間抜けな絵面だ。それを見て真っ先に浮かんだのはそんなこと。
NRCではよくある事件だ。魔法による模擬戦の授業中、コントロールを失った魔法が見学中の生徒に直撃した。その魔法はだれかのユニーク魔法で、被害に遭った生徒がオンボロ寮の監督生だった。それだけだ。
「…あれ?」
直撃したはずなのに、痛くもなければ身体に変化も無い。監督生は首を傾げた。ラギーやジャミルのような操る魔法じゃないとは思うが、それなら一体なんだろう。
不審に思っていると、身体と頭に違和感が生まれた。
にょき。
「え」
にょきにょき。
「監督生…」
「待って、私どうなってる?」
近くにいたエースを振り返ると、彼は奇妙な顔で固まっている。
「トゲトゲしてる」
「は?」
にょきにょきにょき。
監督生は眉を寄せる。自分の身体を見てみると、身体の表面には鋭い棘が無数に生えており、違和感のある頭を触ってみれば、髪飾りのような蕾が出来ていた。
「なにこれ?」
「………サボテンじゃね?」
「はあ?」
そうっと近づいたエースが監督生に触れようとして、「いでっ‼︎」と棘に刺されて悲鳴を上げた。
「で、俺の所にきたのか」
呆れた顔で、ジャックは監督生を見下ろした。
「うん、ジャック、サボテン詳しいでしょ」
「いや確かにサボテンは育ててるけどよ…」
ジャックの目の前の監督生の頭には今にも咲きそうな蕾が鎮座している。そして全身は棘だらけで、遠目に見るとうっすらと白いものに覆われているようにすら見えた。
「……どうなってんだそれは」
不思議そうにこちらを凝視するジャックに、監督生は苦笑を返した。答えることは出来ない。だって監督生にもよく分からないのだ。
「不思議よね。…棘はあるんだけど、服に穴が空いたり自分に刺さったりはしないの。あと頭のこれは蕾」
「それは見れば分かる」
説明する監督生を、ジャックは呆れた顔で見下ろした。
一言で言うと、今の監督生はサボテンになっている。正確には、サボテンの特性を持っている、らしい。
あの後、教師と共にユニーク魔法の持ち主に話を聞いた。監督生に直撃したのは「対象を植物に変える」ユニーク魔法だとのことだった。ただ発現してまもない為コントロールがまちまちで、対象や状況によって効果や発現の仕方が違うらしい。もっと言えばどんな植物に変えるのかも本人にすら分からないという、なんとも曖昧で迷惑な魔法だった。
監督生の場合はどうかというと、人間の姿のままサボテンの特性が発現したらしかった。棘と蕾が生え、水が欲しくなる。棘と蕾は魔法によってできたものだからだろう、監督生の身に付けている服や靴に穴が開くようなことは無い。着替えをしたり、物に触れることに影響は無いが、人や動物に触れる時だけはサボテンらしくその鋭さを発揮した。実際に試したエースの指からは血が出ていたのがその証拠だ。
「なんでサボテンなんだ」
「それは私も聞きたい」
ジャックの疑問に監督生は心底同意した。綺麗な花でも木でもなくサボテン。魔法の持ち主曰く、対象の性格や心情に影響されるらしいが、その結果がこれというのは監督生には納得がいかなかった。
「解けないのか、その本人には」
「無理なんだって。ユニーク魔法だから無理に解くのも良くないらしくて」
質問だらけだなと思いながら監督生はジャックの問いに答えていく。
未発達な魔法のセオリーに漏れず、この魔法もかけた本人にも解けないタイプのものだった。花を咲かせて魔力を昇華させるか時間経過で元に戻るのを待つしかないらしい。
長くても三日程度と説明を受けたが、何せ監督生は魔力の無いイレギュラーだ。何が起こるかわからないから、出来ることをやるべきだろうとサバナクローまでやってきたのだ。ジャックなら、花の咲かせ方を知っているかと思って。
「そんなすぐに花が咲くとは限らねぇぞ。…まあ、蕾はあるから分からねぇけど」
「そうなの?」
「ああ。蕾だけで咲かないこともあるからな」
「それは困る…!」
監督生は顔を青くした。時間経過で戻るというが、もし違ったら?こんな棘だらけの身体のまま戻らない、なんてことになったら困るどころではない。
「…あとさ、もう一つお願いがあって」
「なんだ」
「とりあえず戻るまでサバナクローにおいてもらえないかな」
