寒くなると恋しくなるもの「寒い」これで恐らく20回は超えただろう呟きをあえてスルーして、手元のフィルターに向けて熱湯を注ぐ。豆に湯を含ませる蒸らしを丁寧にするかどうかで香りが変わる、せっかく淹れるのだから美味しいほうがいい。
「寒い」
目先のソファーでケットにくるまりながら、ゴロゴロとまるで芋虫のようになっている何かが、また同じことをつぶやいているが保科は気にしない。
暖房を入れるかと聞いても断られた、なので仕方なしに風呂のスイッチをもつけ、ついでにくるまるためのケットを投げてよこした、これ以上する事はない、とういうか必要上に動かないから余計に寒いんじゃないだろうか。
蒸らし終わったコーヒー豆にゆっくりと湯を注ぐ、湯気と一緒にふわりと漂う柔らかな香りに胸踊る。
「寒い」
そろそろ鬱陶しくなってきた、さっさと風呂が沸けば首根っこ引っ掴んで湯船に放り込んでやるのに、こういう時に限って中々風呂が沸かない。
色々と物申したい気持ちをぐっとこらえ二つのカップに交互にお湯を注いでいく、ポタポタと抽出液がカップにたまり始めた。
こうなれば、後は豆をこぼさないように必要量のお湯を注ぎ続ければいい、最近見つけた新しい豆は想像以上に自分好みの香りをもたらしてくれている、今から飲むのが楽しみで無意識に笑顔が溢れる。
「寒い」
「うっさい」
せっかくこっちがいい気分なのにいちいち水を差す呟きに保科は思わず一言投げつける。
「寒いーー」
それでも懲りる様子もなく鳴海はソファの上でケットとゴロゴロと戯れている。一度怪獣が襲撃すれば、躊躇う事なく己の何十倍もの巨体に相対できるほどの気概を持つ、防衛隊の最強と名高い男が今や見る影もない。
「あーもうちょっとだけ待ってい」
半ば駄々っ子になっている男に対しておざなりに返事を投げかけながらも続けて湯を注ぐ手は緩めない。
カップの中には既に半量のコーヒーが溜まっている、いま注いでいる分が終わればちょうどいい頃だろう。
ケトルを下ろしてミルクと砂糖を取りに行くまだ向こうで寒いという声が聞こえるがあれは動物の鳴き声だと割り切ることにした。
「さーっきから寒い寒いってもうちょっとあったかい格好したらええんちゃいます」
鳴海は思わず目の前に差し出されたマグを受け取る。温かなコーヒーの香りが鼻腔をくすぐりそれだけでじわりと温もりに満たされる。
「うるさい……寒いと動くのが嫌になるんだ」
「もうええからそれ飲んどき」
喧嘩を売りにきたわけでもないので返事もそこそこに、色違いのマグを片手に鳴海のソファの前に腰を下ろす。元々2.5人掛けのソファは大の男2人座っても十分に余裕があるが今はお化けの被っているケットが邪魔でこうするしかない。
「あったかいなぁ」
しみじみと零される呟きに横を見上げる。
暖を取るようにマグを両手で包む仕草が少し子供みたいだなと呑気に思いなが保科も自分のマグに口をつけた。
少し苦味と酸味が強く香り高いコーヒーは保科の好みに合っている、恐らく鳴海もそうだろう、合うところが少ないがコーヒーの好みは意外なほど合うのだ。
しばらく互いにコーヒーを楽しんでいたが不意に気づくとケットののお化けがこちらにジリジリとにじり寄っていることに気づいた。訝しむ間も無く保科の背中から手が伸びてきあれよあれよという間に鳴海に抱きしめられる形になってしまった。
「なんや、いきなり」
鳴海の奇行は今に始まった事ではないのでいちいち騒ぐようなことはしない、それに大帝彼なりの理由はあるのでとりあえず聞いてみると「お前はあったかいなぁ」としみじみと言われ少し噴き出した。
「なんだいきなり」
鳴海としては面白くなかっただろう、ムッとした様子で言われるがそんなことを言われても困る。
「いやいきなりはそっちや、どんだけ寒かったん」
くすくす笑いながらも背中に引っ付いて離れる気のなさそうな恋人の頭を撫でる、少し硬めの髪がわしゃわしゃと音を立てる。髪型が乱れると悪態をついているがこんな撫でやすいところにいる方が悪いのだ。
