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    tomo

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    pixivからの移行です。

    フロッピーディスクからホームページ時代の古のデータを救出できたので再録します。

    謎の英語からはじまるあたり時代を感じる…

    #島準
    ##島準
    ##おお振り

    二月の丘(島準)I protect it
    I save it
    I bury it


    二月の丘
    Shingo and Junta


    最近慎吾さんは儚い匂いがする。

    最近、と言っても自宅学習期間に入った三年生とはそうしょっちゅう会っているわけもなくて、でも時折学校に顔を出す慎吾さんが(たぶん手続きとか小論の添削とかそういうのだと思う)、その姿を見つけた自分に戯れのように触れるたび、その匂いは香っていた。
    その匂いは微かに甘くて、けれど決して長い間鼻先に残っていることなく、去り際見事に、すっと消えてゆく。
    まるで一片の花びらのようだ、と準太は思っていた。
    別に悲しいわけじゃない。
    けれどその香りにほんの一瞬包まれるたび、胸が痛む気がした。

    『元気?明後日会える?』
    会えます。午後から室内練なんで、午前中寄りますね。
    『オレが出ようか』
    いえ、あ、でもお邪魔するの迷惑すかね
    『いやいいよ。じゃあ待ってる』
    はい。また当日メールします。

    そんなやり取りをしたのは二日前の話で、丁度二日前に唐突に至極簡素なメールを送ってくるあたり、5ヶ月前のやり取りをわざと真似て面白がっているのかもしれない。でも二人の間に情緒なんてもとからあったものではなかったし、おちょくってわざと簡素というより、ただの偶然のような気もした。そもそも準太自身、島崎からメールがきたからこそ、今日が自分の誕生日だという事を思い出したくらいで。メールを出した当人がそれを知っているかというと準太は甚だ疑問だった。
    「慎吾さん相変わらず部屋きれいっすね…」
    ベッドの手前の炬燵にあたらせてもらいながら、整頓された部屋を一望する。窓際では温かいオレンジをしたハロゲンヒーターがカタカタと小さな音を立てながら首を振っていた。
    去年の晩秋から準太はしばしば島崎のところを訪ねることがあったけれど、彼の部屋で物が物に埋もれて探し物が見当たらないといった様な状態を、今まで準太は一度も目にした事が無かった。きれいだと口走るとその時は確か、一日のほとんどを家以外で過ごすのだから散らかしようも無いだろ、と言われた気がする。だったら自分のあのとても人を上げられない部屋はいったい何なのかと思ったのだが、言ったところで自分が情けない思いをするだけなので黙っておいた。
    ほんの数ヶ月前のことなのに、何だか酷く懐かしい気がした。
    「準太が来るから片したの」
    「え、マジすか」
    「マジマジ」
    面倒くせえから兄貴の部屋に突っ込んでおいてやった、などと冗談なのか本気なのか分からないことを言って笑う。
    「もしかしてこの炬燵」
    「うん、それは逆に兄貴のとこから引っ張ってきた。受験生に炬燵は大敵です」
    「うわ、なんか…、」
    すみません、と言いそうになったのをギリギリで押さえ込んで、準太は「ありがとうございます」と言った。満足そうに笑う島崎につられて頬を緩ませながら、「すみません」はお兄さんへ、と頭の片隅で呟いておく。
    年が明けて、準太は島崎のところを訪ねるのをやめた。それは受験本番を控えた彼に対する配慮でもあったけれど、もう少し、自分にとって違う意味も持った取り決めだった。
    ぱたりと足を運ばなくなった準太に島崎は何も言わず、何も言わない島崎に準太も何も言わなかった。けれど、偶然学校で顔を会わせれば、島崎が手を挙げ準太が嬉しげに寄って行って、とりとめもない会話をしていたから、この開いた距離と時間は精神的なそれとは比例していないと、思うことができていた。のだと思う。
    「何かひさしぶりだなーうち来るの。っつってもひと月くらいか…」
    「そっすね。元気でしたか?」
    「んーんー、そこそこね。何せ寒いもんだからよー」
    「っすね。雪も降ったし」
    そう言って窓の外を眺めながら、準太は炬燵の掛け布団を引き寄せると乾燥した唇をぺろりと舐めた。温度差で水滴のついた窓の向こうでは、民家の屋根に薄っすらと白い雪が積もっている。
    「準太は?元気だった?」
    「あ、はいオレは」
    用意していた紅茶を炬燵の上に置くと、島崎は一度準太の頭をぽんと軽く押さえて、覗き込むように顔を寄せた。ふわり、と空気が動くのとともに、またあの香りがする。
    ぎゅうと心臓が締め付けられる気がして、準太は思わず島崎の視線を避け、紅茶の方へ視線をやると、
