食から始まるロマンス「チャンピオンランクになったんです。この間、ジムチャレンジをしに来たばかりの、元気な男の子が」
珍しいこともあるものだ、とあたしは内心驚きながらも、手を動かしながら相槌を一つ。山盛りにおむすびが積まれた大皿を差し出せば、感謝を述べてから丁寧に合掌し、彼は普段通り黙々と食べ始めた。
だからあたしはその間に、先程の発言について考えてみることにした。
アカデミーで恒例の宝探しが始まると、この宝食堂兼チャンプルジムも、いつもより賑わいが増す。訪れる生徒は目まぐるしく、誰彼を全員覚えていることは正直難しい。けれど、今目の前で無表情のままおむすびを口に運ぶ男は、名前すら出さずにあの発言をしてみせた。つまり、その"元気な男の子"とやらは、記憶に焼き付いていて当然だという前提なのだ。
少しばかり考えて、一人にピンと思い当たる。ああ……そういえば、あの子ってば最近ジムチャレンジに来たばかりだったっけ。
「あ、やっぱりここに居ましたね」
不意に、賑々しい店内では場違いにも感じる高く若い声が聞こえ、いつの間にか俯き気味になっていた顔を弾かれたように上げた。
気付けば目の前には、幼く柔らかな顔立ちの男の子が、スーツを着ておむすびを頬張る男の隣に座っている。パチリと目が合うと、にっこりと人好きのする笑みが挨拶をよこした。
「こんにちは、お姉さん」
「あははっ、相変わらず上手いんだから。もしかして、今日も特別メニューがお目当てかい?」
「ううん、今日のお目当てはアオキさんだよ」
にっこりと笑う顔に、男──アオキさんは一度視線を向けたが、気にせずに残りの数個を食べ進めている。さしてその行動を気にした風もなく、大人しく食事が終わるのを待つ様子は、大変行儀が良い。何か出してやろうかしら。
「……何か食べますか」
湯呑をひとすすりしてようやっとかかった声に、小さな頭が左右に振られる。もしかしたら、何か食べてきた後なのかもしれない。とりあえずお茶だけでも、と湯呑を差し出せば、丁寧なお礼が返ってきた。
「アオキさん。この間、僕がチャンピオンランクになったときに言ったこと、覚えていますか?」
大皿が綺麗になり、アオキさんがごちそうさまを呟いたところで、少年──ハルトくんが話を切り出した。その問いかけに、いつも無表情な顔にある立派な眉毛が一瞬ぴくりと揺れたのを、正面に立つ私はバッチリと見てしまう。アオキさんに感情の揺れがおこるだなんて、一体全体どんな話なのだろう。そんな野次馬根性がチラリと顔を出しかけたが、それではいけないと首を振り、他の作業に移ることにした。最後にごゆっくり、と声をかけてその場を後にする直前、幼い口から出るとは思えない言葉が聞こえた気がしたが、きっと聞き間違いだろう。
✾✾✾✾✾
ジムチャレンジのときは外野ながらも声をかけることができたが、今日のバトルは息を呑むばかりで叱咤激励なんて出来やしない。チャンプルジムのジムリーダーがリーグ委員長以外と本気で戦う姿を、私は今で見たことがあっただろうか。
美しいテラスタルの破片が砕け散り、殿のムクホークがモンスターボールへと戻っていく。
「おかわり 三敗目です」
肩を僅かに落とし、猫背気味のままコートから降りてくるジムリーダーと、喜びを隠さない表情の少年。少し離れた距離で向かい合った二人を、スマホロトムでリーグ委員会への報告を済ませながら眺める。
「本気のジムリーダーアオキと戦えて、光栄でした。また是非!」
「……あくまで業務ならやるだけです。好き好んではやりませんよ」
「えー」
クスクスと軽やかに笑う視察代行の少年から視線を外し、緩やかに曲がった背のままアオキさんが店の出口へと向かっていく。
「本日はノー残業デーなので、これにて。さようなら」
よほど定時で帰れるのが嬉しいのか、その足取りは軽く颯爽と店を出て行った。それは吹き出してしまうほど、呆気なく。残された少年──ハルトくんは、その背が立ち去った後も暫くその場から動かずにいたが、不意にこちらを振り返ると、カウンター席へと腰を下ろした。
「何か食べていくかい?」
「じゃあ……、いつもアオキさんが食べてる、あのシンプルなおむすびがいいな」
