黄緑青緑夢を見た。何度も見る夢だ。午睡に見るそれは、よく読んでもらった絵本の風景に僕がいた。
その憧憬の輝かしさに拝したい気持ちが芽生えていた。
僕は高台から眼下の景色を望んでいた。小さな川の向こうの時計台は、時報を告げる平和の音を奏でていた。僕の皮膚の下に吹きすさぶような、歪な音で──
場所が変わると僕は林の中の、日の当たる場所にいた。
平静を保つ僕の前に、絵本の中で主人公が讃えていた石碑があった。
数十歩先にある石碑はその存在だけで僕を酷く刺激し、心中の脆いアパテイアを一笑していた。
光を放つ。その光で、いたくて僕は目を醒まし──
「って、この話前にもしたよね」「うん!
でも夢を話す時のアイクはいつも楽しそう!遮るのがいやになるほど」
「ルカ……」
僕の作業机の前で楽しそうな顔をしているのはルカ・カネシロ。その溢れるカリスマ性で大物だとは思っていたが……彼と飲んでいる時に耳元で囁かれたマフィアのボスという言葉に、僕は肯きつつもうっすら退路を失った気がした。何はともあれ、今は親密な関係で、最近は僕につきっきりだ。
それにはおそらく2つの理由がある。
1つは、取り上げるまでもない些細な友達間での付き合い。もう1つは、巷で起きている失踪事件。被害者が闇取引を暴こうとしたジャーナリストや記者たちで、恐らく、いや確実にマフィアが絡んでいるものだった。(ルカ曰くナンセンスな奴らだから)
「大丈夫だよ」僕は優しくルカに諭す。「?何が」
「僕は文豪だから、混同されることはない」
「……分かってくれるかな?アイクの文の良さを」ルカは手に持っていた新聞紙をぎゅっと握りしめ、少し語気を強めて言った。
「少なくとも俺はアイクがそんな奴らに巻き込まれてほしくないし、そうなるぐらいなら」一呼吸置いて、「絶対に君を守る!」彼は僕にそう言ってくれた。
「ルカ、心配してくれてありがとう」腕を組んでいた彼の手に自分の手をそっと重ねて、立ち上がる。
「君のえがく夢は、たとえ空想でも地に足がついて、いつか僕たちを照らすよ。今はそんな気持ちだけでも十分嬉しい」
するとルカは急に立ち上がって、大型犬よろしく僕に詰め寄った。
「そうだ!アイク!俺めちゃくちゃ良い場所見つけたんだ!今から一緒に行かない!?」「唐突だね。分かった……どこにあるの?」「内緒!でも水着と替えの下着は用意してね!」彼は笑顔でそう答えた。「はぁ〜……どこまで行くのさ……」
木漏れ日を散々浴び、僕たちは陽を避けて原風景のような森の中をずっと歩いていた。「ルカ〜〜……!」「アイク、めっちゃ暑いね!」「この道、一体どこにつながってるの……」彼は手袋を外して繋いでいたので、青年らしいその手を握り返しながらも先頭の歩調はマイペースで、僕は彼に振り回される。舗装されてしばらく、いや数十年は経ったようなその道をルカと進んでいた。
段々と僕らを覆う森林は猖獗を極め、昼過ぎだというのに僕の見つめる先には、先を歩くルカ以外は深い真緑が支配していた。「ついてきて」「本当にこっちで合ってる?」「うん!」ふっとルカが前を見る。
「ほら、光だ」彼が言ったから光が見えたのか、それとも光が見えたからなのか、暑さに少しやられた頭では前後の文脈が分からなかった。ただ、どちらでも合うと僕は少し思う。
そして僕と彼はその光を頼りに深い深い森を抜け、広がった景色に僕は既視感を覚えた。
「……ルカ、これって……」そこには、夢のような、いや夢そのものがそこにあった。小川と、時計台。風に撫でられて時計台周りの木々が揺らぐ。空気、温度、匂いを伴ったそれは正夢ではなく、現実だった。
