ずっとお前を待っていたずっとお前を待っていた
僕の地元には有名な屋敷がある。その名もオンボロ寮。安直な名前だけど、言い得て妙って感じがする。
なんで屋敷なのに『寮』なのか。これは又聞きした話だけど、昔この辺りは大きな全寮制の学校があったらしい。この屋敷はそこで寮として使われていた。だから『オンボロ寮』。
昔はここら辺も栄えていたらしいけど、少子化と市町村合併やらがあって学校は移転し、オンボロ寮はオンボロすぎてここに残された。それがオンボロ屋敷誕生の経緯らしい。
オンボロ屋敷にはツノが生えた黒い大きな化け物がいるとか幽霊がいっぱいいるとか、噂はいっぱいある。昔はお化け屋敷として馬鹿な奴が不法侵入していたけど、ある日を境にそれはパッタリ無くなった。
理由は簡単。オンボロ屋敷に新しい住人が引っ越してきたからだ。
野次馬根性で見に行った母が言うには、高身長のとても綺麗な男の人らしい。男に綺麗ってどうかと思うけど、今では男性も美容品を使って、ユニセックスのものが増えている。女の人より綺麗だったと騒ぐ母の言い分も簡単に否定出来ない。
自分の家から離れた場所にあるから、自分からあの屋敷を見に行くことはない。そう思っていたんだけどね。
「とうとう来ちゃったな……オンボロ寮。」
◆◆◆
学校からの帰り道。友達と別れて一人で帰っている時だった。
何処からか、ニャアと猫の間延びした鳴き声が聞こえた。無類の猫好きって訳じゃないけど、野良猫が近くにいたら少し見に行こうと思うぐらいは猫が好きだ。理由は特にない。猫の可愛さに人間は抗うことは出来ないのだ。
道路をウロウロ見ていたら、手持ち無沙汰で手に持って動かしていた鍵が地面に落ちる。拾おうとして膝を折ったら、横から黒い何かが猛スピードで横切った。黒い何かを目で追うと、少し先に姿勢を低くした黒猫がチラッとこちらを向いていた。口に咥えているのは鍵。それもトランプのマークが四つ入ったストラップ。イタズラが好きそうな悪い顔をした蒼眼の猫のキャラクターのキーホルダーがついている。まさしく、僕が落とした鍵を黒猫が咥えていた。
「あ、コラ!待て泥棒猫!!」
見つめ合うこと数秒後。お魚咥えたドラ猫宜しく僕の鍵咥えて走り去る黒猫。裸足では駆け出さないけれど、この時僕は自己新記録の走りをしたと言っても過言じゃなかった。
だからと言って、猫のしなやかな動きに二足歩行の人間が敵うわけなく。黒猫を捕まえられなくて、とうとう噂のオンボロ寮に着いてしまったというわけだ。
「勝手に入ったら不法侵入だしな……」
コソコソと泥棒に入るわけじゃないのに隠れてオンボロ寮を伺う。遠くから見ても威圧感がハンパない。オンボロとかなんとか言われていても、立派なもんは立派なのだ。侵入者を許さない雰囲気が漂っている。
「ニャア。」
聞き覚えのある声がオンボロ寮から聞こえた。オンボロ寮に誘われているような気がしないでもないが、このままコソコソとここから覗いていても家には帰れない。夜まで待てば両親は帰ってくるはずだけど、鍵を無くしたと言ったらなんて言われるか。絶対に怒られる。そして、鍵を探し出してこいと言われるはずだ。
