成し得ない「グラハムさん」
「ん?」
「悲しい話をしてもいいっすか」
「……ん?」
お前らなにか話をしろ、と。自身の横暴な振りを他愛のない世間話のようなトーンで打ち返されて、グラハム・スペクターは、忙しなく動かしていた両腕をぴたりと止めた。その両腕というのが、二丁拳銃ならぬ二丁レンチを操っている最中であり、幼子の頭部くらいはありそうな機械を三つ、地面に落とさず順繰りに解体し続ける――などという、サーカスのピエロだって御免こうむるような曲芸を披露しているところだったものだから、非常によろしくなかった。不幸中の幸いなのは、その恐るべきジャグリングがほとんどクライマックスに近かったことだ――グラハムの周囲でぼけっと眺めていた舎弟たちは、ジャグリング中にそこかしこへ降り注いでいた部品とそう変わらない大きさの飛来物をいくつか避けるだけでよかった。
ひとつ、己の頭上目掛けて落下する最後のパーツを、ろくに視線も遣らずに弾いて。
その代わりに、グラハム・スペクターは、眼前の男をまじまじと見つめている。
「か――悲しい、話を」
「はい」
「俺の、悲しい話が、聞きたい?」
「いえ。今から俺が悲しい話をするので、聞いてもらえますか、ってことです」
「シャフトが、今から、悲しい話を」
「そうです」
簡潔な返答に、グラハムが考え込む。
――シャフトが今から悲しい話をすると言っている。俺に。
――俺がシャフトにではなく、シャフトが俺に。
咀嚼。咀嚼。咀嚼。
嚥下。
「悲しい……悲しい話をしよう」
「あれ? おかしいな。今俺が話すはずだったんすけど。会話が噛み合ってませんよグラハムさん、酒でも飲みましたか」
「馬鹿な。俺が自らアルコールを体内に入れると思うか? 微量で酔いつぶれる男だぞ俺は」
「自覚があって素晴らしいっすね。じゃあ気付かないうちに気化したアルコールでも取り込みましたかねえ」
「それこそまさかだ! 気付かないわけがないだろう、俺の酒の弱さを舐めるなよ」
「自慢することじゃないんだよなあ」
言いながら既にシャフトは聴く姿勢をとっていた。基本、会話の主導権は常にグラハムが握っているため、グラハムが話し始めたらとりあえず聞く、というのが刷り込まれている。ほぼ条件反射である。横暴な上司を持った舎弟の性であり、これもまた悲しい話かもしれなかった。
「しかし、悲しい話だ。シャフトが悲しい話をすると言う。悲しい話をするということは、悲しいことがあったということだ……そうだろう? 悲しいことがなければ悲しい話はできない! つまり今シャフトは悲しんでいる! だというのに俺はなにも気付くことなく……見ろこのガラクタの山を! ずっとこれを解体し続けて……今の今まで! しかも最後まで解体できなかった! 悲しい! 上手くいっていたのにだ!」
「まあ、そうっすね。ずっと喋り倒してた割に続いてましたねえ、お手玉……」
のっけからそうだったので口を挟む機会がなかったとも言える。
「というか、俺が悲しいわけじゃないんすよね」
「は? まさかシャフト、無から悲しみを生み出すつもりか? 錬金術師でも挑戦しないような非道を為すというならば俺はお前の兄貴分としてお前を止める義務があるが」
「いえ。俺は悲しくないんすけどね、この話をしたらグラハムさんが悲しみそうだなあと思って」
「俺を悲しませるという非道を為さんとするならば、俺にはシャフトの腹を殴って止める義務があるが」
「なんで今具体的に暴力を提示されたんすか俺。ていうかまず、話を聞いてから殴るか決めてもらっていいですかね? いやどちらにせよ殴ってほしくはないんすけどね?」
「成程、一理ある……ならシャフト、聞かせてみろ。悲しい話とやらをな! 俺を悲しくさせてみるがいい!」
びし、と。二丁レンチを二丁共シャフトに突き付けて、グラハムが叫ぶ。上がり切ったハードルに辟易したシャフトは溜息を吐いた。この前振りからトークを開始したいはずがなかった。するしかないのだが。
するしかないので、渋々シャフトが語り始める。
「あの、俺たちがよくたむろってた廃工場、あるじゃないですか。グラハムさんが昔働いてた」
「ああ! 暫く拝んでいないが、そうだな……あれも悲しい話だった。俺の働いていた工場というのが、」
「すみません。それ長くなるやつなので一旦置いといてもらっていいですか。大丈夫です俺たちみんなその話知ってますから」