おずおずと口にすると、ジャックがぎょっと目を剥いた。
「は?なんで」
「オンボロ寮にいると具合が悪くなるの」
監督生は手を合わせて頭を下げた。この身体になって寮に帰ったところ、どうにも調子が悪くなってしまったのだ。
サボテンはもともと乾燥した地域の植物だ。つまり高めの気温や日光、からりと乾いた気候が適している。かたやオンボロ寮はゴーストの住処だったこともあって比較的ひんやりとして湿気が多い。だからサボテンの身体には合わないのだろうと相談したクルーウェルは言っていた。
乾いた気候のサバナクローは今の監督生にとって最適と言える。何よりここにきてからすこぶる調子が良くて、監督生は「本当にサボテンなんだな私」などとおかしな感慨に耽ってしまった。
「あー…でも俺に言われてもな」
「え、そうなの?」
「俺は単なる一年坊主だからな。それに下手を打ちたくもない」
困った様子で頭を掻くジャックは、言いにくそうに断りをくれる。どうして下手を打つことになるのかはわからないが、監督生も引き下がるわけにもいかない。学園内で唯一の居場所である寮が居心地悪くなってしまったのだ。代わりの場所を探さないと倒れてしまう。
「んー、じゃあ誰に言えばいい?」
確かに、単なる一年生である彼に他寮生を泊める権限なんかないのだろう。それならばと代わりに話を通してもらえそうな人物を脳内で探す。
誰に言えば融通を利かせてもらえるだろうか。寮のことをよく知っていて、雑事を取り仕切っている人物。監督生の頼みを聞いてくれて、寮長のレオナに話を通せそうな人物といえば?
そんな人、監督生は一人しか知らない。
「あれ、ユウくん…ッスよね?なにそのトゲトゲ」
口に出そうとした瞬間、今まさに脳裏に思い浮かべた人物の声が聞こえて驚く。振り返れば、ラギーが監督生の棘と蕾を見て目を丸くしていた。
その姿に、頭の蕾がぴく、と反応する。
「らぎーせんぱい」
「はい、ラギー先輩ですよ…っと、いてて」
いつもと同じように軽い挨拶を返したラギーは、エースと同じように監督生の棘に手を伸ばして顔を顰めた。
「大丈夫ですか⁉︎」
「大丈夫だけど。本物のトゲじゃん、どうしちゃったの」
大して気にした様子も無く、ラギーはぷくりと盛り上がった血の玉をぱく、と口に含んだ。
監督生が事情を説明すると、ラギーは呆れた表情を監督生に向ける。
「何それ、どんくさ」
「おっしゃる通りです…」
言い訳のしようもなくて、監督生は小さくなった。ラギーの言う通り、もう少し監督生が俊敏だったならユニーク魔法を食らうことなく避けられただろう。
なるほどねぇ、とラギーはトゲトゲしている監督生の全身をまじまじと眺めている。
ラギーと監督生の仲は悪くない。顔を合わせればしゃべるし、後輩価格と銘打って格安で助けてくれたりもする。だから今回も何とかしてもらえないだろうかと、監督生は手を合わせた。
「サバナクローに置いて欲しいって?」
「はい」
「別にいいけど。空き部屋はあるし」
「ホントですか⁉︎」
予想以上にあっさりとOKが出て、監督生の顔に光が差す。すぐにいい返事がもらえるなんてと喜んでいると、ラギーは一瞬の間を置いて唇を三日月の形に吊り上げた。
「……でも、タダで貸してやるわけにはいかないなぁ」
ああやっぱり。
ラギーらしい言葉に監督生は「ですよね」と苦笑した。やはりそう上手くはいかないようだ。
隣ではジャックが呆れた顔でラギーを見ている。たぶん、寮はラギーの持ち物でもなんでもないのだから対価を払うのは筋違いだとでも思っているのだろう。
でもそんなことはどうでもいいのだ。監督生に支払える対価でここに置いてもらえるなら、それで構わない。
「何をお支払いすれば」
「レオナさんのお世話と洗濯諸々、オレの手伝い」
「やります!」
出された条件は破格だった。それだけでこれから数日、快適に過ごせるのならば安いものだ。
「シシッ、そうこなくっちゃ」
契約成立ッスね、と笑うラギーと監督生の横で、ジャックが溜息を吐いた。
監督生に割り当てられたのは一人部屋だった。レオナの部屋からもラギーの部屋からも割と近い、角の一室。「仮にも女の子を男のいる部屋に放り込むわけにはいかないでしょ」とラギーは鼻を鳴らしていた。