どちらにしても、あの黒猫から鍵を取り戻さない理由はない。だからこそ、ここまで来たら腹を括るしか僕に残っている道はなかった。
「ごめんなさい!」
玄関に向かって一直線に走っていく。重厚な門をほぼ体当たりするような勢いで飛び込むと、幸い門に鍵はかかっていなかったらしく、スムーズに門の中に入れた。そのまま勢いを殺さずほぼスライディングするような体勢で入り込むと、重厚なドアに背中を合わせて思わず一息ついた。息を整えた後、試しに耳をドアにつけて中を伺っても物音ひとつしない。息を殺してドアを押してみると、思ったよりも簡単に開いてしまった。
「お、お邪魔しまーす……!」
ギィ、ギィと年相応の音を出しながら、それでも油を刺しているからか、引っ掛かりもなく開けられた。住人は不在のようで、電気一つもついていない。窓から少しだけ外光が差し込んでいるが、それだけでは屋敷の中を見渡すことは難しい。玄関から続く長い廊下の先は暗闇だ。
少しだけ埃っぽさを感じながら、恐る恐る中に入る。玄関先で途方に暮れていたら、奥からまたニャアと鳴き声が聞こえた。鳴き声に釣られるように、ゆっくりと廊下を歩く。置いてある物は少ないが、どこもかしこも小綺麗で、人がちゃんと住んでいる気配がする。
長い廊下を抜けた先には、アンティーク調のソファとテーブル。今のように開けた空間が広がっていた。
「綺麗な談話室だな……」
思わずポロッとこぼれ落ちた言葉がしっくり来た。談話室ってテレビでしか見たことなかったけど、馴染みがないのに出てくるってことは、それほど整えられたそれっぽく見える空間ってことだ。
うっすら入ってくる光を頼りに談話室の中心に近づく。談話室の真ん中の壁には絵画が飾ってあって、一際存在感を放っていた。
「綺麗な人。」
絵画に書かれていたのは龍と共に立っている綺麗な人。額に宝石みたいなものが埋め込まれていて、頭から生えているツノが作り物じみた美しさだった。
ほぉっと絵画に見惚れていると、コツコツとゆっくりとした足音が部屋に反響する。今自分がいる場所は、他人の住処だということに今更ながらに気付いて身がすくんだ。
「僕の城に迷い込んだ人の子がいると思ったら、まさかお前とはな。」
低い声が体内に響く。振り向けば、この世の人とは思えない綺麗な人がそこに立っていた。襟足だけ長くなっているブラックの髪、ライムグリーンの切れ長の目が暗い部屋の中で輝いている。
白いワイシャツに黒のズボンとラフな格好をしているのに、スタイルがいいために着こなしている。長い髪と白い肌は弱そうな印象を与えるはずなのに、体格が良いから貫禄がある。天は一物も二物、いや五物ぐらいは与えてしまったようだ。思わず言葉を失ってしまうほど、綺麗な人だった。
それとは別に僕の城って大袈裟じゃない?って思ったのは内緒にしたい。声に出なくてよかったと、遠い意識の中で安堵の溜息をつく。
「あ、なた、は?」
「僕はここの住民だ。お前はどうしてここにいる?」
男の人の言葉で今の自分の立場を思い出し、冷や汗が背中に伝う。ヤバい。これって、あの人にとって僕は不法侵入した泥棒に見えるよな?