「あら、でもあの量は無理だろうから……」
「ふふ、じゃあ三つくらいで」
あの大皿を思い浮かべたのか、控えめに笑った薄い唇が弧を描く。いつも通り湯呑を差し出してから、三角を握っていく。中身もないシンプルな塩むすびに、海苔を巻き付けてから、あっという間に平皿に三つ並べて差し出した。
「はいよ」
「うわぁ、ありがとうございます」
嬉しそうに顔を綻ばせたハルトくんは、合掌してから両手で一つおむすびを持って、小さな口で食む。数度咀嚼してから、また一口。その様子を眺めながら、ふとおむすびから連想された男の話題をなんの気なしにしてみることにした。
「そういえば、アオキさんってあまり自分から話題を振るような人じゃないんだけどさ。前にあんたがアオキさんに会いに来た日、珍しくあんたの話をされたんだよね」
「えっ!」
いつも穏やかな口調で話す少年らしくない声音に、若干驚きのけ反ると、申し訳無さそうに眉根を寄せた姿が小さくなる。この店の喧騒に比べたらささやかな音量ではあったので、気にしなさんなと笑い飛ばしてやった。
「あの……、なんの話をしてましたか?」
「まあ、話といっても……あんたがチャンピオンランクになったことを、あたしに伝えてきただけなんだけどさ」
「……そうなんだ」
おむすびを噛み締め丸い頬袋に詰めながら、僅かに俯いたハルトくんが唇を緩める。僅かに目尻のあたりが赤い気がして、おや?と思う。長年この食堂で色々な人間を見てきたからか、その表情に思い当たる節があった。自分の考えがもし当たっているのなら、今こうしてあの男の好物を頬張って、自分の話をしてくれたことに喜んている姿は、なんと健気なことなのだろうか。
「アオキさんも、隅に置けないねぇ」
「えっ?」
「あははっ、いや何でもないよ。もし悩みができたら、おばさんが相談乗るからね!」
不思議そうに傾げられた首が、お礼と共に縦に振られた。タポルのように甘酸っぱい予感に、年甲斐もなく胸が踊る。
こちらの考えなんて知る由もない少年は、やっぱりどこか嬉しそうに、最後のおむすびの一欠を口内に放り込んだ。
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滅多にない閑散とした店内から、夕焼けだったはずの空を見上げる。チャンプルタウンは現在、珍しい大雪に見舞われていた。先程まではカラッとしていたはずの天候が徐々に変化し、一時間後が今である。慌てて店を後にした客が多い中、ほんの数名が立ち往生していた。その中で、存外まったりした雰囲気の客が二人。いつもの定位置に並んだ高低差のある背中を通り過ぎ、カウンターの中へと戻る。一人は馴染みの黒いスーツ姿で、もう片割れはこれまた見慣れた学生服を身に纏っていた。
「アオキさんとお話できる時間ができたし、吹雪にも感謝かな〜」
「……はぁ、自分は帰れるのなら帰りたいですがね」
「明日も仕事なんですか?」
「いえ、幸いにも明日は休暇日です」
ため息を一つこぼし、男は俯きがちの顔を上げた。パチリと目が合うと、気温が下がったからとぜんざいの注文を二つ。驚きつつも嬉しそうな少年を微笑ましく思いながら、背を向けてコンロへと火をつける。お餅を網の上に二つ並べ注意を向けながらも、焦げないように小豆がいっぱいの鍋もかき混ぜていく。
「あの……、明日もし良ければ、昼間に時間をくれませんか?」
「はぁ、何故でしょうか」
「僕、好きな人とデートってしてみたいんです」
口から驚きで声が漏れそうになるのをグッと我慢しながらも、あの日聞き間違いだと思った言葉は、本当にあの男の子から出たのだということを思い知る。そしてまた、あたしが予想していた通りの青い感情を少年が抱いていることも、答え合わせができてしまった。
「……あなた、まさかこの間言ったこと……、本気なんですか?」
「えっと、どれのことですかね。チャンピオンランクになったときに、好きだと言ったことですか?それとも、ここで口説く宣言したときですか?」
「全部です……」
「それなら、答えはイエスですね。全部本気だよ」
「趣味が悪いですよ」
