きみにあげたい気ままに漂う波間にネオンが浮かび、折り重なったシンセサイザーが大勢の人々の中を駆け抜けていく。
みずみずしい肌を惜しげも無く晒しながら音に身を委ねる若者たちの中心で、フェイスは今日も一際輝きを放っていた。自らの手で紡いだ音楽に人々が気持ちを預けている姿を眺めるのは気分がいい。
人助けなんて建前はとっくに意味をなさない。もともと何事にも受け身なフェイスにとって、オーナーが毎度のようにタイミング良く声をかけてくれると都合が良かった。先日の非日常な一件にあてられたような気もして若干後ろめたくはあるけれど、長い間ヒーローと音楽、そのどちらにも不誠実だったことを省みて、もう一度音楽とも正面から向き合うことを決めたのだ。自分の得意なことや好きなことで誰かの力になれることは素直に嬉しい。
そしてDJ業が趣味と実益を兼ねていてるだけでなく、この場に足を運びたくなるのにはもっと別の理由があった。
目下のフェイスが最も頭を悩ませているのは――。
「ブラッド?来てたんだ」
「ああ、今日は会議が予定より早く終わってな」
相変わらず気品溢れる佇まいに、周囲で賑わう若者たちとさほど変わらない水着姿のブラッドは、場に馴染めていなくて滑稽に思えてしまう。辺りを見渡してもキースやディノの姿は見当たらない。ここ最近はブラッドが一人で訪れることも少なくなかった。
どうして。なんで来たの。思わず口走りそうになるのをぐっと抑える。性急に答えを求めすぎたところで今はどうすることもできないのだと暗に示されてしまったからだ。それならば純粋に自分の音楽を聴きにきてくれたと思い込むほうがずっと建設的に思える。
「あの子、今どうしてるかな」
「それはお前がよく知っているだろう」
「さあ?覚えてないよ。せっかく帰れたのに、もうしばらくしたら“大好きなお兄ちゃん”に構ってもらえなくなるんじゃないの。かわいそうに」
ブラッドが手にしたグラスのカクテルが僅かに揺れた。彼にとってはアクセサリーのひとつに過ぎないそれを、ナイトプールに訪れるたび律儀に注文していることをフェイスは知っている。
「あの子がHELIOSにいる間、一緒に寝てたんだ。ひとりじゃ寝られないって泣きついちゃって。びっくりするほど小さい背中を抱きしめてあげてさ…あんたがそうやってくれたように。それでね…」
忘れかけていた、忘れたかったあの日の記憶が静かに思い起こされるようだった。離れて初めて自分にとっての兄の存在の大きさを痛感した。目を閉じればブラッドの姿が、体温が、匂いが。ありありと蘇る今ここにはないものに切なさでいっぱいになる。
同じ柔軟剤を使っているはずなのに、鼻先をくすぐるブラッドの匂いはいつだって心を穏やかにしてくれた。背中を叩くやさしい手のひらと、回された腕から伝う体温と、意識が途切れるまで絶え間なく語りかけてくれるあの声と。すべてが揃わなければフェイスは眠りにつくことすらおろか、一人でベッドに入ることすら敵わなかった。
泣き虫でわがままで気分屋だったいつかの自分。そんな彼から紡がれたのは、フェイス自身も想像していなかった宝物みたいな言葉だった。
「気分が落ち着くと決まって俺のことを褒めてくれたんだ。フェイスはお兄ちゃんと同じヒーローになってすごいねって」
頬を染め、瞼の中に大きな瞳を閉じ込めそうになりながら、囁くように耳元で呟いた彼は、それから数秒と経たないうちに静かに寝息を立てていた。
「あの子のまっすぐな言葉を聞いたら、昔の自分のことまで否定しようとしていたことが急にばからしくなっちゃった。あの子も俺のいちぶだったし、今でも心のどこかにいるんだと思う」
「フェイス…」
庭でみつけたちいさな花や、道路で光っていた珍しい石、一小節で心奪われたあの音楽。自分にとっての宝物は、ぜんぶ真っ先に兄に見せてあげたかった。これを見たら兄はどんな顔をするだろう。想像するだけで胸が弾んだ。だから、彼からもらった言葉をブラッドに伝えることは至極当たり前なことなのだ。そうありたいと、今のフェイスも同じ気持ちだった。
サングラスの奥でブラッドは目を細めた。最近はあまり見ないようなその表情は、きっと今の自分を通して幼い彼に向けられるべき眼差しなのだろう。
「あーあ、またべらべら喋っちゃったよ。喉渇いた〜っと」
「あ、待て!」
グラスの中身をあっという間に呷ってしまえばブラッドの制止すら間に合わない。ひとおもいに飲み下したあと、フェイスは悪戯っぽく舌を出して笑ってみせた。
「…やっぱりね。こんなとこでノンアルコールなんて飲んでるから馴染めないんだよ♪」
面食らったブラッドは何度見ても気分が良い。自分の言動にまだ動揺してくれることが何故だか嬉しいのだ。
「ここに来るのもタダじゃないんだから飲まなきゃ損だよ」
空になったグラスをブラッドの目の前で揺らしてみせた。
強引に兄の手を引き、フェイスはバーカウンターへと向かう。まだ自分は飲めないけれど、だからこそ少しでも顔色を変え隙のあるブラッドを見てみたい気もした。
ふと、脳裏にリトル・フェイスの言葉がよみがえる。
――きっと大丈夫。お兄ちゃんはずっと、フェイスのことが大好きだよ。