「あの…すみません!鍵を盗った猫を追いかけて居たら、迷い込んでしまったみたいで!本当にすみません!鍵を見つけたらすぐに出て行きます!」
「猫?……鍵というのはこれのことか?」
必死でなんとか取り繕うとしたら、目の前の人は表情を変えずに何かを持ち上げた。指先で輝いているのは鍵。トランプのマークが四つ入ったストラップ。イタズラが好きそうな悪い顔をした蒼眼の猫のキャラクターのキーホルダー。まさしく、僕がここに入る原因となった家の鍵。それはそうとデフォルメされたキャラと宝石みたいな美しさを纏ったこの人とはミスマッチな感じがした。
「あ!それですそれ!何処でこれを!?」
「野良猫がこれを僕の寝室に置いて居た。もう盗られないようにするんだな。」
「ありがとうございます!えっと。」
そういえば、オンボロ寮に引っ越してきたって聞いたけど、名前は聞いてなかった。黒猫を追いかけて入った時も表札を見てなかったし、母の話も流していたからわからない。
うごうごと口の中で言葉を弄んでいると、フッと笑った音がした。
「僕のことは好きに呼べばいい。」
「え、いいんですか?」
「ああ、それにそのとってつけた敬語もやめろ。聞いていて不自然だ。」
「でも、失礼じゃないですか?」
「この僕が良いと言ったんだ。二度も言わせるな。」
この人は思ったよりも優しい人らしい。ちょっと上から目線なのが気になるけれど、服とか雰囲気が高貴っぽいから、いいところのお坊ちゃんなんだろう。それなら説明がつく。
「そっか。じゃあお言葉に甘えて。鍵拾ってくれてありがとう!ツノ太郎!」
ちょうどさっき見た絵画を思い出して、咄嗟にツノ太郎と言ってしまった。絵画の人と目の前の男の人は似ている。ひょっとしてこの人をモデルに書かれた絵かもしれない。だから少しでも関連性があった方がいいと思って、絵画の人に付いてあったツノから取って、ツノ太郎。僕のあだ名センスが無さすぎるのが同時にバレてしまった瞬間でもある。
僕の言葉に目の前の人は大きく目を見開いた。やっぱりツノ太郎はさすがに駄目かな。この人にはツノないし。じっと様子を伺っていると、キョトンした顔から一転、今度はケラケラと笑い出した。笑った姿も上品な雰囲気が崩れないから、この人は上流階級の人なのかもしれない。
「っく、はははは!」
「やっぱり駄目、かな?」
「良い。許そう。やはりお前はこうでなくては面白くない。」
偉そうだけど、彼からお許しが出たから遠慮なく使っていこう。
「ありがとう、ツノ太郎。」
「ああ、お前が僕をそのような名前で呼べることを。お前がそう呼んでいることを、忘れるなよ。」
ニヤリと笑う彼の顔が、どこか懐かしく感じた。
◆◆◆
あの日から、不思議なことに僕はツノ太郎と交流を深めている。どうしてこんな関係になったかは未だに僕自身わからないけれど、ツノ太郎の話は面白いし、ツノ太郎が用意してくれるお菓子は美味しい。
今日も学校帰りにオンボロ寮に寄って、広い談話室のど真ん中にあるテーブルで向き合って二人だけの茶会をしていた。
「手が止まっているぞ。今日の菓子は口に合わなかったか?」
「違うよ、今日のお菓子も美味しいし、ツノ太郎が淹れてくれた紅茶もおいしい。」
二人だけの茶会、いつも通りだ。ただ、僕の気分がいつも通りじゃないだけで。
「では、何故。お前はそんな顔をしている?」
ツノ太郎が椅子から立ち上がり、腰を曲げてこちらを覗き込んでくる。
ツノ太郎は身長が2m近くあるらしいから、テーブルを挟んでいても腰を曲げれば僕の顔のすぐ近くにツノ太郎の顔がくる。片方の頬に手をやり、僕の目元を優しく撫でた。
