ある平凡な男のはじまり “平凡”な男だと、よく言われた。
それを自分で特に不幸だとは思わなかった。
憐れむように、蔑むように、言う人は多くいたけれど、結局人は“平凡な幸せが一番”だと……そう言っていたのは母だっただろうか?
ただその笑顔が暖かかったことだけは、よく覚えている。
父も母も至って平凡な家庭に生まれた。
一つ珍しかったといえば、日舞をやる家だったということくらいか……といってもそれも傍流で、お弟子さんも多くなかったから、父は当たり前にサラリーマンもしていて、母も父の少ない収入を支えるために働きに出ていた。
そんな平凡な父から、ちょっと特別な日舞を教えてもらえる時間が俺は好きだった。
顔も頭も別に特別なところは何もない俺だったけど、真面目に取り組めばそれなりの実力はつくもので、周りの人から褒められることも増えていった。
そんなある日、その流派の発表会があった。
同世代の子供たちもたくさん出る、そこそこ大きな発表会だったと思う。
俺はなんとなくわくわくした気持ちで、内心両親や他の人に良いところを見せようと張り切っていた。この日の為に、両親祖父母が用意してくれた扇子や帯留め、着物など、様々な物を身につけると、まるで伝説の勇者の装備を身にまとったような気がして……その時の俺には出来ない事なんて何も無いような、無敵の気分だった。
そんな中、舞台袖で他の子供達と混ざって本番を待っていた時。
恐らく同じ流派の人の一人だろう、着物を着た大人が俺の姿を見て近寄って来て……俺の肩にポンと手を置きこう言った。
「本家の子より目立っちゃダメだよ?」
別に強く叩かれたわけじゃないのに、肩を思いっきり叩かれたような気がした。
大人の手が子供の肩には想像以上に重かったのもあるとは思う。けどそれ以上に、内心てっきり励ましの言葉を言われると思っていた俺は、その一言がとんでもなくショックだったらしい。
だからか、その後の事はよく覚えていない。
うまく踊れたのか? 踊れなかったのか?
何を考えていたのかも、今となってはよくわからない。ただぼんやりとしたまま、周りに合わせて踊っていたような気がする。その時に見た、両親の怪訝そうな顔は今でもよく覚えている。
袖に戻ってからかけられた「緊張しちゃったのかな?」という白々しい大人たちの言葉に強い嫌悪感が沸いたのも、できれば忘れたかった。
そんな中で一際笑顔で「よくやったね」と声を掛けられていた、溌溂とした笑顔の子供が、恐らく「本家の子」なのは子供の俺でもわかった。
その子が何も悪くないこともわかっていた。
だからただ―――“ああ、住む世界が違うんだな”と―――ぼんやり思ったことだけ、やけにはっきりと覚えている。
終演後、何も知らない母からしきりに「どうしたの?」と聞かれても何も言えなかった。別に強く脅されたわけでもないのに、それが子供心なのか口を噤んだままでいた。そんな様子に父は何か感じ取っていたのか、何も聞かずに「寿司に行こう!」と寿司屋に連れて行ってくれた。そして、「今日はよく頑張ったな!好きな物好きなだけ食べろ!」と言ってくれたのが嬉しかった。
その時は喜びを表に出せなかったけど、母の心配も、父の気遣いも、何よりもかけがえのないものだったと、今ならわかる。
ただ、そのこともあり、思春期もあり……以前ほど熱心に踊りに取り組むことは無くなった。
人目を避けるように、誰もいなくなった稽古場でこそこそと踊ることが増え、成長するに従ってそんな時間もどんどんと減っていった。
至って普通の大学を卒業してからは、就職を期に家を出たのもあり……その頃には完全に踊りから離れていた。平凡な俺が行けた就職先は、お察しの通りブラックだったというのもあり……そんなことに時間をかまけている余裕はなく、仕事に明け暮れていたのもあったけれども。
そのくせ、未練がましく扇子だの帯留めだの……あの時貰った夢の名残だけ、いつまでも部屋の片隅に置いたまま。
その中途半端さが、そのまま己を表現するようで滑稽だった。
その日も大して変わらない一日の始まりだったと思う。
怒涛の20連勤の目に染みる朝日に顔を顰めながら、いつもの駅のホームに何とか辿り着く。いつもの場所に立って、いつもの電車を待つ、特に幸福でも不幸でもない、いつも通りの朝だ。
いつもと違ったのは……コツンコツンと一定のリズムで跳ねる白い杖が見えたことか。
まだホームドアが設置されていない、混雑したホーム。人に押し出されるようにして、点字ブロックから外れてしまった白い杖。
何となく気になって目で追ってしまっただけだった。
いつもと違う、その存在を。
ただ、それだけ。
だから―――その杖が不意に空を切った瞬間、たまたま最初に気が付いたのが俺だっただけ。
咄嗟に、何も考えず、身体が動いてただけ。
線路へと傾くその人の身体を、何も考えず無我夢中で掴んだだけ。
それで思いっきり引っ張り上げたら、今度は連勤に疲労した身体がよろめいて……反対に俺の身体が傾いてしまって。
その瞬間―――たまたま電車がホームへと来ていた、だけ。
ただ、それだけ。
――――――ッ!