「えー、見る目あると思うなぁ。僕」
少し拗ねたような声音は少年らしいけれど、会話の内容とのギャップがありすぎてドキドキしてしまう。十代の甘酸っぱい想いは、彼よりいくつも歳が離れた男には些か眩しすぎるのではないだろうか。
お椀に甘さ控えめな小豆を注ぎ、膨らんだお餅をのせて完成したぜんざいを、それぞれの前に差し出す。
「わぁ、美味しそう」
「喉に詰まらせないようにね」
「……いただきます」
しっかりと手のひらを合わせてから、箸を手にとって先ずは猫背気味の男が食べ始める。その様子に一度目を向けてから、続いて片割れも倣うように食べていく。食事中は特に会話もなく、味わうことに夢中になっているようだ。ふと目線を外すと、疲労をにじませた双眸が、隣の少年を見ている。餅と格闘する姿を視界におさめると、皺の入った目尻をふっと下げた。
「ん?どうかした?」
咀嚼し終え、不意にその視線に気づいたハルトくんが、首を傾げた。いえ、と一つ首を振ったアオキさんは、ぜんざいを再び啜り始める。
邪魔者は退散退散、と再びカウンターから出て窓の外を眺めに行く。先程より雪の量は落ち着いているようで、一安心だ。天気を気にしながら待機していた客も、今がチャンスかもしれないと順に会計を済ませていく。しかし今の私には、それより何より余程気になることがあった。……あの二人、本当に明日会うのかしらね。
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「こんにちはー」
穏やかなソプラノが耳に届き肩越しに振り返ると、見慣れた幼い顔が、定位置となりつつあるカウンター席についていた。追加分の仕込みをしていた鍋の火を止めて、お茶を差し出しながらそちらへと向き合う。
「あら、いらっしゃい。でも残念ながら、今日アオキさんはリーグ側に行ってて来る予定はないよ」
「えっ!い、いや……会えるか期待してたわけじゃないですって。えっと、かけそばください」
「うふふ、はいよ」
図星だったのか、白い柔らかそうな頬を染めながら、慌ててオーダーを済ませる姿が微笑ましい。漏れ出す笑い声を隠すことはせず、改めてコンロへと火をつけた。誰かを想ってあーだこーだ悩んでるときって、楽しいもんなんだよね。過ぎ去りし青春を思い出して、自然と口元が緩む。
「はい、熱いうちに食べな」
「いただきまーす」
熱々の出し汁をかけ、トッピングにネギをのせたかけそばは、宝食堂の名物でもある。シンプルなのは、味に自信があるからだ。
目の前では薄く小さな唇が、息を吹きかけてから蕎麦を啜り上げ、味わうようにゆっくりと噛み締めている。美味しいなぁ、とぼんやり呟かれた一言に満足して、二度頷いた。
「……そういえば、僕ってバレバレでした?アオキさんへのアピール」
「モロバレルよりバレバレよ?……というよりむしろ、見せ付けられてるなって感じかしら」
「あー……、まあ別に悪いことをしてるわけじゃないんで、堂々と好意は出しているんですけどね」
眉根を寄せて笑った顔が少し俯いて、再び蕎麦を啜る。そこからはいつも通り、黙って食事に集中し始めたようだった。綺麗な箸使いは、保護者の教え方が良いからだろう。少年の周囲はなんとなくゆっくりとした時間が流れている気がして、無意識に詰めていた息を吐き出す。
この少年もチャンピオンランクになったからといって、まだまだ背伸びしがちな子どもなことに変わりはない。でもそんな子どもらしく、真っ直ぐに自分の気持ちを相手にぶつけていく姿勢は、大人になったらできなくなってしまうことだ。できれば、そのままあの草臥れた男の壁にかわらわりしてあげてほしい。
「ごちそうさまでした〜」
ぱちり、と両手を合わせたハルトくんが、満面の笑みを見せる。どうやら物思いに耽っている間に、食べ終わったらしい。お粗末様、と丼ぶりを受け取り、流しへと片付ける。
「ねぇ、お姉さん」
「はいはい、なんだい?」
「あのね、相談なんだけど……」
どうやら、以前にお節介として言ったことを覚えていてくれたらしい。躊躇いがちにこちらの様子を窺っているので、どんと胸を叩いて頷く。何でもどんとこいさ!