「やめろー」
反撃するようにとソファーから降りうりうりと保科の脇腹をくすぐりにきた、遠慮ない指の動きに思わず笑い声をあげる。
逃げようにもソファとテーブルの間でまともに身動きも取れない状態だ、されるがままの行為に笑いながら堪えるしかない。
「少しじっとしていろ」
馬鹿みたいに笑っていられるだけでよかったのに、鳴海のその一言で途端に空気が変わった気がした。
あ、これはまずい、保科がそう思った時にはもう鳴海の呼気がわかるほどに彼の顔がそばに来ていた。
触れるだけの口づけはコーヒーの香りがした。ちゅっと軽いリップ音を立てすぐ離される期待も虚しく次いで顎を軽く持ち上げられ唇の端、顎の下頸筋と段々と下へ進められていく、されるがままの保科の反応をどう捉えたのだろうか、意気揚々と保科の胸元のボタンに手をかけようと指が伸ばされる。
「ちょっまち……」
なんとか抵抗しようと伸ばした手も易々と掴まれる、どれだけ駄々っ子モードになっていても目の前の男は自分と同等に俊敏であることを忘れていた。
「宗四郎」
突然呼ばれたファーストネームにどきりと、心臓が跳ねた。
保科が構わないと言っても気恥ずかしさかなかなか呼ばれることのないそれ、だがいつも呼ばないわけではない、ベッドで夜を共に過ごす時、鳴海は甘えるようにこの名で呼ぶのだ。
「う……それは……ひきょうやろ」
鳴海のせいで嫌でももたらされる、淫らな空気に身じろぐが、彼は気にした素振りもなく掴んだ手の親指の腹をペチャリと舐める。
「んっ」
思わず上げた声に気を良くしてそのまま水掻きまで丹念に舐め回されれ背中に電気が走るような錯覚を覚えた。
聞き慣れた電子音が耳の届く、ぼんやりと仕掛けた意識で自分がボタンを押したことにを忘れてしまっていた。
「あ、お風呂湧きましたわ」
「ん」
もともと寒い寒いとボタンひとつ押すのも面倒がって保科にその任を押し付けた本人が全く興味を示さず胸元のボタンに手をかけようとする。
「風呂、入ってき、風邪ひくやろ」
お構いなしで進めようとする手をチョップではたき落とされや鳴海の表情は随分不満顔だ。
「ここまでさせておいてお預けか」
ブツブツと恨み言をのたまう鳴海に呆れながらもなんとか姿勢を起こし保科は平成を装う。隙を見せればまた彼の思惑通りになるのが目に見えているからだ。
「自分が勝手に始めたんちゃいますか、ほれさっさといき」
「いやだ」
だがこの男は割としつこい、せっかくの獲物を手放したくないと嫌々駄々をこねる、さっきまで寒い寒いと言ってたではないか。
「わがままかっ」
もう一度チョップをしようかと掲げられた手刀を下ろすよりも先に体に手を回された。
「……一緒に入りたい」
腰に抱きついたままにポツリとこぼされた声はとても小さなものだったが、それでも保科の耳にしっかり届いてしまった、先ほどのように聞かないふりをすればよかったのに、先立っての行為のせいでふやけた頭はその言葉一つで顔に熱を集めるほどだ。
普段傍若無人なのにこういうとかばかりしおらしくなるのは勘弁してほしい。
だが今流されるままに共に行けば自身がどうなるかくらい考えなくてもわかる。
わかるのだが。
「宗四郎……」
縋るように紡がれるその後に必死に積み上げた防壁が無惨に崩されてしまう。
「……今日だけでやで……弦……」
羞恥をかなぐり捨て絞り出した言葉に顔を上げた鳴海の表情が見る間に破顔していくのがわかる。
鳴海もわかっているのだ保科が自分の下の名前を呼ぶ意味が、それがわかっていながらも思わず呼んでしまい赤面している保科の手を握り2人で浴室へ足を向ける。
恥ずかしすぎて顔もまともに見れないままにこの先のことを想像して余計に気恥ずかしくる。
なんでこんな馬鹿なことをしてしまったのか保科は心の中で自分の愚かさを呪った。
きっと全部この寒さのせいだ。