ガランサス 重だるい瞼を開けた先に見えたのは見知らぬ天井だった。
少しずつ意識が浮上する度にじわじわと頭が痛みだす。その纏わりつくような痛みを振り払うため身動ぎ身体を丸めれば、自身を包んでいた温かい何かが落ちて肩から背中にかけてヒヤリとした空気が触れた。
なにゆえ素肌に布が触れないのか?
鈍足に活動を始める頭で導き出した答えは、自身が下着以外何も身に付けていないということ。急いで現状を把握しようにも重い瞼が邪魔をする。
「う゛ぅ……」
唸りながらゆっくりと開けた視界に常闇は、いつもなら数十分は格闘する眠気と共に飛び起きた。
「どこだ、ここは」
見知らぬ部屋のベッド上で目覚めたことは把握できたが、何があってこの場にいるのかは理解できない。
「俺はいったい何を……黒影!」
半ばパニックになりながら相棒の名を呼べば、まだ眠いのか目を擦りながら現れると「ンー、ドッチカッテ言ウト、フミカゲが悪イ」とだけ告げて腹の中に戻っていった。
「……俺が悪い?」
どういうことだと記憶を遡ってみても昨夜の記憶が曖昧で役に立たない。次第に焦りが募りドッドッとうるさくなる心音を耳障りに思いながら、何はともあれ衣服を探そうと常闇はベッドの上に手を伸ばす。その時、ガチャッとドアノブが動く音がして長身の男がひょっこりと顔を出した。
「お、ようやくお目覚めかい? もう昼だぜ」
肩を揺らして笑う男の顔に常闇は見覚えがあり、痛む頭に鞭打って必死に記憶を手繰り寄せるが真相は霧の中。
この男は誰だ。どこかで、そう、何かの資料で。
瞬きも忘れて凝視していると近付いてきた男の手が心配そうに伸ばされる。
「おいおいマジかよ。記憶がないとか言わねェよな?」
指先が額に触れる寸前にクリアになった思考回路が答えを導き出した。『Mr.コンプレス』かつて敵連合に所属していた男。
「っMr.コンプレス! なにゆえお前がここに……」
思わず手を叩き落とせば、男はやれやれと頭を掻いた。
「嘘だろ? こりゃ覚えてねェな。それがケツを守ってくれた恩人に向ける態度なら最悪すぎるから改めな」
「は? 誰が誰の何を守ったと?」
聞き捨てならない言葉に目を見開いた常闇の前でため息を1つ吐き、男は「よっこいせ」とベッドの端に腰を下ろす。
「だーかーら、俺が常闇くんのケツを守ったやったんだって! まぁ、その後介抱してたらゲロぶちまけられちまったけど。つーか、その名前今は使ってないから自己紹介したでしょ」
矢継ぎ早に告げられる言葉の何一つも思い出せず目を白黒させていると深いため息の後に「……一から説明するから驚かないでね。あとこれ常闇くんの洗濯終わったから」と畳まれた常闇の衣服を手渡した迫は口を開いた。
遡ること数時間前。とあるバーのカウンター席に常闇はいた。以前、旧友たちと訪れ雰囲気が良かったのを思い出しふらりと立ち寄ったのだが、一人で来るべきではなかったらしい。常闇の酔いメーターを正確に把握している友人がいなかったことで早々に酔ってしまったらしく、ゆらりと頭が揺れ眠気に誘われるまま瞼が落ちる。その時、親切そうな男が近付いてきた。
「大丈夫ですか?」
「ム、問題ない」
わざわざ別の席からやってきた男が甲斐甲斐しく差し出す水をありがたく受け取り、常闇が喉を鳴らして一息に飲み干すと視界の端で男が笑った。
「呑みすぎたんですかね? ちょっと外の空気にでも当たります?」
馴れ馴れしく肩から腰にかけて撫でてくる手を無碍に払い除けることも出来ず戸惑っていると、新しい影がまた一つ増える。