……
…………
「…………?」
目を開けると、見知らぬ空が見えた。
いや、空で何を判断できるとは言えないけど、少なくともいくら田舎の方とはいえ、近所にこんな森は無かったはずだ。
(何でこんな所にいるんだっけか……?)
今の今まで駅にいて……いや、家だったか?それとも学校?そこで居眠りしてしまったんだっけ……?
どの記憶も自分のもののようで、他人事のようだった。
でも、少なくとも俺はこんな森の中に住んではいない。起き上がると、どこか鬱蒼として不気味な森だった。
身体を見てまわすと、そんなに寝ていたわけではないようで、特に服は汚れていなかった。
(学校が嫌になって、不貞寝か……?)
あまりそういうことをした記憶はないが、した気もしなくもないような……少なくともスラックスにワイシャツ姿の自分は、なんとなく高校生の気がして、そんなことを考えたのだった。
記憶はあるのに、無いような、変な感覚がするのは寝起きだからか?
とにかく、日も暮れ始めてしまったのか、鬱蒼とする森は危険な気がして、なんとなく明るい方へ歩き出す。スマホも無いし、このまま呆けているのは危険な気がしたからだ。
全く見覚えのない森に不安感が増していく……まさかこのまま遭難とかないよな?
そんなことを考えながら歩いていると、ふいに森が開けて、建物が見えた。
それに安堵したのも束の間―――俺は人生で一番間抜けな声をあげたと思う。
「……嘘、だろぉ?!」
箒が空を駆ける……ゲームでしか見たことないような奇天烈な生き物があちらこちらに動き回り、明らかに人間ではない耳や尻尾や角が生えた人々が何やら話しながら闊歩している。
「なん、だ、これ……?」
自分はまだ夢を見ているのか?と思ったけど、どんなに目を瞬かせても、何も変わらない風景が広がっていた。
そうこうしているうちに、
「―――オイッ!!」
「うわぁっ?!!?!」
予想外の方向から声が飛んで来て、俺は心臓が飛び出す勢いで驚いた。声の方向を見て、また驚くことになるとは思わないまま。
「オレサマを踏んづけるとはいい度胸してんな!?」
ふよふよと、黒っぽいぬいぐるみのような物体が宙に浮いていた。それだけでも驚きなのに、明らかに生きている―――生き物の気配がした。
「おわぁあああッ?!ぬいぐるみが生きてる?!?!」
「ぬいぐるみじゃネェ!!!」
2度目の大声を上げると、そのぬいぐるみのようなフォルムの生き物は不愉快そうに顔を歪ませた。
(さながらミニデビルのような……?)
混乱する頭でそんなことを考えながら、何とか落ち着こうと試みてみるが、全く落ち着ける気がしなかった。
そんな俺をよそに、そいつは不機嫌そうな顔のまま捲し立てるように言葉を続けた。
「せっかく、眠り谷に入学する新入生をちょろまかしてやろうと思ったのに! オマエのせいで台無しだッ!」
「眠り谷……?」
入学というから学校名なのだろうが……全く聞いたことの無い校名に首を傾げてしまう。
「オマエをどうにかしてやりたいトコロだが……どうもウッカリ"契約"しちまってるみたいだからなぁ……責任取ってオレサマを養えよ!」
「ハァッ?!」
訳の分からないうちに俺は何か"契約"したらしい。このちんちくりんなやつと。詐欺にでもあっている気分だ。
現実から目を背けるように、俺はもう一度その“眠り谷“とやらの校舎を見つめる。
どこか陰鬱とした空気が漂っていて、とても安心して学べそうな雰囲気はしないその学校は、映画でしか見たこと無いような作りで、とても見覚えのある校舎には見えなかった。
「いったい、どうなってんだ……?」
困惑した俺の声は、谷に静かに響いて消えた。
ーWelcome to Sleep Valley of Witchcraft!ー