「うちの寮はそれなりに荒っぽいんで、退寮する奴も多いんスよ」
だから空き部屋もあるのだと教えてくれる。
「その棘、シーツに穴空いたりはするの」
「あ、それが…」
寝具に穴を開けるようなら少し困ると言うラギーに、監督生は首を振った。
サバナクローに来るまでに、いろいろと既に試してある。生き物にのみ機能する棘は制服や靴、学用品を傷付けることは無かった。椅子に座ったりしても椅子に穴は開かず、それを見たグリムが監督生の腕に飛び込んで悲鳴を上げる、なんてことがあったのだ。
「ふぅん、流石は魔法によるものってとこッスかね。サボテンの棘は身を守るためっていうから」
「身を守る」
「そう。ジャックくんの受け売りだけどね。アンタに危害を加える可能性の無いものには何もしないってことなんじゃない?」
ラギーは監督生の棘をまじまじと見ながら、眉をギュッと寄せて意地悪く微笑んだ。
「丁度いいじゃん。ここはサバナクローッスよ。アンタみたいなカヨワイ女の子、棘でもないとすぐに食われちまう」
弱い草食動物であることを暗にからかわれて、監督生は頬を膨らませる。確かにその通りかもしれないが、面と向かって言われるのはあまり面白くない。
そんな監督生を面白がるように見ていたラギーが、ふと監督生の頭に目を留めた。
「それは蕾?」
「そうです。これが咲いたら元に戻るって」
「へえ。…髪飾りみたいで可愛いッスね」
「え」
「まあ、棘だらけだけど」
「先輩!」
シシシッ、と独特な笑い声をあげて、ラギーは部屋を出ていった。
***
翌日、サバナクローは快晴だった。サボテンになったこの身体にはこの乾いた空気は大変に心地よい。湿ったオンボロ寮にいた時は身体が重く、吐き気すらしていたのにえらい違いである。
ジャックにサボテンについて教えてもらうため、監督生は給湯室で大きなペットボトルに水を満たしてから向かった。
「なんだそれは」
「何って、私のご飯だよ」
談話室で待っていたジャックとラギーがペットボトルを見て目を丸くする。監督生が答えると、ジャックが成程と頷いた。
「植物らしく、主食は水分てことか」
「そうみたい。あんまり固形のご飯を食べようと思えないし、たくさん飲めばぜんぜんお腹もすかないよ」
サボテンの内側は水分を沢山蓄えているらしく、砂漠での水分補給にも使われると教えてくれる。一度水をやれば数日保つ品種もあるらしい。
「肉が食えないなんて可哀想ッスねぇ」
ラギーは頬杖を付いたまま監督生を見遣ってそう呟いた。つんつん、と監督生の棘を確認して、「おっ、今日も痛い」と当たり前のことを言っている。
「ラギー先輩はなんでここにいるんですか」
ジャックにサボテンのことを教えてもらう約束はしていたが、ラギーもいるとは思わなくて、監督生は首を傾げた。
「だってアンタにはオレの手伝いをしてもらうんだから。扱いとかいろいろ、知っといた方がいいでしょう?」
そんなものかと頷く監督生にふっと眦を緩めて、ラギーは監督生に自分の隣に座るよう促す。
「いてっ」
「あっ、ごめんなさい」
座る際に距離を見誤って、ラギーの肩に棘がチクリと刺さってしまった。
慌てて謝る監督生に、ラギーはひらひらと手を振るだけだった。そのいつも通りの仕草にホッとする。そして監督生が座ったのを確認して、ジャックがサボテン講座を始めた。
「お前がどこまでサボテンなのかちょっと分からねぇ部分も多いからアレだが、オレが教えられることは教えてやる」
「ありがとう」
ジャックの説明は分かりやすかった。実際に育てているサボテンを持ってきて見せてくれながら、簡潔かつ丁寧に説明をしてくれる。
「サボテンの花って赤いんだね。綺麗」
「たまたまこいつが赤いだけだ。白や黄色もある」
「へええ…」
サボテンの棘はやはり身を守るためであること、あまり世話をしなくても育つイメージがあるが実際はそうではなく、水やりもある程度時間や量に気を使わないといけないこと。特に水については監督生もしっかり聞いた。なにせ、湿気で具合が悪くなってしまうのだから。
「なんか、意外と手間暇かかるんスね」
一緒に説明を聞いていたラギーが面倒くさそうに呟く。そんな顔をするなら一緒に聞いてくれなくてもいいのに、なんて言葉が脳裏を掠めるけれど、口に出すのは思いとどまった。