「酷い顔だ。まるで怖い夢を見て跳ね起きた赤子のような顔をしている。」
「そんなに変な顔してる?」
「ああ。」
それだけ言うと、ツノ太郎はすぐに離れて椅子に座り直した。
持ったままだったティーポットを置くと、波状に水面が揺れる。揺れがおさまった後に映った僕の顔は、たしかに酷い顔をしていた。the寝不足ですという顔をしていて、これじゃあツノ太郎が心配するのも当然だ。
「最近夢を見るんだ。」
最近になって見始めた夢。夢にようでいて、現実じみた感覚になる、不思議な夢を見る。
「大きな学園みたいなところにいて、知らない猫に『子分』って呼ばれるんだ。」
目を閉じれば、朧げだけど夢の内容が蘇ってくる。夢の中で僕は図書館みたいなところで、狸か猫かよくわからない生き物と真剣に何かを勉強していた。
『子分ぅ〜〜……』
『また?これで何回目だって思ってんのさ。』
『オレ様だって頑張ってんだゾ!』
『ハイハイ。じゃあ文句言わずに頑張ろうね。ーーー。』
『ふなぁ〜〜……』
ただの夢だと思っていた。でも、この生き物と過ごしていると懐かしい気分になって、まるで本当に体験したかのように思えてくる。
何故だろう。君のことは知らないのに、君の好物も、嫌いな教科も知っている気がするんだ。
『ーー。起きろ。お前がいなきゃ、誰がオレ様の勉強を見てくれるんだゾ。』
猫が喋るとか、どんなアニメだよ。そんなこと思っていたのは最初だけ。段々と夢を見ていると猫が悲しそうな顔で特徴的な声をあげていた。
『子分ぅ〜〜……』
あの黒猫が泣いていると、こっちまで悲しくなってきた。だから。
「あんまり、見たくない夢だったよ。」
「ほう、どうしてそう思った?」
「これ以上、みちゃいけない気がしたんだ。」
なんでそんなこと思ったのか説明できないけれど、どうにかしてあの泣いている生き物から目を逸らそうとしている自分がいた。
「見たくないって思っても絶対見るから、最近寝るのが少し億劫なんだよね。」
「なるほど、お前にとって嫌な夢を見るから、あまり寝ていないというわけか。なら、眠るお前に、僕が祝福を授けよう。」
「大袈裟だなぁ。眠るって、ツノ太郎僕の家まで来るの?」
「いや、そこまでは必要ない。今のお前に授ければいいのだからな。」
聞き馴染みのない言葉を口に出しながら、ツノ太郎が髪の毛を撫でてくる。
「これは?」
「おまじないだ。お前の憂いを払うように、僕が想いを込めて唱えた。」
なんだかお母さんにあやされているみたいだったけど、ツノ太郎が僕のためにやってくれたのは事実だ。
「ありがとう、ツノ太郎。」
「礼はいらない。僕は僕のするべきことをやっただけだからな。」
やっぱりツノ太郎の言い方は一々大袈裟だ。
でも、少しだけ沈んでいた気分がマシになっているから、案外おまじないも馬鹿に出来ないものだ。
◆◆◆
『やっぱお前がいないと面白くねーよ。ーーーも辛気臭いしさ、面倒臭い授業の暇つぶしがなくてつまんないし。』
『お前がいるから、僕たちは今まで楽しく過ごせたんだ。お前がいないと悲しい。』
『だからさ、早く帰ってこいよ。ーーー寮長も、ーーー先輩も、お前のこと、待っているんだから。』
『ーーーが泣き出す前に、もどってこい。』
どうして、お前らがそんな顔するんだ。戻るって、帰ってこいってどう言うことだよ。
こいつらのことなんて知らないはずなのに、こいつらにそんな顔させちゃいけない気がしたんだ。
◆◆◆
走って、走って。息を切らして、ツノ太郎の屋敷に潜り込んだ。
今日も今日とて不法侵入に変わりはないけど、それを気にする余裕はない。
「どうした、今日は一段と騒がしいな。」
