女権話 二人で、回廊を歩いていた。
いつもは墨と竹簡と、革と血のにおいしかしない私を、今日包んでいるのはむせ返るようなわざとらしい甘い香の匂い。
頭には、しゃらしゃらと光る石のゆれる髪飾り。
女としては骨ばった頬に白粉と、乾いた唇にぬるりとした紅。
きらびやかな衣装は、裾が床を掃けるほど長くひらひらと揺れている。
それらはぜんぶ、ただひとりのためのもの。
私の愛したのではない、別の、顔も知らぬ男のための。
「……お手を…」
履き慣れぬかかとの細い沓が、上手いさばき方をもう忘れてしまった長い裾を踏んで転びそうになる前に、周泰は私の手を取って歩いてくれた。
向かう先はこの城の入り口。皆はすでにそこで私と、私を迎えに来る者を待って集まっているから、城内に人けはなくてしんと静まり返っていた。
「庭が見たい」
これで見納めになるかもしれないのだからと言った私の嘘を聞きとがめることなく、黙って周泰は中庭を望む回廊を通ってくれた。
「…ああ、見事だな。」
庭に数多く植えられた、満開の桃の花が辺り一面を薄紅色に染めている。
『孫権様のご婚礼を祝っているようですわね』
と女官の一人が言っていたのを思い出す。
その呪縛のような言葉から逃げるように、私は一つ息をついた。
「…もう少しゆっくり歩いてくれ」
幼き時より永く私を守り続けてきた護衛は、私の歩き方のくせまでよく知っていて、手を取られているとなんの不安もなく歩けたのだが、足元のおぼつかなさを言い訳に、少しでもこの時間を長引かせたかった。
できるだけ、長く、一秒でも、長く、お前と。
目をそっと閉じてみれば、浮かぶのは、けっしてありえない、欲しかった未来。
喜びを胸に詰めこんで微笑む自分の姿、隣には今までもずっと傍にあり続けてくれた穏やかな瞳が私を優しく見つめていて。
ざざ、と風が桃の木を揺らす音は、二人を祝福する、みなの歓声。
頬をなでていく桃の花びらは、このまま愛する男に手を引かれ、乗り込む花轎から零れたもの。
そうであったら、どんなに……どんなに。
誰を恨むでもない。自分で、決めたのだ。
信頼できる老臣に媒人を務めさせ、六禮の手はずを整え。
相手をどの家の誰にするかも、すべて自分で選んだ。
発言力の大きい、地元の名士の息子。乱世に名家に生まれながら政治にも軍事にも興味を持たぬ、そのくせこんな二十歳も数年過ぎたとうのたって久しい小賢しいばかりの女まで抱きたがるような好色の、扱いやすい暗愚の男を。
欲しいのは名士の後ろ盾と資金。孫家を脅かすような野心はいらない。
媒人が話を持ちかけたとき、その家は息子の悪評が世に出回る前に厄介払いが出来たと大喜びで受け入れたという。
そう、女狂いの放蕩息子がその家名と財産を食いつぶす前に、孫呉のためにそれを使ってやるのだ、ありがたく思えばいい。
ようやく、孫家のもとで江東の地が一つにまとまろうとしていたところだった。
その兆しが見えかけたときに兄が死に、それでも孫家を支えてくれる者たちのためにもと、自ら君主として立つことを決めた。
華やかさよりも実用的な衣装に身を包んで執務に打ち込み、時には剣を取って戦場を駆けた。
一方で、なお動かしがたい自分が女なのだという事実を、政略に生かすこともためらってはいられなかった。
地盤を固め、孫呉の天下を臨むために、手段を選んでいる余裕など私にはないのだ。
孫家の次子であり、長女。
出自も知れぬ一介の臣下にくれてやるには、あまりにも利用価値のありすぎる我が身よ。
それだけが、今、少し、恨めしい。
時が流れるのを恐れるように、知らず息をひそめていた私に、現実は愛しい男の声を借りて残酷にそのときを告げる。
「……着きました」
立ち止まる。そっと、繋いだ手が離れてゆく。その隙間から、永遠に続いて欲しかった時間がさらさらと流れ去って消えていく。
指先が追い縋るのを、こぶしを握り締めて必死に耐えた。
目の前には重苦しい大きな扉。
この向こうには、私が愛すべき沢山の人々がいて、私と、孫家と孫呉の繁栄を願ってくれていて、私は、それに応えなくてはならなくて。
手を離した後、扉の前で動けずに立ち尽くしている私の方を向いて、周泰はその大きな体を折り曲げ、拱手して頭を垂れた。そんな無骨な態度も何もかもが好きだった。
「…孫権様」
そして、顔を上げると、私をまっすぐに見つめて言った。
「……お幸せに……」
………ああ、周泰、私が幸せになれる道など、どこにもないのだよ。
もしもお前にどこか遠いところに連れ去ってもらったとしても。
私はきっと国を捨てたことを後悔するだろう。私に掛けられた重責のすべてを裏切ったと、後悔して泣くだろう。
愛するものといられる喜びと、そのために犠牲にしてしまったものへの罪悪感で、心が二つに引き裂かれてしまうだろう。
そしていつか、お前を愛したことを悔やむかもしれない。
なによりも大切な、たったひとつの想いだからこそ。
お前を選んで後悔するくらいならば、
私は、
別の男を選んで一生お前を想い続けよう。
「…ありがとう。」
ああ私は今、上手く笑えたろうか?口の端をなんとか上げられたことしかわからなくて、そんな顔を見られたくなくて、すぐに扉の方へ向き直る。
もう、行かねばならない。扉の向こうからうっすらと人々のざわめきが聞こえる。周泰が、扉に手を掛けた。
「じゃあな。今まで…世話になった」
震える足を構えなおし、背筋を伸ばして前を向いたならもう私は一人の女ではなく孫家の姫、そして今日、誰かの花嫁。
お前ではない、誰かの。
「………いえ……なにも…」
お互い、告げることも、告げられることもなかった恋だけれど。
決して自ら触れようとはしなかったお前の、はじめて差し伸べてくれた手のぬくもりだけ、証と信じて胸に刻んで忘れない。
忘れないから。