「そうっすね、特に花を咲かせたいなら手間暇はある程度かけてやらないといけないっす。サボテンの花は愛情で咲くって言われることもあるんで」
「愛情?」
サボテンは蕾を付けても咲かないこともある。水が足りなくても咲かないし、逆に水をやりすぎても根腐れを起こして萎んでしまう。手間暇と、ちょうど良い加減を考えて世話をしてやらねば咲かないことから、その手間暇を愛情に例えてそう言われるらしい。
「だから本当に咲くまで手を抜いちゃいけねえんだ」
「へええ…」
蕾を付けても咲かないなんて、サボテンはなかなかどうして、気難しい植物だ。でも一筋縄でいかないところがいいのだと、ジャックは笑った。
「ジャックは本当にサボテンが好きなんだね」
「でなきゃ育ててないだろ」
「確かに」
本物のサボテンと今の監督生にどこまで共通点があるのか分からない。けれど聞いておけば何かあった時に対処ができるかもしれないと、監督生はジャックに更に詳しく説明を求めた。
「じゃあ監督生くんも誰かの愛で咲くんスかね」
熱心な監督生の背中に、揶揄うような声がかけられる。振り向けばラギーが頬杖をついたまま、つまらなさそうに監督生とジャックを見ていた。
「馬鹿みたいな事言わないでください」
軽く睨み付けるけれど、ラギーは「だってそういうことでしょ」と意地悪そうに唇を歪めて答えるだけだった。
***
監督生の花はなかなか咲かなかった。サバナクローに来てはや一週間、戻る気配のない身体に監督生は溜息を吐く。長くても三日程度で戻るというのは嘘だったのかとすら思うが、おそらく監督生がイレギュラーなのだろう。
これは本当に花を咲かせないと戻れないかもしれない。監督生は焦っていた。
「まあ、普通のサボテンとは違うかもしれねぇからな」
「せっかちだなぁ。永遠に続く魔法は無いっていうし、気長に待てば?」
毎日様子を見に来てくれるジャックもラギーも気にするなと言葉をかけてくれるが、それでも監督生の心が晴れることはない。
(いつまでなんだろ)
物には触れられる。穴を開けることも、棘が折れて痛むようなこともない。そのことは不幸中の幸いだろう。けれど人には触れられなくて、うっかり近づいてしまえば棘が刺さって周りの人間が怪我をする。この間ラギーにしてしまったように、別に危害を加えようなんて思っていないのに棘は周りの人間を刺すし、そのぶん監督生の心はささくれる。
エースもデュースもグリムにまで、監督生の意志とは無関係にちくちくと。ぶすぶすと。
「結構固いッスよね、その棘」
「そうらしいです」
心地よい乾いた風を吸い込みながら、監督生は沈んだ声で答えた。風は吹けども心の暗雲を取り去ってくれはしない。
滞在費代わりに洗濯を手伝いながら、監督生はラギー相手にこの一週間の愚痴を話していた。誰かにあたれば流血騒ぎ、近づくことも出来ず腫れ物扱い。いっそ本物の植物のサボテンにしてくれれば動き回れなくてよかったんじゃないかとすら思う。
洗い終わった洗濯物を二人で順繰りに干していく。物にまで被害が無くて良かったと、洗濯物を持ち上げながら思う。そんなことになったら何も出来なくて気が狂っていたかもしれない。
作業の間にもぶつぶつと呟かれる愚痴を、ラギーが右から左に聞き流していく。相槌は適当で、果たして話を聞いているのかも怪しいがそれで構わない。生産性の無い愚痴なんてものは吐き出す事さえできればいいのだ。
「初めて見た時もちょっとつついただけで血が出たもんなぁ」
あ、ちゃんと聞いてたんだ。
てっきり話の内容なんか聞いていないと思っていたところに、ラギーから思い出したように言葉が返ってきた。
「その節はすいません」
「いや、あれはつついたオレの自業自得でしょ」
けらけらとラギーは笑う。たいしたことじゃ無いと笑い飛ばす声につられて、監督生も微笑んだ。
「お、笑ったッスね」
「え?」
「日に日に暗い顔になってくから。そんなに嫌なんだなあって思って」
そんなに顔に出ていただろうかと監督生は自分の顔を触る。ラギーは「出さないように頑張ってんのは分かるッスよ」と申し訳程度のフォローをしてくれた。
