海財 財津が引退会見を開いたその日俺が家に帰ると財津がいた。何を言っているか分からないと思うがオートロックのマンションのエントランスでぶらぶらしているまごうことなき現実は何度目を擦っても財津の形をしている。
「待ちましたよ」
「……おー」
そう言われるとまるでこちらが悪いことをしていたかのように思えてくるが、そんな約束をした事実は全くない。鍵を開け機械式のドアが開くと、俺の後ろにくっついて財津も一緒に入ってきた。まるでそれが自然で当たり前であるかのように。静かな音を立てて開くエレベーターに乗り込む。これまた当然のように財津も乗ってくる。六人くらいは余裕で運べるはずだが、ノロノロと進むように感じた。
初めて高層階に住んだことを後悔した。異様な密室の時間がやけに長かった。エレベーターのドアが開いた瞬間、俺は思わず新鮮な空気を深く吸い込んでいた。
家の鍵を差し込んだところで、手だけで財津を制する。こうでもしないと、開けた瞬間猫みたいに入ってきそうな気配があった。
「ちょっと待て」
「なんですか」
ここで俺は色々な選択肢があった。ふざけんなとはっ倒す。そもそもどうやって俺のマンション知ったんだよ。目の前でドアを閉める。警察を呼ぶ。住所がバレたから代わりに何か個人情報を寄越せと脅してみる。
「五分待ってろ」
男一人暮らしの部屋なんて突然人を上げられるようになってるわけないだろうが。
現実逃避は現実を認めて初めてできることだ。俺の半生に横たわり続けていた現実は、今は俺の目の前で飯を食っている。完全に意味不明だ。図々しいことにご飯をおかわりまでしている。米、高いんだぞ。分かってるだろ。
普段はテレビをつけながら夕食を取るが、目の前にいる財津を見ているだけで頭が忙しないので忘れていた。ご馳走になってるくせに美味しいも不味いも言わず、無言のままだが、そんな現実を俺はやかましいと感じていた。向かい合い飯をくらいあうこの光景が現実になっているのは、そうしたいと願わなければそうならない。俺たちのうちのどちらかか、どちらもが。
「財津、えー……」
箸を止めてこちらを見る財津。その黒々とした瞳を探ろうとする俺の意識が、口の端についた無防備な米粒に逸らされる。
「ご飯粒ついてるぞ」
「どうも」
人差し指でつまみ取り、じっと眺めてから口に運んだ。
そんな調子で一挙手一投足に視線を向けているから、俺の方はちっとも味がしない。
「さて、海棠さん」
食べ終わった食器を俺のいう通りに水に漬け、財津はのこのことリビングに戻ってきた。ストンとソファに腰を下ろし、隣に座る俺をじっと見つめた。
「!」
ずい、と身体を寄せてくる。俺とさほど変わらない体格であるのに、不思議と猫のようだと思った。確かに髪の毛も黒くて癖のある感じとか、猫っぽいかもしれない。
ようやくそこで俺の身体が現実に追いつき始めた。
「待て待て待て待て」
「なんですか」
財津の両肩を掴み無理やり引き剥がす。
「色々どうしたお前、引退で動揺してんのか?全然話さねえしよ」
「聞けばよかったじゃないですか」
「お前が有無を言わさぬ雰囲気だったんだろうが」
「……あなたが聞く必要がないと思っていたんでしょう?人のせいにしないでください」
財津は呆れたような不満げな顔する。
「……」
「ぐおお」
俺が掴んでいるにも関わらず、内側から俺の首筋に腕を回してきた。
「半生をかけて追い求めた現実を、あなたは好きにできますよ」
「財津ぅ〜…………」
「気分がいいのでは?」
目を細めて笑う財津は可愛かった。
そうだった。もうずうっと前から俺は惚れに惚れきってるのだった。
現実逃避と現実が全く同じになってしまったらどうすればいいのだろうか?
「……んなわけねえだろうが!」
そう言い切ったのはほとんどヤケクソだが、とにかくこんな流れでどうこうなどと考えてもいない。財津を突き飛ばし、向こうが呆気に取られている間にぽい、と玄関から放り出した。
「どういうつもりかと思ったがそういうことならダメだ。そりゃ気分はいいけどよ」
「え」
「帰れ。ほら、電車なかったらこれ使え」
ドアを閉める寸前、財津がポカンと半開きの口のまま立ち尽くしていた。その手に適当に紙幣を握らせて、心が揺らぐ前にさっさと内鍵を締める。
「いくじなし」
恨みがましそうな呟きが聞こえたがきっと財津の呟きじゃないだろう。あんな風に喋るのを聞いたことがないから。ああ、素晴らしいことに現実はまだ俺が知らないことで溢れている。