    「冬生まれなんで…」
    冬は結構得意なんス。そう答えて、再び軽く唇を湿らせた。
    「ふーん」
    じぃと準太を見つめながら島崎はあまりやる気があるとは思えない相槌をうって、突然何か思い立ったかのように立ち上がる。
    落ち着かない気持ちを何とかしようと、準太は一緒に用意されたミルクピッチャーの中のミルクを紅茶に注ぎ、そっとスプーンで混ぜた。けれど、うっかり砂糖を入れるのも忘れてカップの持ち手に手を伸ばしたところで、
    「準太」
    再び傍らに戻ってきた島崎に名前を呼ばれて制止される。
    準太が振り向くと、島崎はハシバミ色の瞳をそっと細めて、準太の顎のラインにゆるりと指を沿わせた。そのまま左手の親指でそっと頬をなでられ、くいと顎を持ち上げられて、準太の心臓が跳ねる。
    思わずぎゅっと目を閉じると、ふっと笑う気配がして、準太が構えていた熱は予想外にも額に落ちてくる。え、と薄く目を開けようとすると、間もなく人差し指で唇をなでられた。何かが塗られた感触と同時に、強く香ってくる、匂い。
    灰と桃の春霞の中吹く強い春風に、巻き上げられ連れ去られてゆく一片の。
    ひどくやさしく、ひどく儚い。
    「 」
    「も少しじっとして」
    目を開いた準太が「慎吾さん」と口を開こうとしたのを察したのか島崎はそう言って、もう一度、今度は親指も使って準太の唇に丁寧に指の腹を這わせた。
    「はい、いいですよー」
    「…何すか、これ」
    「ん、シアバター」
    ぱちぱちと目を瞬かせながら、島崎の手にのせられた物を見て、準太は慎吾さんの匂いの正体はこれだったのかと思った。小さな白い容器の蓋の部分には、Shea Butterの文字と桜の絵が刻まれている。
    「唇舐めてっと腫れてタラコになっぞ~?」
    そう言って島崎は笑うと、背後にあった小包を手にとって、ほい、と準太の手に握らせた。
    「それ、使いな」
    準太が掌に視線を落とすと、リボンで括られた透明な袋の中には、島崎の手の中にあるのと同じフォルムをした入れ物があって、蓋には柚子が描かれていた。
    「開けても、いいすか」
    「どーぞ」
    包みを開ける準太を微笑を浮かべて見つめながら、島崎はその黒髪を梳く様に頭をなでる。
    その心地よい刺激を受けつつシアバターの蓋を開けて、ダイレクトに届いたその香りに、準太は思わず泣きそうになった。
    柑橘類独特のすっと鼻を通る、爽やかな甘さと爽やかな苦さが、膨大な時間の流れを一瞬に凝縮させて身体を駆け抜けてゆく。
    それは怒涛に流れ、けれども途切れることはなく。飽和する頭を、温かい体温が優しく宥めるように、撫でて。
    準太はぎゅっと目を閉じた。
    慎吾さんはひどい。オレには言葉以外から受け取るものが多すぎる。
    準太はゆっくりと目を開けると、シアバターをのせた手を島崎の方へ向けて、静かに告げた。
    「オレ、これいりません」
    「え」
    流石につき返されるとは思っていなかった島崎が、不穏な顔をする。
    「その代わり、慎吾さんの使ってるそれ、ください」
    「あ、もしかして柚子苦手だった?だったら」
    桜の新しいやつ買ってくるよ、と言い掛ける島崎の言葉を、軽く首を横に振ることで止めて。
    「代わりに慎吾さんが、これを」
    軽く目を伏せたまま、島崎の手に柚子のシアバターをそっと握らせて、続ける。
    「そんでもし次の冬も、覚えていたら、」
    視線が上げられて、睫毛が作っていた陰が晴れる。現れた吸い込まれるような透明な黒い瞳が、島崎の色素の薄いそれと交わった。
    「それ、またオレにください」
    「……」
    これからも、何度も、何度だって。延々と譲り受けてゆく。受け継ぎ時を重ねてゆく。代々の香り。
    栄光の時も失意の時も、桐青という高校はそこに在ったように。モノクロの時代から色鮮やかな時代へと駆け抜けて、それでも、ずっとずっと、変わらなかったもの。古びた校舎だけが知っている、どれだけその廊下を踏む顔ぶれが変わろうと、いつだってその中にある桐青の魂だけは変わらなかった。
    暦は繰り返し更新され、自分達を象る数字はかわるけど。柚子の香りは、新しい年を向かえるたび積み上げられた白い餅の上に鎮座するそれに似て。
    「…生意気」
    微かに息を飲んだまま押し黙っていた島崎が、真顔でぼそりと呟いた。そのトーンが酷くフラットだったので、準太はああこの人は今本気でむかついたんだな、と思った。
    でも、譲るつもりはないけど。喧嘩するなら、しますよ?後で誰にどう説明したところで、オレに非があるわけだけど。
    でもそれはほんの一瞬のものだったらしい。島崎は軽く眉を寄せると、拗ねた声を上げた。
    「お古ばっかり寄越すとかオレかっこつかないじゃん」
    「慎吾さんの匂いに染まるみたいでいいじゃないすか」
    「だったらおそろいでいいだろー」
