カフェオレいかがでしょうポップがカフェでバイトを始めて半年が過ぎた。
ヒュンケルはポップに教わった炒飯を時々作っている。その度にポップは味見を求められ、あれこれとアドバイスを与える。
少しずつ、だが確実な上達が感じられて教える方としても嬉しくなった。
この分だと店に出せる日も近いのではないか。
塩っぱい、辛い、甘い、そんな味の感覚も、
ヒュンケルは微かにだが感じられるようになっていた。
「いらっしゃいませ」
二人連れの女性客が入ってきた。ヒュンケルを見て頬を染め黄色い声で何事か話している。
初めてきた客はだいたいこうなる。
あまりのイケメンぶりに相手にされないと思うのか、カフェの雰囲気ゆえか、ヒュンケルがあからさまな秋波を送られることは案外少ない。
が、常連も、時には男性客でさえも、何がしかの感情がこもった密やかな視線でこの美丈夫を見ていることはしばしばだ。
ーずっと通ってる客は、珈琲、炒飯、ヒュンケル目当てが各30〜35%くらい、残りがおれの知り合いとか近所だからとかかな?
いや、被っている項目もあるから一概には言えねえ。珈琲×ヒュンケル、炒飯×ヒュンケルは相当数いそうだ。珈琲×炒飯もあるかも。全部ってのもあるわな。
ポップは冷静に分析するが、自分を勘定に入れない癖があるため、そこにはポップ×炒飯、ヒュンケル×ポップといった項目があることには気づいていない。
二人で出た買い出しの道すがら、振り返られたりあからさまな視線を向けられることはしょっちゅうだった。
ーーこんなにモテるのに、奴はフリーだ。
顔面の破壊力の大きさもさることながら、カフェを始める前の記憶を事故で失なっているという漫画のような過去が、憂いを帯びた表情に拍車をかけ凄絶な色気を放っている。
ヒュンケル自身は、事故の前も恋人はいなかったらしいと言っていた。
でも元カノとか、こいつのこと好きな子とかは絶対いたはずだよな、と黙々と珈琲を入れる整った横顔を眺めながら、ポップは考える。
(こいつ自身、好きな人とかいなかったのか?)
ふ、とヒュンケルが視線を上げたのでポップは慌ててそっぽを向き仕事に集中するふりをした。
見つめていたのがバレただろうか。
*
急に降り出した雨。
買い出しに出たヒュンケルは傘を持っていなかった。ポップは店を閉め傘を2本持ち靴を履いた。
商店街を行けばそのうち行き合うだろう。
しばらく歩き、果たして建物の軒先で雨宿りするその姿を見つけ、ポップは小さな笑みを浮かべた。
「ヒュンケル」
声をかけようとしてはっとした。
髪の長い女性がヒュンケルに傘を差し出していた。美人だ。
ヒュンケルは親しげな様子で何事か話している。
知り合い…、いや、彼女?
どきん、と心臓が跳ねるような感覚を覚えた。
声をかけて、「なんだよ、来る必要なかったな。紹介しろよ!」と冷やかしてやればいい。
なのに何故かポップはそうはせず、踵を返し駆け出していた。
「ただいま」
「……」
「急に雨に降られてまいったよ。食材があるからおまえに迎えに来てもらおうかと思ったが…」
「みずくせーじゃん!」
ポップはヒュンケルの言葉を遮った。
「あんな綺麗な彼女がいたんなら紹介してくれたって。あ、見せるのが惜しかったとか」
無理に笑顔を作って言った。
「彼女なんていない」
ヒュンケルが眉を顰めて答える。
「嘘つけ。見たんだよ」
「……」
ヒュンケルはしばらく考えて、思い至ったようだ。
「おまえは勘違いしてる」
「何が勘違いなんだよ。あんな嬉しそうに話してたじゃん。わざわざ迎えに行ってバカみてー」
「迎えに来てくれてたんだな、悪かった。しかし…」
「うるせー。もう聞きたくねーよ」
ポップは取り付く島もない。
「もうヒュンケルなんか知らねー。勝手にしろよ!」
立ち上がると、腹いせのようにドアをバン!と閉めて出て行ってしまった。
あとに残されたヒュンケルは、呆然と立ち尽くしていた。
*
ポップは涙を堪えながら、整理しきれない感情を持て余していた。
だって、1番近くにいたのはおれだ。
味のわからないあいつのために、あれこれ工夫してなんとか美味しく食べてもらおうと、張り切り過ぎて微妙な料理を出したこともあるけど、いつも嬉しそうに丁寧に礼を言って食べてくれた。
おれが横で見てたら、食べる顔もなんだか美味そうに見えてたぜ。
炒飯作ってる時の真剣な顔。
上手くいかなくて困った顔。
珈琲入れてる穏やかな顔。
寂しそうな顔。
笑顔。
全部そばでみていたい。
そしてあの、おれの大好きな顔。
ふっと口元を緩ませて、なんだか眩しそうに細めた優しい目で見つめる、あの顔。
ああやって見られると、ポップは胸が苦しくて、頭が蕩けそうになって、どうしていいか分からず、結局目を逸らしてしまう。
彼女のこともあんな風に見るのかな…。
いやだ。そんなのやだ。おれだけを見てほしい。
ポップは荒れ狂う感情の波に支配され戸惑う。こんなにコントロールが利かないなんて初めてだ。おれ、こんなだったか?