ラギーの態度は棘があっても変わらない。監督生が距離を見誤って刺してしまっても、その後も避けることもなく、腫れ物に触る様な態度も取らない。サバナクローにいる間も手伝いと称してさりげなく面倒を見てくれている。
ラギーの横顔は飄々としているけれど、決して冷たくはない。それらに救われている部分は、確かにあった。
「……サバナクローはすごく居心地いいですよ」
「そりゃあサボテンだからでしょうが」
「そうですけど。……まあでも確かに、勝手が違うっていうか、慣れなくてしんどいなぁ、と」
「ふうん。……アンタって人を傷付けたりとか、慣れて無さそうだもんなぁ」
そう呟いてラギーは洗い上がったばかりのシャツを広げた。
うぐ、と監督生は言葉に詰まる。そんなものに慣れてたまるか、と思うけれど、言葉にするのは躊躇われた。
不用意に動くだけで人を傷つけるから、普通に行動するだけでも神経を使う。皆が腫れ物に触るように監督生から距離を取る——当たり前だが——ことも、初めは仕方がないと思えたけれど日が経つにつれて耐え難くなっている。人を傷つけることに慣れていないこともそうだけれど、誰にも触れず触れられず、傷付けないようにと緊張したまま毎日を過ごすことが予想以上に監督生にストレスを与えていた。
いつも寂しくなったりモヤモヤしたときはグリムを抱いてふかふかした耳に頬擦りしていたのに、あの狸は真っ先に「オレ様痛いのは嫌なんだゾー!」とデュースの肩に逃げてしまった。結局この一週間近寄っても来ないのだから薄情なものだ。だから余計にストレスが溜まる。
誰かに甘えたい、撫でるでも抱きしめるでもいい、触れられたい、なんて普段は思い付きもしない甘えたことを考える。でもそんなの、一歩間違えば破廉恥まっしぐらな思考すぎて口には出せない。
まったく、どうしてサボテンになどなってしまったのか。どうせならもう少し、せめて触れるのに害のない植物が良かった。
「そういえばさ」
相変わらず洗濯物を干す手は止めないまま、ラギーが話し始める。思考の海に沈んでいた監督生は慌てて隣のラギーに意識を戻した。何ですか、と続きを促せば、ラギーはこちらを見ないままで続ける。
「ユウくんは、ジャックくんのことが好きなの?」
「は?」
思わず手を止めてしまった監督生は、目を丸くしてラギーの横顔を見上げた。
唐突すぎる話題の転換に、今までの流れでそんなことを考える要素があっただろうかと考える。けれどすぐに無いなと判断を下して、監督生はラギーをまじまじと見つめた。
明るい髪色を持つハイエナは、相変わらずこちらに視線を向けないまま、何も含みは無さそうな顔で作業を続けている。
何のつもりで質問を突然してきたのだろうか。何か企んででもいるのかと思っていると、ようやくラギーはチラリと監督生の方を見て首を傾げた。
「違うの?」
「ち、違いますよ。どうしてそんな」
「だってジャックくんのとこに相談に来たでしょ」
それは単にジャックがサボテンに詳しいからだ。彼のサボテン好きは割と知られているし、おかしな話ではないと思う。そう答えると苦笑が返ってきた。
「いや、むしろだからサボテンなんじゃないかって思ってたんだけど」
「どういうことですか」
ぽかんとする監督生に、ラギーはテキパキと洗濯物を干しながら説明を始めた。
「だってサボテンなら絶対ジャックくんに話を聞けるじゃないスか。なんならお世話もしてもらえるかもしれないし。ジャックくんの好きなサボテンになって、好かれたいのかなぁって。無意識かもしれないけど、あんたのそういう気持ちがサボテンになって現れたんじゃないかって」
どんな植物になるかは対象の性格や心情に左右される。確かにそう説明はされたけれど、そんなふうに思われていたとは知らなかった。
ジャックは友人だ。意外と面倒見が良くて優しいことは知っているけれど、友達以上の感情を抱いた事はないし、ジャックだってそうだと監督生は思う。少なくとも監督生にとって、ラギーの指摘は青天の霹靂だった。
「……その様子だと本当に違うみたいッスね」
眉を顰めて困惑しきりの監督生を見て、ラギーはどこか安心したように眦を柔らかく緩めた。あっさりと引き下がり、薄く微笑む。
誤解が解けたのはいいが、その柔らかさにまた監督生は困惑した。そんな風に微笑まれる理由が分からない。
