好きな人に会いに行くならお洒落するだろ③あつい。暑い。熱い。
思考がぼんやりしている。目の前は霞んでよく見えない。仰向けに横たわったまま、指1本動かせない。全身にじんわりと汗をかいているのが分かる。
光が遮られた。誰かが自分に覆いかぶさっている。シャツのボタンを1つ1つ外され、晒された肌が空気に触れてひんやりした。
何をしているんだろう。何をされているんだろう。
頭がうまく回らない。なんとか起きようとすると、それを咎めるように瞼に大きな手が置かれた。視界が暗くなり、優しく撫でられると力が抜ける。
伏黒は襲いかかる眠気に抵抗できなかった。
ハッと目が覚める。
目の前には見知らぬ天井。木目。消えている照明。明るい部屋。知らない匂い。
何処だ、ここ。
ガバッと勢いよく起き上がる。心臓が嫌な音を立てている。全く見覚えのない和室に寝かされていた。布団も、今自分が着ている浴衣も、何も知らない。朝か昼か、太陽が完全に昇りきっていることは分かる。
なんだこれは。誘拐か?それにしては手足は特に縛られてもいない。昨日の記憶を思い出そうとしたが、途中からプツリと途絶えている。そう、途中まで。
スクナさんと裏梅さんと一緒に飲んでいて……そこまで考えてから、伏黒はやっとスクナの存在を思い出した。あの後どうなったんだろう。1人で帰れた記憶はない。だからこそ今こうなっているんだろうが、それならばスクナと裏梅はどうなった?
そのタイミングだった。伏黒の横の障子がスラリと音を立てて開き、「起きたのか」と聞いたことのある低い声が聞こえたのは。
「……スクナさん?」
「調子はどうだ?二日酔いにはなっていないか?」
室内に入ってきたスクナは、布団の横にドカりと胡座をかいた。じっと赤い目に見据えられて緊張してしまう。
「え、えっと……大丈夫です……いや、あの、ここは……」
「俺の家だ」
「は」
曰く、昨夜伏黒が酔いつぶれて眠ってしまったので、家の場所も分からず、仕方がないのでスクナの家まで連れてきたらしい。そこで伏黒を介抱してくれたのだと。汗をかいていたから体を拭いて、着替えさせて、布団に寝かせて……伏黒は聞きながらどんどん顔を青ざめさせていった。それから布団の上で正座をし、手をついて、綺麗な土下座をした。
「大変、ご迷惑を、お、おかけしまして……!」
「気にするな」
「気にします!!」
昨日から一体どれだけ恥を晒せば気が済むのだろう。穴があったら入りたい。いやもはやそのまま生き埋めにしてもらっていい。死にたい。
心の声が漏れて、伏黒は「死にたい」と呟いた。「死ぬな」と即座に返されたが。
「それよりも、まず水分をとれ。まだとっていないだろう」
「はい……すいません……頂きます……」
動揺しすぎて全く気づいていなかったが、起きた時にすぐ飲めるよう枕元に水差しとコップが置いてあった。申し訳なさはあったが、喉がカラカラに乾いていたので有難く貰うことにする。1口飲むとスポーツドリンクのような、しかし市販のものとはまた少し違うような味がした。
コップに注いだ水を飲んでいる間も、まるで観察しているかのようにスクナがじっと見てくるので、伏黒は気が気でなかった。
「朝食をお持ちしました」
暫くして、誰かの足音が近づいてきた後、障子が開いて裏梅が姿を見せた。お盆の上には湯気の上がる丼茶碗が。
「玄米の茶漬けです。二日酔いにききます」
「あ、ありがとうございます……」
二日酔いといえばしじみの味噌汁のイメージがあったが、玄米もいいのか、と伏黒は新たな知見を得た。別に二日酔いのような症状は出ていないが、用意してくれた手前言わなくていいだろうと、また有難く受け取ろうとした、時。
「伏黒恵、俺が食わせてやろう」
スクナがニッコリと笑ってそう言った。
言っている意味が一瞬分からなかった。しかも、胡座をかいた膝をぽんぽんと叩いて、言外に「膝に来い」と促している。
ちょっとよく分からなかった。
やはりスクナは迷惑していたのか。怒っていたのだろうか。だからこんな、罰ゲームのような羞恥を覚えることをさせようとしているのか。怖い。
いや、悪いのは全て自分だ。甘んじて受け入れるべきだろう。何を考えているのかさっぱり分からないスクナの表情をこれ以上見られず、早くしろと目線で訴えてくる裏梅に背を押され、伏黒は怖々とその膝に座った。なるべく体重はかけないようにした。