階段の上から声をかけられる。ツノ太郎は今日も白いワイシャツに黒ズボンとラフな格好をしている。
「今日、あの人、たち、から、名前を、呼ばれ、たんだ。」
途切れ途切れに言っても、ツノ太郎は顔色一つ変えない。
「悲しそうな顔で、名前を呼ばれたんだ。どうしてって。呼ばれたんだ。」
僕はベットに寝転がっていて、スペードのスートを描いた青い髪の子と、ハートのスートを書いた赤髪の子が、僕の名前を呼んでいた。すごく悲しそうな顔で、今にも泣きそうな顔で我慢するように唇を噛み締めていた。
それで、それでーーーー
「落ち着け。呼吸が浅くなっているぞ。」
無意識に上がっていた呼吸をいつもの呼吸数に戻すようにツノ太郎がゆっくりと背中を撫でる。ツノ太郎が撫でているところから、体が楽になっている気がした。
「…教えて。」
「何を?」
「ツノ太郎の名前。」
ツノ太郎の名前を聞けば、この気持ち悪い違和感もなくなるはず。何故だかそう思ったんだ。
「ツノ太郎、僕は君の名前が知りたい。」
「まだだ。まだその時ではない。」
「どうして?」
「そう焦るな。その時になれば、お前にも教えてやろう。」
僕の頬を人撫ですると、日本人離れした緑色の目が、縦に筋が入ったように見えた。
そして、どこかで獣の鳴き声が聞こえた。
◆◆◆
気付けば学校じゃなくてオンボロ寮の玄関の前に立っていた。制服を着たまま、明るい時間にここに来たのは初めてだった。
ドアに付いている立派な蝶番を叩く。しばらくすれば鈍い音がしてドアが開いた。
「人の子よ、今日は学校ーー「今日もあの夢を見たよ。」」
ツノ太郎の言葉をさいぎって。ぐわんぐわんと獣の鳴き声が脳内に木霊する。
「今日はツノ太郎が出てきたんだ。出てきて、それで、獣の鳴き声が、聞こえたんだ。」
「そうか、もうそこまで来ていたのか。とにかく中に入れ。ここでは深い話はできなかろう。」
ツノ太郎に手をひかれて、いつも茶会をしている談話室に連れられた。いつもと違う、朝といってもいい時間帯だからか、日の光が窓から強く入り込んでいる。
「僕は、ずっと、君のことを待っていた気がするんだ。」
「ツノ太郎。貴方は一体、誰なの?」
「僕は一体、何者なの?」
ぐわんと景色が揺れて、天井から黒い液体がポツリと落ちた。
「思い出しちゃダメなのに。みんなが思い出せって言うんだ。」
頭の中でナニカが鳴く。ぐわんぐわんと脳みそが悲鳴を上げている。
「痛くて、痛くて。頭を掻き回されているみたいに痛いのに、思い出さないといけないの?」
黒いシミが床全体に広がって、部屋を包み込む。それでもツノ太郎が僕と向き合ったまま、表情を少しも変えなかった。
「何故お前は、そう頑なに思い出してはいけないと思い込んでいる?」
「それは……」
「お前は夢の中に出てきた者を『知らない』と言った。なら、思い出す必要はないはずだ。夢以外に思い出すものがないからな。」
「それでも思い出そうとしている。その行為がまだあるのならば、思い出す記憶がお前の中に眠っている。」
「目を醒ませ、人の子よ。お前は一体何を思い出そうとし、何を忘れているのか。お前は一体、何者だ?」
ツノ太郎の声が天命のように降り注ぐ。
「僕は……」
頭ではナニカの鳴き声が煩く響いて頭が割れそうだ。それでも、ツノ太郎の声はしっかりと脳みその中を染み込む。
『子分!』
あの生き物の声が、聞こえた。確かあの声は、狸でも猫でもなくって。
「ぐ、りむ?」
口から出てきた言葉を反芻すると、これまで見てきた夢の映像とは別の映像が流れてきた。
