気はそれに頷いてみせた。
ここは希佐の部屋ではないけれど、やっぱりそこにいるのはyesの言葉だった。
だから、今の希佐のイメージに近いのは、拾われた猫なんだろう。
借りてきた猫は大人しい。
新しい場所に連れてこられた猫は周囲を警戒する。
イタチのように勝手に押し入れの扉を開けたりはしない。
そう考えて、部屋の中をゆっくりと歩き回ってみた。
広くない室内はどんなに足をのんびりと動かしても5分と経たずに元の位置に戻る。
そうして一周した中で気が付いたのは、至る所に彼の痕跡があるというごく当たり前のことだった。
綺麗にベッドメイクされたシーツにも、隙間なく閉められたカーテンにも、少し傷があるクローゼットの扉にも。
少ない食器が並んだキッチンにも、湿り気の残るシャワールームにも、希佐の靴が置かれた玄関にさえ。
睦実介という一人の男は、部屋のあちらこちらに存在を残している。
「私の部屋も、こう、だったのかな……?」
“立花希佐”はもういない。存在してはいけない。
でも、真っ直ぐに彼に見つめられた途端、その瞳の中に確かに消したはずの人間が出てきてしまったのを、誰よりも希佐自身がわかっていた。
強い意志に貫かれ、幼子のような瞳に縋られ、熱を帯びた口調に救われて、色々なものを全て置き去りにしてきてしまったワンルームを思う。
そこに残っているのは、誰の痕跡なんだろう、と。
猫のはずが、迷子が混ざって、歪む。
希佐にとって、自分自身を演じることは日常になっている。
ユニヴェールでの少年“立花希佐”を経て、それを捨てて創り出した一人の女性に扮した。
他者を演じる時間だけでいえば、24時間365日、なかなかに長丁場だ。
さすがに慣れたはずだった。
まだ、部屋の主は戻ってこない。
すぐに戻ってくるから、だからどこにも行かないでほしい。
そう言ったのに、希佐が時間を持て余すくらいには時が流れている。
これから、どうするか。
浮かんだそれは、また例の擦り切れた思考を引き寄せて、希佐の胸に今度こそ傷を残そうと試してくる。
痛くはない。痛みを感じるような胸はもう過去のものだから。
くるりと視線を巡らせて、幾重にも張り巡らされた蜘蛛の巣みたいな彼の跡に引っかかる。
猫じゃなくて迷子じゃなくて蝶でもいいかもしれない。
「蝶……より蛾のほうかな」
自分自身の正当化を斜に眺める。
どれだけ誤魔化しても、いけないことをしている。
約束を破っていて、その責任から逃げていた。
“立花希佐”でなければいい。
猫でも迷子でも蝶でも蛾でも。
それとも、彼の差し出した選択肢のように。
希佐の思考の上に、だだだ、と激しい足音が乗った。
見た目は古くないけれど、外の音がこれだけ響くなら築年数は思ったよりも経っているのかもしれない。
まるでタップのようなリズム音に、希佐の口が勝手にメロディを紡ぐ。
「葉っぱや、茶茶茶……」
この場所は反則だ、と遅れて思う。
無くしたはずの、消したはずの、忘れたはずのものが容易く現れる。
死んだのに生き続けるゴーストか。
夢見る明日はもう覚めて、残ったのは夢を買うために残った借金だけだったのに。
どんどんと希佐の中に“彼”が“彼女”が戻ってくる。
あの頃に連れ戻される。
メロディを呼ぶ足音が、カチャリと扉を開くそれに場所を譲る。
そのままの勢いで玄関ドアから走り込んできたのは、ずっとこの部屋の中で希佐を一人にしておきながら、それでも希佐を一人にしなかった男だった。
「たち…………希佐!」
そうして、耳に慣れた懐かしい呼び声を封じて、そこに新たな呼び名を刻む。
とてもずるい人だ。
そうやって、ただこの部屋に残っていただけで、この世の全ての悩みが解決したような顔をするなんて。
嘘をついて、逃げ続けて、約束を守れない、そんな人間を抱きしめてくれるなんて。
この腕の中に居続けるために、あの雨の日の申し出を受けてしまいたいと思わせるなんて。
彼の名前を分けてほしい。
決定的な一言を、どうしようもない我儘を、言葉にするにはこれまでの年月が重い蓋になっている。
喉の下までは這い上がっていたそれが形になる前に、唇が口ずさんだのは、こんな希佐を許してくれているたった一人の名前だった。