ホッとした様子で開かれた口からは、可愛らしい悩み事が述べられ、口元が緩んだ。日頃培った情報力を駆使して、若者へアドバイスを贈る。あたしからの話を聞きながら感心して頷いたり、改めて悩んだりしながらも、結論が出たらしい。
「うん、そうしようかな。喜んでくれるといいなぁ」
「大丈夫大丈夫!おばちゃん、応援してるわ!」
「嬉しいなぁ。ありがとうございます」
照れくさそうに笑った顔が、思いついたが吉日と席を立つ。もう一度感謝を告げてから軽い足取りでレジへと向かう背中に、頑張れ若人と誰に言うでもなく一人呟いた。
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本日のチャンプルジムは、珍しく大盛況だ。ジムチャレンジを乗り越えたチャレンジャーが立て続けに現れ、退けたり退けられなかったりしたが、どちらにせよ我らがジムリーダーの疲労が蓄積されているのは火を見るよりも明らかである。ノコッチがドリルライナーを決め、相手のポケモンが倒れ、最後の一匹が飛び出てきた。それと同時に、宝食堂の引き戸が開く。ひょっこりと覗いた顔が、ジム内を見回してから一点を視界におさめると、カウンターの側までやってきた。
「こんにちは。あらら、アオキさん滅茶苦茶疲れてますね。何人目ですか?」
「いらっしゃい。今ので七人目かしらねぇ」
「顔に帰りたいって書いてありますね」
「仕事だから勿論ちゃんと対応はしてるんだけどねー。さすがに休憩なしの連続は、可哀想だわ。終わったら、どっか連れ出してあげてよ」
ようやくこちらへと向いたくりくりの両目が、二度瞬く。それから彼は肯定も否定もせず、ただ苦笑いをこぼした。再び視線をコートへ戻した少年の後ろ姿越しに、自分も熱戦へ目を向ける。
今まさにチャレンジャーのポケモンが、テラスタルしたムクホークのからげんきよって地に伏せた。高らかに上げられた相棒の鳴き声に、疲労を滲ませながらも僅かにアオキさんの表情が穏やかになる。会場が拍手に包まれ、自然と自分も両手をうちあわせていた。数言、本日最後のチャレンジャーと会話をした後、ふとハルトくんの存在に気付いたのか、草臥れたスーツ姿がカウンターの側へと緩慢に歩み寄る。
「恰好良かったです。相変わらず」
「ムクホークたちは、よくやってくれています」
「勿論、ポケモンもですが。僕が言っているのはあなたです」
「……相変わらず、減らない口ですね」
「子どもはとっしんあるのみ、ですから」
にっこりと笑ってみせた柔らかく丸みを帯びた顔に、やれやれと男は溜め息をついてみせた。さすがに喉も乾いただろうと、あたしがコップ一杯の水を差し出してやれば、感謝と共に受け取り一気に呷る。らしくない荒い動きに、よっぽどだったんだなと微笑が漏れた。それはどうやら、彼の隣にいる少年も同じ感想だったらしい。
「……お疲れなのに、僕がいたら気疲れさせちゃいますかね。やっぱり、今日は帰ります」
ああ、なるほどと内心手を打つ。だからさっき何も言わなかったのか。こうなる可能性まで考えるなんて、やはりチャンピオンランクになるだけあって、先読みに長けているのかもしれない。ポケモンも恋愛も、勝負に変わりはない。
なんと返答するのかと空のグラスを受け取りながら眺めていると、地面に置いていたらしいビジネスバッグを手に持ち直したアオキさんが、くるりと背を向けた。どうやらやはり、休息優先らしい。そりゃそうかと納得し、流しにある食器を洗うため、スポンジを泡立てる。
「お疲れ様でした、アオキさん」
僅かな寂しさを滲ませながらも、笑顔で手を振る少年は、なんて健気なのだろう。ふと、歩み始めようとしたスーツを纏った背中が振り返る。いつもだったら颯爽と軽い足取りで退勤していくのに、珍しいものだ。少年も手を上げたまま、不思議そうに目を丸くしている。
