「舐めているんですか?」
いつにも増して冷たい声が執務室に響いた。
日光を遮断するように重たいカーテンが閉められたこの部屋に挿し込まれる光は少ない。唯一、と言ってもいいのが執務机に置かれた間接照明だ。高そうなインテリア、という言葉が似合うそれは、彼のパトロンが送ったもので、彼は気に入っているのかいないのか。ただ丁度いいから使っていた。
話を戻す。
目の前の彼は、酷く苛立った表情を見せていた。年々感情、というものが現れやすくなったとは言え、いまだよくわからない雰囲気を出す男である。それがミステリアスだ、なんて女性方は騒いでいたが、そんな可愛らしいものではないことを、俺は知っていた。
だからこそ、ここまで表情を露わにしているのは酷く珍しく、また琴線に触れてしまったことを俺はすぐさまに理解した。
コツコツと、リズムよく机に先を落とされる羽ペン。その周辺にはインクが飛び散っているが、彼は気になどしていなかった。あとで拭けばいい。もしくは魔法で消し去ってしまえばいい、とでも思っているのだろう。
もし彼の従卒がその姿を見ようものなら、恐怖でまず足を竦め、それからあの高級な執務机を送ったパトロンへと言い訳を考え始めるだろう。
無駄な考えだ。
そうだ、これこそも無駄な考えである。
小さなため息が一つ落とされ、インクがこれまた高級な、毛足の長いカーペットに堕ちることも構わず、羽ペンをこちらへと向けた。
ポタリ、とインクが落ちる。
「いいですか?貴方は俺の部下です。けれど、部下になってからまだたったの五年です」
彼が二十一歳。こちらが二十二歳の時の話である。すぐに彼は誕生日を迎えて二十二歳になったが、そんなことは今はどうでもいい。
そう、丁度五年前の話。
「けれど、俺と貴方が恋人として過ごした年月は?」
「・・・丁度、九年だな」
執務室であることをとうとう忘れ、敬語も辞めてそう答える。そうすれば彼は酷く満足そうな笑みを浮かべた。
「そうです。だから、俺が貴方からの愛に答えない訳がない」
羽ペンをインクボトルの中へと突っ込み、彼は立ち上がった。
「俺が本気で、貴方に愛を乞うな、なんて命令できるはずがない」
執務机を丁度半周し、足を止めた彼はふわりと身軽そうに自身の体を持ち上げ、執務机に腰かけた。そうしてよく鍛えられた美しい足を組み、首を傾げる。
「異論は?」
あぁ、本当に無駄な時間であった。
それだけが結果であった。
彼からの愛を疑ったこともなければ、子供のような拗ねを覚えたこともない。けれども本当にただの気まぐれ、偶然の産物。休暇中であるというのに、ひっそりと仕事をしに来た恋人への嫌がらせ、と言う名の悪戯。
彼のトラブルメーカーの所以ともいえる好奇心が移ったのだろうか。
はてさて。
執務机に腰かけたその体を少しばかり倒せば、あっという間に組み敷くことができた。
「愛しても?」
「お好きにどうぞ・・・先輩?」
悪寒がした。というよりも、その懐かしい呼び名に少しばかりの恥ずかしさを覚えた。嫌そうな表情を見せれば、元来悪戯好きな性格をしている意地の悪い彼は、満足そうな笑みを浮かべた。
「貴方のものですから」
***
ちょっとした解説。
この範達は先輩が卒業時から付き合っていて、達也は一足先に国防軍に入隊。後を追うように先輩が入隊し、将校となっていた達也の部下になります。
部下上司の関係になってから五年。付き合い始めてからは九年。先輩二十七歳、達也二十六歳の春の話です。