「ちょーっと失礼。俺の連れが面倒かけちゃったみたいで……悪いね」
「え、あんたさっきまでステージでマジックしてた人じゃ」
「お、顔を覚えていただけたのなら光栄だ。またのご来店をお待ちしています……ってそうそう、俺のショーを見に来てくれって頼んでたのにこの様なのよ。酷いでしょ?」
常闇が払い除けることの出来なかった無遠慮に撫で回す手を簡単に退け、そのまま挨拶代わりの握手へともっていくスマートさは見事なものだった。ただ、間に挟まれた常闇はフワフワの思考回路で何も分からないまま船を漕ぐ。そのまま今にも寝落ちしそうな常闇の頭上でいくつか会話が交わされた、むんずと腕を掴まれ身体が浮いた。
「ほら、帰るよ」
そのままズルズルと引きずられて店を出ると路地裏に連れ込まれ、ビールケースに座らされる。
「こりゃ相当酔ってるな。現役ヒーローがこんなんでいいのか? おーい、俺のこと分かる?」
半分しか開いていない目の前で手を振られても常闇には誰だか判別する思考力は残されていない。力なく首を横に振れば、連れて帰るしかないかという小さな呟きを耳にして首を傾げれば広い背中に背負われる。
「防犯カメラに圧縮するところを撮られて再犯だなんだと騒がれちゃ面倒なんでね。乗り心地は悪いだろうけど許してくれよ。そうだ、俺は迫……っておい! 吐くなら言ってくれよ!」
焦る声をBGMに常闇は胃の奥底から迫り上がる不快感を吐き出していた。
時間にして十数分。Mr.コンプレス──迫から聞かされ、ようやく全て思い出した常闇は、昨夜に己が引き起こした失態の数々にそれはもう深く深く頭を下げる。
「……申し訳ない。それから感謝する」
「はぁ、やっと思い出してくれたのね」
心底ホッとした声の後「信じてもらえずしょっぴかれるかと思った」と続けられ、再び頭を下げ黒影の言う通りだったと常闇は己を恥じた。
「ミスタ……迫、さん本当に申し訳なかった。その、衣服も……」
「ほんとよ、俺の大事な一張羅をゲロまみれにしてくれちゃって。どうしてくれんの? おじさん仕事に行けないよ?」
「そ、それは……」
「ハッハ! 冗談冗談! 別に代えはいくらでもあるんでね」
常闇くんは気にしなくていいよ。と告げた後でぐりぐりと頭を撫でられる。きょとんと目を見開いた常闇に迫は笑ってみせた。
「あのバーにはもう一人で行かないようにするんだよ。酔い潰れた一人呑み客を連れ帰る悪い奴がいるって噂があるんでね」
「……あなたのことか?」
「おいおい! そりゃねェよ。常闇くんのケツを守った救世主に言うことか?」
「フッ冗談だ」
以前からの友人のように軽口を叩き合いながら、心地いい時間を過ごしているわけにはいかないとハッと我に返った常闇は背筋を伸ばす。
「して、何か詫びと礼をさせてもらえないだろうか? このままでは俺の気が済まない」
「詫びに礼? そんなのいらな……いや、ちょっと待てよ……そうだ! 今度、お茶でもしない?」
遠慮する素振りを見せた迫が一瞬考え込んだ後でパンッと手を叩き、それに続いた提案に常闇の瞳がまた大きく見開かれる。
「そんなことでいいのか?」
「もちろん! 常闇くんのおすすめに連れて行ってくれよ」
「では、禁断の果実のパイが美味な店にでも」
「禁断の果実? ハッハ、なるほどな。随分と愉快な言い回しだ。楽しみにしてるぜ」
どちらからともなく伸ばした小指を絡ませ合った二人は連絡先を交換し、そう遠くはない逢瀬の日に想いを馳せるのだった。