なんで、どうして。そんな言葉が頭の中を回り始める。
「だとすると、アンタにサボテンに通じる何かがあるんじゃないの」
「どっ…どこがですか」
今度はラギーの瞳が悪戯っぽく細められた。先ほどの柔らかさは消えて、いつも通りのラギーの笑顔になる。
そのことにホッとして、監督生は訊き返した。
「んー、素直じゃないところとか。弱いくせに強がったりするところとか?トゲトゲしてるサボテンぽいと言えなくもないし」
「……それはディスられてますね私?」
「あ、そう聞こえた?ごめんごめん」
そんなつもりはなかったんだけどなぁと笑うラギーは急に機嫌が良くなったようで、尻尾がゆらゆらと揺れている。
新しい洗濯物を求めてカゴに手を突っ込みながら、ラギーは軽やかに続けた。
「まあ、触るのも触られるのもダメだってのは確かにちょっとしんどいッスかね」
どきり、とひとつ心臓が音を立てた。
ラギーはどこまで気付いているのだろう。
誰かに抱きしめられたい、触れられたい。傷付けるのも傷付けられるのも嫌だけど、それでもこんなのは寂しい。そんな、監督生の胸にあるこの気持ちをどこまで。
サバナクローの乾いた空気は心地良い。けれどここはあくまでも仮初の場所だ。それを言うならこの世界に監督生の居場所なんてあるのか分からないけれど、でもオンボロ寮だけはそう思っても許される気がしていた。なのに、そこに帰れないなんて。
洗濯物を干す動きが遅くなる監督生に気付かないふりで、ラギーは洗濯物を手際よく干していく。のろのろと動く監督生を咎めもせずに、ラギーは相変わらずご機嫌な様子で、監督生の手にある洗濯物まで引き受けてくれた。
「じゃあ、この話は覚えてる?サボテンの花は愛で咲くってやつ」
監督生は小さく頷いた。先日ジャックから教えてもらった話だ。ラギーもいたけれど、らしくもない茶々を入れて面倒そうに聞いていただけかと思っていた。
ラギーは最後の一枚である真っ白なシーツを広げて干すと、くるりと監督生を振り返る。後ろに拡がる真っ白なシーツが日差しを吸い込んで、ラギーの髪色を透けさせた。
逆光になっていて、その表情は読めない。
「ねえユウくん、本当にジャックくんのことが好きじゃない?」
「……?はい」
またしても急な話題の転換に、監督生はついていけずに顔を顰めた。サボテンと監督生の話だったのに、どうしてここでまたジャックが出てくるのだろう。
ゆらゆらと揺れる尻尾といい、さっきから妙に機嫌が良いことといい、今日のラギーは不可解で、どこか変だ。
ラギーはシーツ越しの陽射しを背にしたまま、歌うように続けた。
「じゃあ、オレでも良いかなぁ。アンタの花を咲かせるの」
「………え」
風が吹く。シーツが攫われて、ラギーと監督生を包むように靡く。
ラギーは、先程監督生に向けたのと同じように柔らかく笑っていた。眦を緩めて、蕩けるように。
飄々としたいつものラギーとは、別人みたいだ。
「ユウくん」
名前を呼ばれた。何事かを答える前に、ラギーの手が、監督生の手のひらに伸ばされる。びく、と怯えて手を引こうとすると、ラギーは逃さないと言うようにその手を捕まえた。
棘だらけの、監督生の手を。
「⁉︎ ラギー先輩‼︎」
「大丈夫、オレ、頑丈に出来てるんで」
そういう問題ではない。力任せに引いてもびくともしないそれに監督生は動揺する。じわりと何かが滲む感触がして、血の気が引いた。
「やめて、棘が刺さって」
「うん」
「だめ、痛いでしょ⁉︎」
声をあげる監督生に返ってきたのは変わらぬ微笑みと「大丈夫」という言葉。その声音は穏やかだが、手から伝わるぬるりとした感触とあまりにもちぐはぐだ。
そして次の瞬間、掴んでいた手にぐっと力が込められて、監督生の身体がぐらついた。ラギーの方に向かって倒れ込む。
「‼︎」
体勢を立て直す間もなく監督生はラギーに引き寄せられ、そのまま彼の腕の中に閉じ込められる。
距離が無くなるその瞬間、ぶすり、と棘がラギーの皮膚を突き破る感触がした。
「先輩‼︎」
慌てて逃れようとラギーの身体を押す。けれどその行為でも全身の棘はラギーに突き刺さり、そのことに気付いて監督生はビクッと体を強張らせた。
「離して!何してるんですか⁉︎」