    「それは嫌です」
    「なんでー」
    島崎が子供みたいに(一応子供だけど)ぶーっと唇を尖らせて、それから顔を見合わせて二人はふきだした。
    ひとしきり笑った後、やれやれと島崎は肩を竦める。
    「ったく、準太は強情だからなあ」
    「裏を返せば素直ってことですよ」
    「あー、そういうことにもなんのか。面倒くせえな~~」
    「攻略的なの、好きでしょう?」
    「ナマイキ」
    多少挑戦めいた眼差しをむける準太の額を軽く小突いて、島崎の口が再度同じ単語を紡いだ。
    けれど今度のそれは、愉快そうに抑揚にとんでいた。
    くつくつ笑う準太の頭をわしゃわしゃ撫でると、島崎は桜の香りのシアバターの蓋を再びあけて、くるりと指で撫で付けた。それから、準太の前髪を指で掬って、労わるように毛先にそれを馴染ませる。
    「これ髪にも使えるらしいぜ」
    「へえ、そうなんすか」
    「あと指とか肘とか。あ、紅茶飲んでていーよ」
    「あ、じゃ、いただきます」
    忘れていた角砂糖を放り込んでかき混ぜると、準太はカップに口をつけた。少し冷めたそれは、猫舌には丁度飲み頃で、島崎が長い指を前髪から耳に掛かる髪へと滑らせるその仕草は心地よく、準太はうっとりと息をついた。まるでどっかの王子様にでもなったようだ。なんて贅沢な時間だろうと思っていると、島崎がぼそっとアジアンビューティー…などと言うから、危うく噴出しそうになって大変だった。
    「んー、こんなもんかな」
    「あざっす」
    「いいえーどういたしまして」
    「にしても、慎吾さんがこんな可愛いもん持ってるとは思いませんでしたよ」
    「あ、あー。姉貴が結構うるさくて」
    男も女もそのうち若い時の手入れがものを言うようになるのよ~っつって。と島崎が言ったので、準太は眉を顰めた。確か島崎は二人兄弟だったはずだ。
    「姉貴?」
    「姉貴(予定)?」
    「え、じゃあ」
    別にそれが慎吾さんのことを気にかけてる予備校の可愛いクラスメイトだったとしても、オレは怒りませんけど。誤魔化す必要なんかないんすけど。なんてうだうだと思っていた準太は、思考を遥かかけ離れたその返答に目を瞬かせ、ベッドと反対側の壁…もとい島崎の兄の部屋の方…を見やった。
    「うん、春からとりあえず春日部の方で同棲するらしいぜ」
    「それは…おめでとうございます」
    「まだだけどなあ」
    ではいよいよ、此処には島崎の居た全ての事実が残らないのだ。島崎の志望校が県外で、此処を出て行くことになるってことは、なんとなく知っていたけれど。春には綺麗に引き払われて。
    準太が黙り込んでいると、再び島崎の手が伸びてきて今度は髪ではなく頬を滑った。準太の顔色を窺うようにしてゆっくりと顔を近づける。こつり、と額と額が触れ合った。
    「さみしい?」
    鼻先で島崎が囁く。お互いの吐息が肌に触れて、ぞわりと何かが駆け上がりせり上がる。準太は耳元にそえられた島崎の手に自分のそれをそっと重ねながら、静かに問い返した。
    「慎吾さんは」
    「訊いてんのはオレなんだけどなぁ…」
    島崎は苦笑すると、そのまま首を傾けて、ちゅっと音を立ててキスをした。
    一度離れて、それからまた重なる。啄ばむようなキスを繰り返し、やがて薄っすらと開いた唇に舌を差し込むと、びくりと肩を揺らした準太の手が滑り島崎のアーガイルのセーターを引っつかんだ。
    さらりと髪が揺れて流れるたび、ふわりと桜の芳香が漂う。
    「ん、ん…」
    左手で後ろ頭と首を撫でられながら深い口付けに夢中になっていると、島崎の空いた右手が、するりとセーターの下に潜り込んできてシャツをまさぐり始めたので、準太は慌てた。
    「! ちょっ…慎吾さ、オレこれから…っ」
    「わかってるよ」
    物分りのいい言葉とは裏腹に、もう一度重ねられた唇が名残惜しげにゆっくりと離れてゆく。見上げると、島崎は酷く熱っぽい目をゆっくりと瞬かせて、己を落ち着かせているようだった。ああ、慎吾さん、オレだって本当はやめたくないんです。けれど仕方が無い。
    「あーそうそう準太」
    「はい」
    がしがしと頭をかいて、再度島崎がこちらを見たので、準太は小首を傾げて返事する。それを見て島崎は何故か少し微妙な顔をした後、思い直したように口を開いた。ハロゲンのオレンジを微かに映した窓を、水滴が流れ落ちてゆく。
    「誕生日、おめでとな」
    「覚えててくれたんすか」
    「そりゃね。本当はもっと早く言うつもりだったのに、お前がいらねえとか言うからさあ」
    タイミング逃した。ハハ、と島崎は伏目がちに窓の方を見やりながら、息をもらすように笑った。
    「スンマセン。…ありがとう、ございます」
    「うん」
    柔らかく笑った準太に、島崎も同じように柔らかく笑い返す。
    そうしてもう一度、羽が触れるような優しいキスをした。