「……悲しい。悲しい話だ……まあいい。この悲しさはシャフトにツケておく。それで? あの工場がどうしたんだ。遂に取り壊されたか? 更地にでもなったか。だとしたら確かに悲しい話だ……経営的に壊したのが俺なら、物理的に壊すのも俺でありたかった。その機会は永久に失われたというわけだ……建物の解体か。いいねえ、ワクワクしてきたよ。あんなに大きな物を壊せたらさぞ気持ちがいいんだろうなあ! この腕一本で工場ひとつ! さぞ充実した……いや駄目だ、どうしよう。どう転んだって悲しい話にしかならないぞ、おい。もうなくなってしまった物を壊すだなんて、流石の俺でも無理難題だ……ドーナツの穴を食えと言われているようなものじゃないか!? なあシャフト、ドーナツの穴ってどうやって食ったらいいんだ?」
「知りませんよ……あと、盛り上がってるとこ悪いんですけど、違います」
「なんだ、違うのか……すまないシャフト。どれが?」
「本題見失わないでください、工場です。取り壊されてません」
「なんだ、違うのか。だとしたらどうした?」
「燃えました」
「……なに?」
淡々と。
あくまでも淡々と告げるシャフトの声は、それ故に嘘だとは思えなかった。もっともらしく聞こえるように、なんて色気は一切なく。シンプルに訊き返すしかできなかったグラハムに、更に淡々とシャフトは続ける。
「焼けました、そこそこ派手めに。なんでもう、廃墟って呼ぶのも微妙なくらいには建物らしさも残ってない……らしいっす」
俺も又聞きなんで、実際どうなってるんだか詳しくは知らないんですけどね。
グラハムは、一度口を開けると、なにも発声せずに口を閉じた。開閉を数度繰り返す間、手元はレンチ二本でのジャグリングで遊ばせている。
「……原因は?」
グラハムにしては珍しい、端的な問いだった。先程も聞いた前置きが繰り返されるのにもおとなしく黙っていた。
俺も又聞きなんで、実際どうなってるんだか詳しくは知らないんですけどね。
シャフトが言う。
「――人体発火、らしいです」
久々に見た工場は様変わりしていた。これが人間ならば『成長』や『老い』によってままあることだが、建物が様変わりしていたとなれば話は別だ。建て替えたか朽ちているかで大きく二択、あとは様変わりどころか取り壊されて更地だったなんてパターンもなくはない。
今回の場合は焼失である。
いや、失われてはいない。一応。
一応建物としての形は残している。しかしまあ、炎に呑まれただけあって、廃屋レベルは確実に上がっていた。廃〝屋〟と呼ぶには屋根が足りなかったかもしれないが。勿論、グラハムたちが根城にしていた時には既に星を見るのにもってこいの物件だったけれど。今はそれすら通り越した、完全な吹き抜け構造と化している。
そんな懐かしの廃工場を、愚連隊御一行が踏み荒らしていく。
「人の気配ねえなあ」
「警察もいねえじゃん、いや助かるけど」
「もう捜査とか終わってんだな」
「つーか向こうの方吸い殻めちゃめちゃなかったか? 前からあんなだっけ?」
「今ここ使ってる奴等が吸ってんだろ。でも工場ン中にはねえな……」
「焼けたんだろうよ」
「ああ……」
「まあ俺ら煙草あんまやんねえからなあ」
「グラハムさんが煙好きじゃないもんな」
「酒も駄目だから集まって飲むのもあんまねえよな」
「なんて健全な愚連隊なんだ、俺たち」
「健康ではあるかもしれないけど健全ではないだろ」
「健全な人間は誘拐とかやらねえんだよな」
「そもそも健全な人間は不良やらねえんだよ」
「健全な人間がこんな時間に徒党組んで廃工場に忍び込むわけねえだろ」
騒ぎながら歩く一同は、古巣の炎上にもさして感傷を抱かないようだった。寧ろ普段よりも口数が多い。
推察するに――彼らのボスの口数が減っているからだろう。
その時のテンションが正の方向に振り切れていようと負の方向に振り切れていようと、グラハム・スペクターという人間は、基本的にべらべらと喋り続ける。にもかかわらず、到着してからのグラハムは無言を貫いていた。本当に、放っておいたら延々と喋り続けるのだ、この男――ここまで静かなのは明らかに異常事態であり、いっそ、いやもう普通に不気味だった。それで皆、ボスの生む静寂に耐え切れなくて、益体もないことを駄弁り続けている。グラハムはグラハムで、部下の生み出す喧騒の中、沈黙のまま現場を検閲していく。
「……人体発火」