どうすればいいのか分からなくて、監督生は身体を縮こまらせたまま声を張り上げる。ラギーの腕は監督生の身体を捕まえて、離してくれる気配がない。
「大丈夫、おちついて」
監督生を見下ろしたまま、ラギーが抱きしめる腕にぎゅっと力を入れる。刺さっている針が、またその分ラギーの腕に、身体に食い込んだ。
「落ち着けません、怪我するからっ…!」
「平気だって」
「そんなわけないでしょう⁉」
何事も無いかのようにラギーは監督生を抱きしめ続ける。優しく、それでいて力強く。その優しさと目の前で流れ続ける赤のギャップが恐ろしい。
ぶすり、ぶすりと、ラギーが手を動かし、抱きしめる腕に力を込めるたびにサボテンの棘が皮膚を突き破り、肉を裂いて赤い粒を浮き上がらせる。つう、と血が流れるのを目の当たりにして、監督生は吐き気すら覚えた。
逃げ出したい。けれど動けばもっと棘が刺さって傷つけてしまう。どうすることも出来ず、監督生はただただ小さく縮こまるしかなかった。そしてその背中をラギーの大きな手が棘をものともせずに撫でていく。
「やめて…、やめて、ラギー先輩」
「やめない」
監督生の懇願もラギーは聞いてくれない。次から次に傷が増え、血が滲み、ラギーの寮服を少しずつ赤く染めていく。
「おねがい、血が」
「…ああ、あとで綺麗にしなきゃいけねぇなあ」
そういうことじゃない。血塗れになって笑うラギーが分からなくて、パニックになりそうだった。監督生の眼に涙が盛り上がり、雫になって頬を伝って流れていく。
訳が分からない。どうして今自分はラギーに抱きしめられているのか。ラギーを、傷付けているのか。
怖い。流れる血が、微笑むラギーが。
「どうして」
「どうしてもなにも、したいからしてる」
「だからなんでっ」
「そんなの決まってる。…だってさぁ」
掠れた声で呟かれた疑問に、血だらけのラギーはにっこりといつもと変わらぬ、いや、いつも以上に柔らかい笑顔をくれた。先程も見た、蕩けるように甘い微笑み。
「大好きな女の子を抱きしめたいと思うのに、理由が要る?」
赤に染まっていくなかで、その笑みはあまりにも鮮烈に、熱を持って監督生に焼き付いていく。
血に濡れたラギーの腕の中は温かい。それはこの赤色を抜きにすれば、この一週間監督生が欲しかったぬくもりに違いなかった。ラギーが身を挺して差し出したそれに、監督生は何も言えなくなる。心臓が、大きな手に掴まれているかのようだ。
「好きだよ。……オレの愛情、受け取ってくれる?」
つう、とラギーの口の端から赤い筋が引かれて落ちていく。けれどラギーの瞳には痛みも躊躇いも映ってはおらず、代わりに愛おしむような熱が湛えられていた。鮮烈な赤と、どろりとした蜜のような熱が混ざり合う。
そして次の瞬間。
ぽん、と場違いに間抜けな音がして、監督生の蕾が花開いた。まるでラギーの言葉に応えるようにして咲いた赤い花は、血の色と同じ鮮烈な色をしていた。
その花を見て、満足げにラギーは頷く。
「シシッ、情熱的な返事ッスね」
そう聞こえた途端、ラギーの身体から力が抜けた。同時に監督生の身体に生えていた棘が抜け落ちて、それらは地面に落ちる前に光に溶けて消えていく。
がくんと監督生にもたれかかるラギーの顔色は白く、それを見て監督生は我に返った。
「ラギー先輩‼︎」
ようやく、心置きなく触れられるようになった監督生は、ラギーを力の限り抱きしめて、名前を呼び続けた。
叫ぶような監督生の声にもラギーの返事は無く、流れた血だけが赤く、温かかった。
***
治癒魔法のおかげで傷自体はすぐに塞がったが、ラギーは丸一日眠っていた。傷のひとつひとつは大したことはなかったのだが、なにせ数が多かったのだ。血が流れ過ぎたため、身体が休息を求めているのだろうと医者が言っていた。
目覚めたのはたまたま監督生が見舞いに来ていたタイミングだが、気が付いたラギーを見た監督生が開口一番に「馬鹿っ‼︎」と怒鳴りつけてしまったのは致し方ないだろう。
「なんであんな無茶したんですか」
ベッドから出ようとするラギーを押し戻して、監督生は尋ねる。
「いやあ、イケると思ったんスよ。オレは頑丈に出来てるし、実際死にやしなかったでしょ」
「そういう問題じゃありません‼︎」