    「じゃ、そろそろ…」
    「おう」
    「お邪魔しました」
    準太は濃い紺色のピーコートを羽織ると、ぐるりと水色のマフラーを一周させた。そして桜のシアバターをコートのポケットに突っ込んで、ぽんぽんと軽く二度ほど叩く。
    「送るよ」
    「いいです」
    玄関へ向かう準太の後を追いながら、島崎が自分のダウンコートを手に引っかけたので、準太はそれを制止した。
    「慎吾さんは、風邪ひいちゃ、いけないんすから」
    玄関の一歩手前で振り返って、少し不服そうな島崎を見つめる。
    真っ直ぐな眼差し。こういう時は何を言ってもその意思を覆すことなどできやしないのだ。
    島崎は肩を竦めると、手にしていたダウンをぽいとキッチンの方へ投げやった。
    「それじゃ、今日は本当にありがとうございました」
    ショートブーツに足を突っ込んでトントンとかかとを鳴らすと、準太はにこりと笑って軽く頭を下げる。
    「こっちこそ、わざわざありがとな。部活、頑張れよ」
    「はい。慎吾さんも、身体には気をつけて。また、卒業式に」
    次は卒業式に。
    それは此処に来る前から既に決めていた事で、けれど告げられた島崎の方は流石に少し衝撃だったらしい。だってそれはもう、別れの時だ。次に会う時は、もう。
    「―――、」
    「!」
    咄嗟島崎の腕が伸びてきてぐいとマフラーを引っ張られたかと思うと、ぎゅうと強く抱きしめられた。突然の事に思わず身体を硬直させた準太に有無を言わせない温かさと強さで腕を回したまま、準太の左肩に顔を埋めた島崎が、深く息を吸い込む。
    そして直ぐに拘束を解くと、ふう、と島崎は息をついた。
    「ん、補給完了」
    準太が吃驚して目を瞬かせると、一か月分ね。これじゃー少ないくらいだけどね。とか言いながらぽんぽんと頭を撫でる。
    なでるから、準太はまた感情の洪水に襲われるのだ。
    ああ、ああ。馬鹿だこの人。本当は、もっと言ってやりたいこと、あるだろうに。
    「あ、良かった降ってない」
    扉を開けて外へ出ると、ぺこりと頭を下げて、ゆっくりとそこを後にする。
    島崎は開けた扉に寄りかかって、その後姿を見つめていた。見守ってきた背。時間にすれば僅かなものかもしれないけれど、きっとこれからも己の青春時代ってやつの記憶の深いところに根ざすであろう景色。艶のある黒い髪がひゅうと駆け抜けた風に揺れる。
    「準太、」
    「はい」
    振り向くと、微かに唇を開いていた島崎はほんの僅かな逡巡の後、口を閉ざした。
    「ううん、何でもない。気をつけてな」
    そうして島崎はまた本音を隠すのだ。けれど
    「はい、それじゃ、また」
    あなたが言わないことで何かを守っているのを、オレはもう知っています。知っているから。
    「卒業式に」
    「ん」