「凭れていいぞ。遠慮するな」
「ひぃ、」
腹に腕を回され抱きしめられた時点で無駄に終わったが。
その後スクナは、宣言通り伏黒に茶漬けを食べさせた。ふうふうと息を吹きかけて冷ましてくれるオマケ付きだ。緊張で味など分かるはずもなかったが、きっと通常時に食べていれば美味しかったんだろう。
わざわざ洗濯して乾かしてくれた服に着替え(今日だけでもう何度謝罪とお礼を言ったか分からない)、風呂をすすめられたが流石に申し訳ないと断り、家まで送ると言われて更に断り、なんとか駅までで妥協してもらった伏黒は、心労で内心ぐったりしていた。
「本当にここでいいのか」
「はい、もう本当に、すいません……ありがとうございます……」
裏梅の運転する車から降りると、伏黒は後部座席に座るスクナに向かって深々とお辞儀をした。いつになるか、そんな機会が訪れるのかは分からないが、今度会う時があればお礼に何か良い土産を持っていこうと決心した。スクナの家から出た時に見えたとんでもない豪邸のことを思うと、満足してもらえそうな土産の金額が恐ろしいことになりそうだが。
「ところで伏黒恵」
「はい?」
ここでお別れかと思いきや話しかけられた。まだ何かあるんだろうか。
「俺たちはもう仲良しというやつだと思うのだが」
「はあ……?」
「そろそろ敬語をやめて、名前も呼び捨てに……」
「いや無理です」
「何?」
思わずスクナの言葉を遮ってしまった。しかしどうにも聞き捨てならなかったので仕方がない。
「スクナさんは神作家なんです。神様なんですよ。そんな相手にタメ口どころか呼び捨てなんてできるわけないでしょう!?」
「なんだと……?」
こればかりはいくらスクナの頼みでも絶対に譲れない。運転席で静かに話を聞いていた裏梅もうんうんと大きく頷いている。
「むしろ裏梅さんみたいに俺も様付けで呼ぶべきなんじゃ……」
「…………今まで通りでいい」
とても、物凄く、渋々といった様子でスクナが言った。心做しかシュンとしているような気がしなくもないが、まあそれはないだろう。
スクナが「またな」と言うと車のドアが閉められ、元来た道へ走っていった。それを見送ってから時間を確認する。11時。月曜は午後からの講義しかないので時間にはまだ余裕がある。まさか朝帰りをする羽目になるとは思わなかった。はあ、とため息を吐いて駅に入ろうとした時、横からいきなりガシリと腕を掴まれた。
「は?」
「ちょっと、どういうことよ」
そこにいたのは、昨日の朝全身コーディネートしてくれた友人の釘崎だった。何故ここにと思ったが、彼女も同じく大学でここの駅を使うのだから、偶然という程でもない。それよりもやけに険しい顔で睨んでくるのが分からない。
「どういうことってなんだよ」
「さっきの黒塗りの高級車よ!あんたそこから出てきたでしょ!?チラッと見えたけど、刺青入ったヤバそうな男と話してたじゃない!」
「あー……いや、別に」
「誰?詳しく教えろ」
「……釘崎お前、男の趣味変わったな?」
「違ぇよ馬鹿!!」
冗談だというのに頭を思いっきりぶん殴られた。まあ今のは自分が悪いが、なんとか誤魔化されてはくれないだろうかと思ったのだ。
「昨日と服装変わってないし、まさか朝帰り?」
「…………」
実はあの人が自分の推している神作家なのだと言って、信じてもらえるのだろうか。しかし正直に言わなければあらぬ誤解が生まれそうだ。その際には自分の失態まで話さなければならなくなる。
「まさか借金……払えないから代わりに体で、ってこと?」
「違う。借金はしてねぇしあの人と体の関係もねぇ」
「冗談よ」
結構本気で言ってなかったか?今。
「まあいいわ。今日は午後からでしょ?まだ時間あるし詳しく教えなさいよ」
結局見られたからには言わなければならないのだ。伏黒は大きなため息を吐いて駅に入った。せめて先に風呂に入りたいと思いながら。
伏黒は全く気づいていなかったのだが、駅に向かう伏黒の項の下、ちょうど服に隠れるか隠れないかの微妙な位置に、キスマークのような赤い印がチラリと見えて、釘崎は思わず顔を引き攣らせていた。