ルカに言いかけた。ねえルカ、まるで、僕の夢が現実に──
最初の一語を喋るよりも早く、彼は僕の聴覚と視覚をその身体をもって塞いだ。
「アイク。俺だけを見ていて」僕のメガネに、僕の眼に、彼が映る。一つは虚像で、もう一つは……捉えようのない、それでもただ、僕を鐘の音から守ってくれた実像だった。
ルカのまっすぐな目を見つめ返すことしか出来ず茫然としていると、彼は目を細めその八重歯を見せて言った。
「なあアイク。これが平和の音だって、笑えるね!」「……本当にね」
高台から下に降りて、僕たちはまた歩いた。頭上にある太陽は僕たちの上着や装飾を脱がしに来ていた、暑かったんだ、とても。
「川辺まで行きたいって言ったけど、思ったより遠いな」「実際に足を運ぶと遠さを実感するね……」そんなことを言いながら、何度目かの枝を避ける。
大地を踏み締めて歩いていると先の視界が開け、明るい場所に出た。
「あ」
「これ、石?」
そこには成長途中の、しかし大成するであろう木の根元あたりに腰までの大きさの、そこに一つで存在するには少し不自然な石碑があった。
「あーアイク、あの……」彼は伏目がちに何か呟こうとしたが僕は感銘を受けて、あまり耳に入っていなかったかもしれない。それどころか、彼を遮ってその石碑を見やった。「これって……僕が夢に見ていた光景と全く同じ、というか夢の光景そのままだよ!」
僕は駆け寄り、疲労に目もくれず石に向かって熱く語ってしまったんだ。
「石がこの辺の地質とは異なっているから大昔に氷河に流されてきた可能性があるし、よく見れば石碑として異国の言葉が書いてあるのかもしれない。そして辺りの木が無くなってギャップになっている、でもこの木だけは跡地に生えて新たに成長しようとしているし、なによりもこの絵に描いたような景色!僕が望んでいた通りのものだ!ねえルカ、どうしてこの場所が……」はっとして僕は顔を上げる。「あ、ごめん。アツくなりすぎ……」気遣いと配慮、そして僕の行った振る舞いの答えは、目の前のルカが目を泳がせ、唾を飲み込み、次の言葉を発するまで待つことになった。
「…………アイク、実は」
「ここは、この場所は……もうすぐ小さなマフィア同士の抗争で無くなってしまうかもしれない」彼は上着を腕にかけ、そしてその手で髪を鬱陶しそうにかき上げながら、所在なげな手を頭の上で止めてそう喋った。次の瞬間、彼は静かにその腕を下ろして複雑な顔で言葉を紡いでいった。
「俺にとっては些細な対岸の火事さ。でも現地の写真を見た時に、映っていた遠くの景色が、アイクの言っているような場所だって、分かって」尻すぼみに弱くなっていく彼の言葉に、僕は目を見張ることしかできなかった。それでも彼の言葉の中にある優しさを汲み取ろうと、僕は、溶けそうになる頭の中で今やれることはなんだろうと必死に考える。
「……肩を落とすようなことを言ってごめん。自分でも、どうしてこんなことを言っているのか……どうなるのか……分からなかったから、今、君を連れて行くしかないと思った」しょげる彼に、僕は言葉を選びながら歩み寄る。
「ルカ。君の選択に顔を曇らせる人なんていないよ」え、と目を丸くしてルカは僕を見、その表情に微笑み返して話を続ける。
「たしかに万感の思いはあるけれど、君と一緒なら不安って感情は無いんだ。もし道中で何かあっても、君は僕をかばったと思う。今日君が鐘の音から僕を守ってくれたみたいに
……でもね、みんなの頼れるカリスマであり、ボスでもある僕の友人は世界に1人だけなんだ」あの時に握ってここまで連れてきてくれた手を、今度は僕から握る。