黒い棺桶に入っていた。そこで喋る猫、いやグリムに会って。カラスみたいな不審者、学園長に会って。オンボロの寮に住み込みで泊めてもらったんだ。エースに難癖つけられて、グレートセブンの像を燃やして学園長に怒られて。デュースも巻き込んでシャンデリアを壊した。
洞窟に行って、喧嘩して協力して。ボロボロになって学園長のところまで行って、正式に生徒として認めてもらったんだ。
どれもこれも、僕が経験してきた、僕の記憶だ。そうだ。思い出した。
「ぼく、は。…僕は、オンボロ寮の監督生、ユウだ!」
天井から落ちてきた雫が僕の中に染み込み、身体が引き裂かれるような激しい痛みが全身に駆け回る。頭の中で一番大きな声で獣が鳴いて、痛みと騒音で思わず身体を抱いてしゃがみ込んだ。
「上出来だ。」
ツノ太郎が指を鳴らすとしゃがみ込んだ僕の身体を緑色の炎が包み込む。炎が消える頃には身を裂くような痛みがなくなって、代わりに獣の悲鳴が聞こえた。
振り向けばアニメで見るようなバクのような姿をした、真っ黒な生き物が僕たちから離れたところに現れていた。ポタポタと黒い液体を垂らしている。
「なるほど。ただの病気だと思っていたが、実際は魔力に惹かれた魔物の仕業か。困ったな、リリアに伝えることがまた増えてしまった。」
目がぎょろっとした化け物が僕達に襲いかかる。ツノ太郎は手を横にすっと動かすと、何処からか糸車のような杖が出てきた。不思議な形の杖から放たれる一際大きな緑色の炎が化け物の巨体を焼いた。
「誰のものに手を出してしまったか、炎の中で自分の愚行を思い知るがいい。」
悲鳴をあげる化け物を意に関せず、マイペースに言葉を並べる。へなりと腰が抜けて、地面に座り込んだ。
「君は……一体。」
座り込んだまま、ツノ太郎を見上げる。色々思い出した今では、ツノのないツノ太郎に違和感を感じる。
「僕の名前はマレウス・ドラコニア。ディアソムニア寮寮長であり、茨の国の次期国王だ。」
高らかに宣言すると、緑色の炎がツノ太郎を包み込み、いつものラフな格好から絵画のような軍服に変わってツノが生えた。
「僕の役目は終わった。さあ、人の子よ。目覚めろ。お前の目覚めを待ち望む者がいる。」
空間にヒビが入り、ヒビの間から光が漏れた。
周りの景色が音を立てて崩れていく。
「僕の手を取れ。」
ツノ太郎の手を取ると、引き寄せられて、ツノ太郎の腕の中に囚われた。先程よりも強く抱きしめられて、ツノ太郎の存在を深く感じることができる。
「ここもじき崩壊するだろう。それまでは、僕の腕の中で守られていろ。」
とくりとツノ太郎の心臓の音が聞こえる。低い体温が熱を持って身体を包み込む。
僕の作り出した幻想が、願いが、壊れてしまった。僕はもう、ここにはいられない。
「ごめんなさい。」
誰に向けて言ったのすらわからない謝罪をして、僕はまた意識を失った。
◆◆◆
「眠り姫症候群、ですか。」
「ああ、イバラの国に住んでいる人間におきやすい睡眠障害だ。」
リドル・ローズハートの問いにマレウス・ドラコニアは表情変えずに言い放った。
ここは学園の執務室。各寮の代表者の生徒たちが学園の長をぐるりと囲んでいた。
「主に空気中の魔力の過剰摂取に限界になった体が、睡眠によって魔力を外に強制的に出すことによる半永久的な病気だ。詳しくはまだわかっていない。」
「そんな病気があるとは、聞いたことがありませんね。」
アズール・アーシェングロットの疑問にそうじゃろうなとマレウスについてきたリリア・ヴァンルージュは深くうなづく。
「ワシらの祖国、茨の国は特に空気中の魔力が濃い。それに人間はあまり存在せぬ。発病する人数が圧倒的に少ないゆえ、表には出ない珍しい奇病じゃと伝われておるな。」
「マレウス、このままだと監督生はどうなるんだ?」