ラギーはいつも通りのラギーだった。昨日監督生を抱き締めた時のような、熱に浮かされたような声も、とろりと甘い視線も今はない。そのことに幾分かホッとしつつ、監督生は声を張り上げた。
監督生の剣幕に押されて大人しくベッドに戻ったラギーは、綺麗に治った腕を見ながらヒュウと口笛を吹く。
「おお〜、綺麗なもんッスね」
「呑気なこと言わないで下さい。大変だったんですよ⁉︎」
「ごめんごめん」
ヘラヘラと笑うラギーに監督生はまた眉を顰める。
「心配してくれたの?」
「当たり前です」
ラギーの問いに、監督生は子供にするように言い聞かせた。ラギーに言い聞かせるなんて、おかしな話だけれど。
棘の一つ一つは細く、刺さったとしても小さな傷だ。けれどあんなふうに身体中を刺されればその痛みは半端なものではないし、痛みに弱いものならショックで気を失う。酷ければ出血多量で死んでしまうこともあるのだからと医者から言われたことをそのまま伝えれば、流石にラギーは少し気まずそうに肩を竦めた。
思い出しただけでゾッとする。ラギーが倒れて、拡がる赤をどうしようもできず泣きながら助けを求めたあの時。ジャックが来てくれなかったら一体どうなっていただろうか。
それなのに。
「……ごめんね」
謝罪の言葉を口にするラギーの、その表情が言葉を裏切っていて、目を見開いてしまう。
ラギーは口にした謝罪とは真逆の、喜びに頬が緩むのを堪えきれないような、嬉しさを耐えるような顔をしていた。
「全然謝られた気がしないんですが⁉︎」
「いや、本当に悪かったとは思ってるんスよ?でもさ、ほら。……あーダメだ、ニヤけちまう」
「なんなんですか」
「アンタがオレのこと心配して泣いてくれたんだなって思ったらどうしても嬉しくて」
その言葉に、監督生の身体から力が抜けた。
ひどい。なんてひどい人なのだろう。監督生が、人を傷つけたくないと知っていたくせに。
堪えるのをやめたラギーは、ニヤニヤと笑み崩れながら監督生の目元に触れる。そこには、まだ昨日泣き腫らした跡が残っていた。
「ふは、棘がねーや」
手を頬に移動させて、確かめるようにむにむにと頬を弄ぶ。ラギーの表情は、いつの間にか昨日を思わせる甘さを纏っていた。蕾があったあたりの髪を梳き、ほう、と感嘆の息を吐く。
咲いた花は、棘と同じく光に溶けて消えてしまった。それを告げるとラギーは「綺麗だったのにね」と呟いた。
その綺麗な花は、ラギーの血と愛を吸って咲いた花だ。
「……花、咲いて良かったッスね」
良かったのかどうか、監督生にはわからない。
「…先輩のおかげです」
「シシッ、もっと感謝してくれてもいいんスよ?」
「調子に乗らないでください」
「つれねえなあ」
落ち着かない。監督生は座りの悪い思いで会話を続ける。ラギーの声が、表情が。昨日見せた甘さと柔さを滲ませて監督生を取り囲む。
「結局、なんでアンタはサボテンになったんでしょうね」
機嫌良く耳を動かしながらラギーは話を続ける。
背中を汗が一筋、流れた。
「まさか本当に誰かに愛されたかったなんて話だったら面白いけど」
ねえ?とラギーは首を傾げる。彼の大きな手は未だに監督生の髪を梳いていて、こちらを見るその瞳は光を吸い込んできらきらと違う色に反射した。
サボテンの花は愛情で咲くなんて、単なる例え話だと思っていた。けれど昨日注がれたものは、多分、確かに愛だったのだろう。
今、ラギーがまた差し出そうとしているものと同じく。
「好きだよ、ユウくん」
血塗れで監督生を抱きしめたあの時と同じ声音で、ラギーが告げた。
いつからとか、どうしてだとか、そうした言葉が脳裏に浮かんでは消えていく。目の前にいる微笑むラギーの瞳の奥にある熱が本物であると、鮮烈すぎる赤色を見せつけられたあの時にもう思い知らされていた。
監督生のことなどお構いなしに注がれる、それはきっとサボテンに与える大量の水のような。
「オレの愛情、受け取ってくれる?」
赤に塗れた愛情が監督生に渡される。
今はもう消えたあのサボテンの花の色が、同じような鮮やかな赤をしていた。
ラギーは柔らかな、とびきり甘い微笑みを監督生に向けている。鮮烈な色と混ざり合うその熱が、甘く蕩ける蜜が何よりも恐ろしい。そう思いながら、監督生は口を開いた。
end