「まいった…」
ポップは両手で顔を覆った。
誰も見てないが、そうでもしないと恥ずかしくていられない。
きっと首筋から耳まで真っ赤だ。
あいつ男だし、6つも上だし、もてるし、
おれなんてよくて弟みたいなもんだろうし…。
言い訳を並べ立てるが、結局ポップは認めざるを得ない。
(これって恋、だよな…)
なんでだよ。相手にされてないってわかってるのに…。
ポップは引っ込んでいた涙がまたじわりと滲んでくるのを感じた。
*
一方ヒュンケルも混乱と疑問と喜びとその他様々な感情が一度に押し寄せ、困惑していた。
ポップのあの態度。
察するに、傘を受け取るところを見られていたのだろう。
ー嫉妬、なのだろうか。
ふつふつと嬉しさが込み上げる。
ポップへの想いは、早い段階で自覚していた、と思う。ただ、本人にも誰にも伝えるつもりはなかった。だが…、
もしかしてあいつも、俺のことを憎からず思ってくれているのだろうか?
もしそうなら、と快哉を叫びたくなる一方で、自分にそんな資格があるのか、と自問する。未来ある彼を縛ってはいけない、と強く思う。
自分のような男より、ポップには明るく、可愛らしい彼女が似合いだ、それが至極真っ当なことだと考える。
ヒュンケルは基本何事にも執着しないたちである。だが、同時に一度手にしたものへの
独占欲の強さも自覚していた。ポップに対してそれが出れば、自分でもどうなるのかわからない。
あまりに長い時間一緒にいすぎたのかもしれない。自分のことも味覚障害や記憶喪失のことまで、ついいろいろとポップに話してしまっていた。
ポップにしても自分への同情や年上の男への憧れを恋情と混同しているのだろう。
確か一人っ子で兄弟が欲しかったと言っていたし、兄のように思ってもらえるならこんなに嬉しいことはないと思っていた。
ヒュンケルは反省する。
ポップを大切に思うからこそ、節度をもって接しなければ。
*
「ポップ、付け合わせのクッキーを頼む」
「…あいにく切らしてる」
「何怒ってるんだ」
ヒュンケルは優しく言い聞かせるように言う。
「子どもみたいだぞ」
ヒュンケルの余裕の態度がポップの癪に触る。
ーーあーどーせ、おれは子供ですよ。
なんで平気でいられるんだ、こいつは。
やっぱりおれのことなんかただのバイトにしか思ってないんだよな…。
一日の仕事が終わりドアに「closed」の札を下げたところで、
「おれもうバイト辞めるから」
ポップはエプロンを外し、たたきつけるようにして店を出ようとした。
「待て」
「やだ」
ヒュンケルがポップの腕を掴む。
「はなせ!」
もう我慢の限界だった。
泣き顔は見られたくないのに。
ヒュンケルの力は強く、ポップは引き寄せられ、肩を掴んで前を向かされた。
「ちゃんと話せ」
「…っ」
ポップは泣きながら捲し立てた。
「おまえ、モテるし、相応しい人がいるし…」
「おれなんか、ただのバイトで…なのにおまえ優しいし。ちょっと仲良くなっただけなのに、おれ期待しちゃって」
自分で何を言ってるのかわからない。支離滅裂だ。
「一番近くにいたくて」
「わがままってわかってるけど」
「おまえに幸せになってほしいのに」
「もう我慢できないんだ。この気持ちをなかった事にできない。今まで通りなんてできない」
嗚咽を交えながら途切れ途切れにそこまで言って、息をついた。
ヒュンケルはじっとポップを見つめながら聞いていた。
「…何言ってる」
「ごめん、迷惑だよな…」
ヒュンケルはため息をついた。
「…この前のことなら、本当に誤解だ。
あの人は医者だ。カウンセリングに通ってるんだ。記憶のこともあるし、その、味覚障害も少しでも治ればと思って…。店のこともあるし、おまえの作ってくれる料理を味わいたいと」
「……」
医者?