「どうかしました?」
「……子どもはとっしんあるのみ、ではなかったんですか?」
「あはは……、まあそれはそうですけど。嫌われちゃっても困るんで」
「そうですか」
食器についた泡を流しながら、戦況を窺う。いつもとは違う流れに、少年の方はねこだましを食らったかのように、ひるんでいるらしい。その間にアオキさんは僅かに逡巡したような仕草をした後、少年の名前を呼んだ。おっ、と思う。少年は一度目で理解が追いついていなかったが、二度呼ばれれば少し裏返ったような返事をした。
「少し疲れたので、喫茶店なぎさでコーヒーでも飲もうと思うのですが。……来ますか?」
「へ、ひゃ、ひゃい!」
予想外に滅法弱いらしい背伸びした子どもは、年相応に戻ったように幼い仕草で、何度も真っ赤な顔で頷いてみせた。その様子にふっといつもより若干目元を緩めたアオキさんは、今度こそ背を向け颯爽と歩き出す。それに僅か遅れて、縺れるような足取りで小さな背が追いかけていく。二人の後ろ姿を軽やかに笑い声を上げながら見送っていると、くるりと振り返った少年は一つお辞儀をしてから、今度こそ店の外へと消えていった。
いいもん見せてもらったなぁと、胸中をほっこりさせながら、たまったままの洗い物へ再度取り掛かることにした。
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それは、店で使う食材の買い出しに出掛けていた時、偶然目に入った光景だった。チャンプルタウンには、チュロスなどの移動販売で買ったものを食べられるイートスペースが点在している。いい匂いに誘われ少し道を外れ、たまには甘いものでも買っていこうかなとその一角へ視線を動かさなければ、見えることもなかっただろう。簡易パラソルの下には、見覚えのある二人が向かい合って座っていた。まるで傍から見たら親子と言われてもおかしくない年齢の我が宝食堂の常連客たちが、外で会っているところを見たのは初めてだ。むしろ、よく今までで逆に見かけなかったなと思う。
年若い雛ムックルが、ムクホークへアピールをしていることに気付いてから、それなりの月日が経っていた。少年──ハルトくんがチャンピオンランクになり、委員長の代わりにジムの視察を行ったのは、もうだいぶ前の話。季節は巡り、背も少し伸びた。勿論、人並みではあるが。そのことを、嬉しそうに報告してきたこともあったっけ。
両手に袋をぶら下げながらぼんやりと回想していたが、さすがに指が痺れてきた。やっぱり暑いし、あまいやつめたいやでアイスクリームでも買って店に戻ろうかな。
移動販売車で注文を済ませている間も、視界の端に映る二人は、穏やかな雰囲気で会話を楽しんでいるようだった。暫くして声がかかったので、店員へ目線を戻す。従業員たちのぶんもカップに入れて詰めてもらうことにしたら、元から多かった荷物が結構な量になってしまった。仕方ない、と両腕に引っ掛けて持ち直そうと苦戦していたところで、ひょいと横からしなやかな白い腕と黒い腕伸びてくる。俯いていた顔を上げれば、先程まで談笑していた二人が、横に立っていた。
「重そうですね、お姉さん。持ちます」
「あらま、良いのかい?」
「ええ、いつも世話になっていますからね」
邪魔をしてしまったと申し訳なく思ったが、二人は欠片も気にしていないらしい。ハルトくんはからりと笑って、もう一人の男──アオキさんの言葉に大きく頷く。
「いつも美味しいご飯作ってもらってますから、これくらいさせてください」
「宝食堂に運べばよいのですか?」
「そうさね。ありがとさん」
お言葉に甘えることにして感謝を述べると、三人並んで歩き出した。そんなに長距離でなくとも、腕への負担が減ったことにほっと息を吐く。ついつい欲張って、アイスクリームまで買ってしまったのがいけなかったなと反省する。
