アイツなんかに近づくな「あれはやめておけ、陸遜。」
回廊で呼び止めてそう言えば、涼しげで大きな目がぱちりと瞬いた。
「あれ、とは何ですか?呂蒙殿」
「この間、魯粛殿が連れてきた諸葛亮という者のことだ。今日の軍議の後、話しかけに行ったそうだな。なんでも陣形の教えを請うていたとか。」
『諸葛亮先生、宜しければ是非、お話を伺いたいのですが』
『おや、あなたは…』
『私は陸伯言と申します。』
『ああ、あの…』
「ええ。…それがなにか問題でしょうか?」
「今、あの者がどういう立ち位置にあるかを考えないといかん。孫権様のご決断で決着がついたとはいえ、先日の軍議で穏健派の文官武官をしたたかにやり込めたあやつをよく思わない古参の臣も多い。いらんいざこざに巻き込まれるのは避けるべきだ。
それにお前も見ただろう。あの男の底知れぬ謀略とそれを可能にする話術を。迂闊に近づいてはただではすまんぞ。」
「ですが、かの水鏡庵の臥竜に話を伺いたいというのは知を志す者として当然のことです。呂蒙殿だって、如何なるものからも広く学べと仰っていたではないですか。」
「それはそうなのだが、しかし、ただでさえ孫劉同盟の締結にはまだ綱渡りの状態だからな、交流を持つにしても今の状況下では利点よりも危険のほうが大きいと言っているんだ。」
「お言葉ですが、だからこそ今しかないのですよ。かの者と議論を交わし、引き出せる知識を可能な限り獲得しながら真意を測ろうと試みることは、私にとって大きな経験になるはずです。あるいは孫呉のためになる何かを得られるかもしれません。同盟が成り立つか分からず成ったところでどれだけ続くか分からないのですから、今の機会を見過ごすべきではないのではないですか。好機を逃すのは拙速による失敗よりも場合によっては損失が大きいと教えてくださったではないですか。」
呂蒙殿らしくないですね、と言われて、ぐっと一瞬言葉に詰まる。
こちらが言っていることは正論で、間違ってはいないはずだ。陸遜ももちろんそれを分かっているだろうに、あえて引き下がらないのはおそらく俺の言葉に心の底からの信念による力が足りないせいだろう。後ろ暗い気持ちを抱えた状態でこの聡明な少年を説得できるわけがないことは、自分が一番よく分かっている。
…結局のところ、俺は気に食わんのだ。あの何もかも見透かしたような目をした若者が、この、軽やかな燕のような俊才の少年と親しげに交わることが。
『諸葛亮先生!』
(俺だって、言われたことがないのに。)
「それに、周瑜殿も先日来、諸葛亮先生を毎晩居に呼んで語り合われていると聞きました。虎穴に入らずば虎子を得ずと以前戦場で仰っていたのは呂蒙殿ですよ。」
「お前の気持ちも分かる。だが、お前と周瑜殿では意味合いが違うだろう。都督というお立場の下であえて親しい態度を取られることで、あやつ自身に対しても周囲に対しても常に牽制を利かせておられるし、可能な限りの情報を引き出すおつもりでもあろう。魯粛殿だってそうだ。」
「それはもちろん承知しております。…でも、かえって私のような若輩だからこそ引き出せる言葉もあるかもしれませんよ。用心深い方ではあるでしょうが、あるいは私が陸家の者であることで周りからどう見られているかを踏まえた上で、ものを知らぬ子供である私を利用しようと何かしらの意図をほのめかすことだってあるかもしれ…」
「おい」
思わず強い声で言葉を挟んでしまうと、大きな目がもう一度ぱちりと瞬いた。
「あまりあやつとおまえ自身を見くびるな。お前ほどの才気をあの男が見抜けぬ訳はないだろう。」
「それは、…」
「俺はお前が誘いに乗るだろうなどとは微塵も思っておらん。が、そうしたことがあったことを周りからどう見られるか、そしてそのこと自体がお前の立場と将来にどのような影響をもたらすのかを考えるととても賛成できんと言っているんだ。」
一息に言ってしまえば我ながら大人げないと思いつつ、取り繕った言葉よりもよほどその耳に届くのだろうと不思議な確信もあった。
「呂蒙殿に疑心のないことはわかっております
よ。…ご心配、ありがとうございます。ご忠言を心に銘じておきます。でも、大丈夫ですよ。私を信じてください。」
少し紅潮した頬でにこりと微笑み立ち去っていく軽やかな足取りを見送って、また一つため息をついて頭を掻く。
「…こればかりはどうにもならんな。」
信じてください、だと?
ああもちろん信じているさ。お前のその才も心根も。だが、それでも、
なあ陸遜、頼むから、
あやつにだけは、近づかんでくれ。
(俺の心がどうにかなってしまいそうだから)