    通りの雪は車の往来でおおかた溶けていて、歩道に点々と植えられた街路樹の根元に申し訳程度に残っている程度だった。けれど、相変わらず空気は冷たく湿っていて、準太の耳と鼻を赤くする。
    小さな鳥が灰色の空を羽ばたいて滲んで消えてゆく。準太はほぅと手袋に息を吐いた。
    通りでは消えていた雪も、休日の学校ではまだほとんど降り積もったままの状態で、ぽつぽつと人の足跡や或いは猫の足跡が付いている程度だった。
    ごそごそと携帯を取り出して時刻を見ると、集合にはまだ少し時間がある。
    ふと思い立って、準太はトレーニングルームへ向かう前に、寄り道をすることにした。

    誰も使っていないグラウンドは思ったとおり一面白に覆われていて、見慣れているはずの景色もどこか新鮮に目に映った。葉を落とした枝が風で揺れるたび、ぱたりぱたりと雪が落ちる。
    準太は一礼すると、そっとグラウンドへ足を踏み入れた。
    寒さの極まる頃に生まれたせいか、冬は苦手じゃない。寧ろ好きだ。寒いのは寒いけれど。
    12月の意味づけされ色に飾られた冬を過ぎ、慌しい年始を過ぎると、冬は一気に色を無くす。そうして色を無くした1月中旬から2月の冬が、準太はとりわけ好きだった。
    ひたすら静かで色を無くした世界で、物事は誤魔化す術なくあからさまで、けれど悴む痛さも心細さも、全てはこの小さな身体の中に宿る生命力の温かさと強さに帰結する気がして。
    冬の蕾は、ひたすらに黙っている。そこに在る生命力をただ信じて。
    彼と自分の間にある、あるいは野球と己の間にある細い糸のようなそれを、願望とか希望と言って済ませるのは容易い。あると見なすそれを、もしかすると無いものかもしれないと不安になって、信じることに疑心暗鬼になるのは容易い。何故って自分はとても弱い人間だから。信じることは恐怖だ。悲しいかな自己防衛できるくらいには頭が回る。
    けれど、冬の沈黙は、鼓動の音を覆うことなく大きく準太の耳に届かせた。雑念をすてて、曇っていた目がシンプルに世界を捉えられる。冬は決して春への布石ではない。

    遮るもののないグラウンドを、風は自在にゴウと音を立て吹きぬける。強い風に吹き付けられつつも、準太はあるべき場所へと足を進めた。

    もしかすると、オレは永遠に咲かないのかもしれません。
    でも、それでもやっぱり信じています。オレにはまだ何かあるんじゃないかって。オレはなんかできるんじゃないかって。

    緩やかに丘陵を成したその上に立つ。たった25センチ強高さが違うだけなのに、酷く視界がひらけて世界が広くなった気がする。吹きすさぶ風はさらに強さを増せど、空は彼方まで広がり、地面は何処までも続きゆくようだった。
    ぐるりと身体を一回転させて、視線を一周させると、キャッチャースボックスの方へと向き直った。
    雲が動き、世界がゆっくりと灰色に傾いてゆく。
    風が運び纏い上げる。雪と、それから、五感に流れ込むあらゆるものを。
    二月の丘。
    真夏の歓声。目を閉じれば聞こえてくる、この声がいつか遥か遠いものになっても。

    悲しいわけじゃない、なんて、それは嘘だ。
    強がりたいだけなんだ。
    悲しい、寂しい、悔しい、こわい、こわい、こわい。
    けれどそれさえも、飲み込んで支配して、立ってやる。だってオレはもう知ってる。
    そう思うことは別に悪いことじゃない。暗い感情が生み出されるのを否定するな。己の弱さを、つっぱねてはいけない。抱きしめて、抱きしめて。弱い自分も、そこに居ていいんだ。代わりのオレが強くバッターボックスを見据えるから。

    深呼吸する。喉と肺が凍るような錯覚がして、鼻がつんとした。
    咄嗟ぎゅっと目を閉じ、深く頭を下げる。
    微か漂う桜の芳香。

    春霞、夏の空色、秋の孤独、冬の真理
    朝靄と光、炎天下、乾き、歪み、揺らぎ、夜空の高さ
    白球で繋がる、汗と涙とそれから笑顔と

    零れ落ちた一滴とともに、その丘に永遠を埋めた。





    END
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