カリム・アルアジームの問いに今も眠り続けている人間の子供に想いを馳せ、少し間を開けて答える。
「人の子は闇の鏡に魔力がないと言われているのだろう?なら、体内に蓄積された全ての魔力を吐き出して、魔力の吸収差の影響で死ぬだろうな。」
マレウスの言葉に学園長は困ったような声を上げる。
「それは困ります!彼が居なくなっては誰に雑よ……ゲフンゲフンッ!ともかく、眠っているだけでも私の雑よ…じゃなくて仕事が増えてしまいます!もし彼が死んでしまってこれ以上仕事が増えたら、私は過労で死んでしまいます……だから彼に死なれてたら私が困ります!ええ、本当に!とっても!!」
「だがトカゲ野郎の言い分通りなら、こっちから干渉する術はねェぞ。」
レオナ・キングスカラーはつまらなそうに尻尾を揺らしながら、冷静に言う。レオナの言い分にそうね、と続けてヴィル・シェーンハイトが口を開く。
「あの子は今、どのような状態なのかしら。それぐらいは検討はついているわよね?」
「そうだな、夢を見ているようなものだと仮定していい。この病気は主に魔力の排出が目的だ。強制的な魔力の排出は痛みを伴うと聞く。それに魔力の排出は命に関わる。本人に目覚めたいと気付かれたらおしまいだからな。醒めないように人の子が一番見たい夢を見ている可能性が高い。」
「一番見たい夢、ね。」
ヴィルは美しい顔を俯かせながら、そっと息を吐く。うっすらと漂う重苦しい雰囲気を気にせず、先程とは打って変わって明るい調子の学園長がにこりと笑う。
「そうですか、やはり。そうかと思って、他の先生に頼んで夢渡りの方法を探ってもらいました。」
学園長がパチンと指を鳴らすと、闇の鏡以外の鏡が浮かび上がった。
「皆さんを呼んだのは他でもありません。夢渡りには高度な魔法と鏡が必要です。私とっても優しいので、鏡は貸し出しましょう。」
「夢渡りをして人の子を夢から連れ戻すと言うことか。」
「そうです。できますよね?」
「可能性としたら、ゼロではない。だが、あいつの場合特殊だ。失敗したら、一生目覚めないだろう。」
学園長は大袈裟に肩を落とし、落胆した表情でハンカチで目を拭った。
「……やはり、無理ですか。ああ、惜しいですねぇ。しかしあなたたちは優秀と言っても、まだまだ魔術師の卵。こんな危険なことをさせてはいけませんよね。ああ、このままではユウくんの命は危うい……そしたらグリムくんの在籍も難しくなりますねぇ……でも仕方ないですよね。できないのですから。無理強いはいけません。」
「うっわ、白々しい。言葉の端々から他意が滲み出てますわ。」
「……僕を誰だと思っている?」
浮かぶ端末からの声を無視し、マレウスはニヤリと笑って、唇を一撫でする。
「眠っている人の子を起こすなど、グズつく赤子を泣き止ませるよりも容易だ。」
「あ。マレウス氏、乗っちゃうんだ。」
これたま端末から溢れた声に耳を傾けず、マレウスは部屋から足早に出て行こうとしていた。
「ちょっとどこ行くのよ。」
「暫し待て。用事を済ませてくる。」
「わかりました。僕たちは鏡の間で待っています。」
「どのくらいで戻ってきますか?」
「すぐ終わる。リリア、僕がいない間、寮を頼んだぞ。」
「相分かった。お主は安心してあの人の子の夢に渡るがいい。」
「ささ、残った皆さんは夢渡りの準備を手伝って下さい。私、とっても優しいので、これも授業加点に入れますよ!」
カラスが声高々に宣言するなか、マレウスはある所へと足を進めた。
◆◆◆
コツコツとゆっくりとした足音がオンボロ寮に反響する。
いつもなら騒がしいはずのゴーストも、子供に引っ付いている魔物も姿が見えない。これ幸いとベットの上で死んだように眠り続けている子供の部屋に入り込んだ。