「友のために気遣ってくれる君を僕はとても尊敬しているし、労いたい」「アイク……」
「これだけは言わせて。夢を、夢のままで終わらせないでいてくれてありがとう」お互いに、言いたいことを言えた雰囲気がどことなく伝わった後、僕は汗だくの双方の手を見かねて問いかけた。
「ねえルカ。暑いなら川辺で涼しくならない?」川辺はすぐそこだった。
その清涼な空気にあてられて僕たちは服を脱ぎ、全身で自然を楽しんでいた。
新鮮な水の冷たさ。皮膚の下を通る空虚な風、僕は二度、寒さを味わっていた。
「っはあ!アイク!水冷たすぎて最高!」「早く来なよ!」
顔にひっついている長い髪を振り払った後、その乱雑に服をほっぽって川に飛び込んだ主は川べりで服を畳む僕に手招きしていた。
「今行くよ」そう答えながら上着の上に眼鏡と耳飾りを置く。眼鏡がなくても、耳に穴が開いていても大丈夫なんだ。そう、この現実なら。
つま先から冷たさを慣らしながら僕は少し気になっていたことを思い出す。「……でもルカってボスなんだよね。なんというか、その、大胆すぎない?」「大丈夫!マフィアをやっているときは別の顔!」まるで犬のぴょこんと立った耳と激しく振る尻尾が生えたみたいに笑顔でそう答える。「ここにいたら騒がれると思うけど」静かに波紋を立てて返す返す漣の中に、太ももまで入る。その時、ルカは僕の手を力強く掴んで引っ張った。「ほらアイク。こっちに来て」「わ」体勢を崩して水中の世界に身を投じた僕は目の前の君の顔とうまく目が合わなかった。「今の俺は君の親友の顔でしょ?」
ぱち、とお互いの目の輝きが水中で弾けたとき、僕は君に、一番伝えるべきだったことを思い出した。いつも喉元まで出かかっていたけど、ずっと胸に秘めていたことを。
「ルカ。僕も今まで君に言ってなかったことがあるんだ。実はいつも見ていた夢……その中に君も一緒にいたんだ」口をついて出た言葉とその行動に僕はまるで君みたいだと思ったし、少し照れた。そして一度感情の蓋を開けたら、それらは僕の身体よりも、世界を支配する光よりも早く溢れ出した。
『君が』鐘の音を塞いでくれたこと、『君が』僕と一緒に石碑を拝してくれたこと、他にもいろいろなことをゆっくりと思い出しながら喋った。
君と共に旅する夢路を、僕は午睡のたびに待ち侘びていた。
もうすぐ夕方に変わるような天気が僕たちを包む。お互いに水の上で浮かびながら、僕は軽く微笑んだ。
「君とここにいる夢が今君の手で現実になったことが、僕にとって何よりの幸せだ。本当にありがとう、ルカ。……ね、一緒に笑ってくれる?」
ユーゴは書斎の本を手に取り、彼の先生の元を訪ねた。「センセー!掃除してたら本出てきた!オレ、こういう古い童話も読めるようになりたい!」生き生きと話す生徒とは対照的に、非常に落ち着き払った態度でいた彼の先生はどこのページ?と優しく聞く。「このページなんだけど……」ユーゴは埃を被ったその本を開けて該当のページを指す。そこには挿絵が挟まれていた。小川と時計台の絵と、大樹の下にある石碑の絵。「ん、いいよ。……?」その挿絵を見た瞬間、過去に連れ戻されたような気がした。実際にそんな記憶はないのに、金髪の青年と自分自身が木や石に名を刻んでいた思い出が蘇るような、不思議な感覚を覚える。何か引っかかるがしかし、目の前にいる不思議そうに見つめる生徒を見て、即座に襟を正した。「ああごめん、ええと……」僕は、渡された本を大事に受け取り憧れとして確かにある憧憬を懐かしむようにして、そして1人の語り部として、その物語を丁重に話す。
「昔々、時計台の下に2人の妖精がいました……」