ぽつり。工場に来てから初めての言葉に、愚連隊一同は揃って傾聴の姿勢をとった。それから、揃ってシャフトへと視線を遣った。渋々、シャフトが前に出る。
「はい。人体発火」
「人体発火、とは言うものの……真実身の内から炎が躍り出るような事例は、ほぼ、ない。大抵、外に火元がある」
「そうっすねえ。まあ、この場合は煙草ですかね」
「だが、煙草を吸っていたからって、それだけで燃え上がるわけじゃない……そうだったら今頃、外は焼死体だらけだ。燃料が要る。火を育てる、燃料……」
「燃料ですか。なんでしょうね、例えばニースの火薬……いや、ないな」
寧ろここには持ち込むなと、口を酸っぱくして言っていたような覚えがある。廃とはいえど仮にも工場、火気厳禁だと主張して。
まあ確かに尤もなのだが、物体の破壊における方法論について意見の相違があるので、その信念に反する代物を置いておきたくなかった可能性も拭えない。
そもそも、己の爆弾を猫かわいがりしている爆弾狂が、火薬を廃工場に放置しておくなんて考え難い。
では、他の可能性があるとしたら。
また不気味な静けさを獲得していたグラハムが、あ、と声をあげた。
声のついでに顔も上がる。
「……悲しい話をしよう。あー、いや……悲しい話だと思うんだが確証が持てないので、今から確認しようと思う。来いお前ら」
「え、グラハムさん解けたんすか。人体発火の謎」
「分からん。分からんし、恐らく、謎という謎でもない……どうせ警察だってとっくに調べをつけてるだろうよ。だから俺は、俺の自己満足のために来てる。――ああ、やっぱり開いてる!」
語りながら、グラハムは迷いの無い足取りである一点を目指した。目指した先にあったのは扉だ。瓦礫の向こうで薄く開いている扉。しかし彼の舎弟たちは一様に困惑していた。
――そんなとこにそんな扉、あったっけか。
なかったはずだった。いや、あることに気付いていなかった。
「ここは俺が以前勤めていた工場だ。労働環境は最悪だった。思い出すだけで涙が出てくる。ああ、悲しい。この話をするたびに俺は悲しくなる。悲しい話だ」
「グラハムさん、知ってます。みんな知ってます。何回聞いたと思ってんですか、それ。環境最悪なうえに密造酒にまで手ぇ出したもんでグラハムさんがぶっ潰した話でしょう」
「そう。それだ。まさしく!」
女性の腕くらいはありそうな巨大レンチでもって、グラハムは瓦礫を除けていく。
「それってどれっすか」
「密造酒!」
瓦礫を全て片付けるのは無謀だと判断したグラハムがレンチを構え直す。見知らぬ扉をレンチが噛む。
「酒は酒でも密造酒、素人の作った雑な酒だ。禁酒法のあった時代だからな、酒として飲めればなんでもいいなんていう連中が一定数いて、うちの工場で作ってたのはそういう類の酒だった。雑に精製した挙句原液に水を入れて売り捌いてたんだ、悲しいだろう。酒に対する敬意なんてこれっぽっちもない」
てこの原理で扉が開かれていく。
「水を入れても売れるってことは、原液の度数はそりゃあ高かった」
扉の向こうにあったのは、棚と、割れた瓶、まだ割れていない瓶。
「……隠し扉、とかでした? ここ」
「ご名答だシャフト。やっぱりお前らこれ知らないな?」
「知りませんでしたよ。こんなんあったんですか」
「あった。俺も忘れてたし、警察も、ここが潰れたときには気付かなかったと見える。出来上がった酒は何箇所かに分けて隠してたんだが、ここだけ無事だったらしいな」
コンコン。グラハムがレンチで扉を叩く。
「まあ……ただの、全てが終わった状態を見ての当て推量だ。実際なにが起きたかまでは知る由もない。神のみぞ知る……いや神以外にももうちょっと知ってるか……」
愚連隊たちが次々と隠し扉の中を覗き込む。棚と、割れた瓶、まだ割れていない瓶。割れた瓶の中身がこぼれたらしき床の痕。酒。密造酒。度数の高いアルコール。気化。密室。
一面の焦げ跡。
例えばここに、火のついた煙草があったとしたら。
ここにはなにもない。なにも。残骸しか。
「シャフト、やっぱりお前の話は悲しい話で間違いなかった。今も昔もここを壊したのは俺じゃなくてこいつらだ。そうだ、あのときだって、手応えなんてまるでなかった――」
グラハムの目が長い前髪で隠れている。
淀んだ青色が、金のカーテンの隙間で揺れている。
「――やっぱり、手応えのない物を壊すのは、つまらん」