子供のベットの周りには、お見舞いにきただろう他の生徒たちからの贈り物が溢れている。比較的物が少ないベットの横に腰がけ、子供の顔を覗き込む。耳を済ませば、わずかに呼吸をする音が聞こえる。覗き込むマレウスの長い髪が、子供の頬に伝った。
「お前にもらったチケットの礼もしていない。僕を無礼な男にするつもりか?」
マレウスの問いに答える声はない。それでもしばらくの間、死んだように眠っている子供の顔を眺めていた。
「……お前は今、何を見ているのだろうな。」
そうひとりごちると、眠る子供の額に口付けをし、男は寮を出た。
◆◆◆
ここでの目覚めは、いつも哀しいものだった。
目が醒めて初めて見るオンボロの天井は、ここが僕がいた世界じゃないと証明する。天井を見て、ああ違うのかと認めるのがルーティンの一つになってしまった。
だからといって、朝から憂鬱な気分になるかと言ったら嘘だ。隣ではグリムがフガフガと鼻を鳴らして寝ている。その姿を見るのは好きだったし、ゴーストたちは明るくて寂しい気分を吹き飛ばしてくれる。
「おはよう、ツノ太郎。」
いつもはグリムが寝ている隣に、ごろんと重いものが乗っている。若干ベットがそっちに傾いているのが分かる。
「起きたか。」
隣では、目が覚めるような美形がいた。朝から衝撃的なモノを見て、起き抜けのぼんやりした頭では情報を処理出来ず、暫くの間二人で見つめあっていた。
「ツノ太郎。」
「そうだ。」
やっと出てきた言葉に、ツノ太郎は短く答える。徐々に周り始めた頭で状況を判断しようとし、それでも横にツノ太郎がいる意味がさっぱり分からない。ぽつりぽつりと
「夢を見ていてさ。よく覚えていないけど、夢の中に、ツノ太郎が出てきたんだ。」
「あれは夢ではない。」
夢じゃないなら、この状況はどう説明するんだと思ったことが顔に出ていたらしく、珍しくクワっと無防備な欠伸をしながら言葉を続けた。
「人間が過剰に抱えた魔力を吸い出す魔物がいてな。お前はそいつに憑かれていたようだ。三週間、いや一ヶ月は寝ていたな。」
「嘘!そんなに寝てたの!?」
「ああ、お前が寝ている間、他の人間が来て賑やかだったぞ。」
「ツノ太郎はずっと僕の夢の中にいたわけ?」
「そうだ。」
「つまり、ツノ太郎も一ヶ月間、僕と一緒に眠っていたってこと?」
「そういうことになるな。」
「……どうして、そこまで。」
学業だってあるはずで、異世界人の僕よりも学校で過ごす時間は大切なはずなのに。その時間を使ってまで僕のそばにいてくれた。
ツノ太郎は少し考えるフリをして、口角を上げて僕の疑問に答える。
「なに、簡単なことだ。お前が思っている以上に、僕はお前を気に入っている。お前に憑いていた魔物に激しく嫉妬してしまうほどにな。」
目と鼻の先にツノ太郎の顔が広がり、ツノ太郎の手がするりと頬を撫でた。どこか機嫌が良さそうなのは、見間違いじゃ無さそうだ。
「あの閉ざされた空間にお前と二人でいるのもなかなか悪くなかったが、やはり現実でお前を話す方が僕は好きだ。」
「大袈裟だなぁ。」
「お前は僕を怖がらず、恐れず、唯一招待する珍しい人間だからな。多少贔屓してもしょうがないだろ?」
首にツノ太郎の頭が埋まる。ツノが肌を突いて少しくすぐったい。それと首筋に暖かく滑った感触があった。
「少し疲れた。リリアが迎えに来るまでまだ時間がある。僕の眠りに付き合え。」
「いいよ。今回はツノ太郎にいっぱい迷惑かけたみたいだから、それぐらいなら付き合うよ。」
小さく笑った気配がして、そのままゴロンとベットに身体を沈めた。