「あの日はたまたま、クリニックの近くを通って、先生と偶然行きあって、わざわざ傘を貸してくれたんだ。建物の中を通って戻れるからって」
「ほんとに?」
「ああ」
ポップは一気に恥ずかしくなった。
「バカみたいだな」
「いや…、おまえに心配をかけるかと、何も言ってなかった俺が悪かった」
(…こんだけ騒いだらいくらこいつが鈍チンでもバレるだろ)
ポップは混乱する頭で、恥かきついでにもう言うしかない、と覚悟を決めた。
拳を握りしめてヒュンケルを見る。
「おれ…、」
「ヒュンケルが好きだ」
ああ、言ってしまった、と思った瞬間、ヒュンケルが目を見開き、その頬を一筋の涙がつたった。
綺麗な顔に綺麗な涙。
ポップは一瞬見惚れていたが、
「なんでおまえが泣くんだよ!」
我に返ってツッコむ。
「…すまん」
頬を伝う液体に今気づいた、とでもいうようにヒュンケルは手のひらで拭った。
「驚いて…」
と、
「…っ」
涙がぽろぽろと溢れてヒュンケルは片手で顔を覆った。
ポップは胸が苦しくなる。
「ヒュンケル…、ごめ…」
ポップは思わず謝った。
こいつ記憶喪失なんだった。
おれなんか気に触ること言ったか?傷つけちまったのか?
「あーもう、泣かないでくれよ」
「すまん、違うんだ、これは」
ヒュンケルは顔を伏せた。
「嬉しくて…」
「ばっ…かじゃねーのか」
おれから好きだって言われたぐらいで泣くなんて。どんだけピュアなんだ。
そっと手を伸ばし背中を撫ぜる。
「おい…、泣くなよ、泣かないで、ヒュンケル〜」
ヒュンケルも手を伸ばしてくる。
結局二人で抱き合っておいおい泣いてしまった。
*
「落ち着いたかよ」
「すまん、みっともないところを見せたな」
ポップの淹れたカフェオレをヒュンケルは飲んでいた。温かい液体が舌に触れると、僅かな感覚が呼び起こされる。
「甘い」
「こん限り砂糖いれたからな。おまえちっとも太らねえし。甘いものは落ち着くぜ。
ちったあ味わかるようになってよかったな…」
「うまいよ…」
両手でカップを持ちヒュンケルはうっとりと目を閉じた。
「自分が教えたからってな。褒めてもなんも出ねえぜ…大体もうそこまでわかるのか?」
ポップが照れ隠しに毒付く。
「わかるよ。味覚以外の五感は逆に鋭くなったような気がするんだ。見た目、匂いや温度や、作ってる時の音、口に入れた感触。
食べる相手のことを考えて一生懸命作ってくれてるのがわかるから、おまえの作るものはどれもうまい…」
「よせやい」
褒められるとポップは弱い。赤くなり鼻の頭を掻いている。そんな姿も可愛い、と見つめているヒュンケルに、気づいているのかいないのか。
「で?」
ポップは大事なことを忘れていた、と水を向けた。
「で、とは?」
だーかーら、とポップは指を突きつける。
「返事は?おれさっき告白したんだけど!
けっこう勇気振り絞って!」
泣くほど嬉しく思ってくれたってことはわかったが、それとこれとはまた別だ。
生殺しは辛い。期待する気持ちもないわけではないが、というかやっぱり期待してしまっているが、もしだめなら一思いに殺ってくれ。
(返事か…)
ヒュンケルは逡巡した。
もう、ポップの気持ちに応えないわけにはいかなかった。好きな相手にここまでの思いを告白されて、断れるほどの自制心は持ち合わせていない。自分は聖人ではない。
が、どう伝えようか。
「俺はこの店のほかは何も持ってない」
「知ってる、別に気にしねえ。おまえが何者だっていい」
「聞け。だからというか、俺はいったん自分のものにしたら執着が激しいんだ。歯止めが利かなくなる。いやがっても、離してやれんかもしれん。それでもいいか」
「それって」
驚くポップに、ヒュンケルの顔が近づいてきた。それは本当にスローモーションのように見えて、だけどやっぱり一瞬の出来事で、ひい、近い近い!と思う間もなく、柔らかく唇が触れた。
「返事は、これで足りるか?」
「…お釣りがくるわアホ」
(こいつ絶対たらしだ!)
これからも苦労するかもしれない、とポップは未来の贅沢な悩みに思いを馳せたが、やっぱり顔がニヤけるのは堪えきれなかった。