「ごめんなさいね、ハルトくん。折角、アオキさんを独り占めしていたところなのに。邪魔しちゃって」
「はは、全然構いませんよ。あ、そういえば。アオキさんってば最近、ようやく会う約束してくれるようになったんですよ〜。粘りに粘ったかいがありました」
「……あなた、なんでそんな話をしているんですか」
「え?だってお姉さん、僕の相談相手ですし。報告は必要でしょう?」
「そうよ〜!」
からからと二人で笑い声を上げると、アオキさんは全てを察したようにげんなりと息を吐いた。そこからはこちらの会話には入らないことを決めたのか、ただ前を向いて黙々と歩いている。左手にビジネスバッグを持っているということは、休憩の時間を使って少年に会っていたのだろう。ようやく幼いながらの献身が、いのちのしずくのように少しずつ、草臥れた身体に染み渡り始めたのだ。
嬉しくなって、ハルトくんへ視線を戻そうとふと男の手元から顔を上げたとき、視界に違和感が映り込む。アオキさんの胸もとには、いつもの見慣れた水色に雲柄が入ったネクタイはなく、代わりにワンポイントに控えめな羽の柄が入った灰色のネクタイがあった。目を二度瞬かせてから、ハッとして右隣へと顔を向ける。この間受けた相談が活かされていることに感動してしまい、その感情のまま少年の名前を呼んだ。
それだけで意味を察したらしい彼は、ただ静かに荷物を持たない方の手のひらでピースサインを作って、にっかりと笑ってみせたのだった。
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年の瀬から年明けにかけて、宝食堂は大忙しである。かけそばカケソバかけそば、またかけそば。出るわ出るわ。大量に準備した出し汁があれよとなくなるので、寸胴鍋が空き次第に作っていく。そうしなければ、間に合わないくらいには忙しかった。ありがたいことだが、ニャースの手も借りたいくらいには大変なのである。
「かけそば二つ入りまーす!」
そんな賑々しい店内に、若いニャースのなきごえ一つ。反応した体は返事をしてから、自然に慣れた手付きで熱々の丼ぶり二つを作り上げた。それを手際よく盆に乗せると、テーブルの合間を縫って注文客の元まで持っていく。それをニャース──ではなく、ハルトくんは数時間繰り返してくれていた。からり、とまた引き戸が開く音。暖簾を潜ってきたのは、若干背の丸まった立ち姿の見慣れた男。ハッとして時計を見れば、もうすぐ二十二時を過ぎようとしていた。先程時計を見たときは、二十時だった気がしたのに……。申し訳なくなって、カウンター越しに頭を下げる。近付いてきた、珍しくスーツを身に纏っていない男は軽く頭を振った。
「気にしないでください。まだ未成年が補導される時間ではありませんから」
「すまないねぇ。わざわざ迎えにまで来てくれて」
「いえ……」
「あっ!アオキさん!」
疲れ知らずの明るい声が、早足で近づいてくる。フェアリーポケモンのようにつぶらで大きな丸い瞳が、爛々と輝いていた。その様子につい笑みをこぼしながら、渡す予定だった茶封筒を差し出す。
「おつかれさん。これ、お駄賃として受け取ってちょうだい」
「えっ!いや、僕からお手伝い申し出たんですよ」
少年は、困ったように二人の大人たちの顔を交互に見やっている。すると、ふっと息を吐いたアオキさんが口を開いた。
「いいですか。労働には、それに見合った対価が渡されて然るべきなんです。それを受け取る権利が、あなたにはあります。義務とすら言ってもいい」
「でも……」
「受け取りなさい」
チラリとこちらを見上げたつぶらなひとみに、一つ頷いて見せる。そろりと差し出された両手に、茶封筒を手渡した。その間にも客からのオーダーが行き交っているので、そろそろ自分も仕事に戻らなければ。
「大変だったろうに、ありがとうね。それじゃあ、また。よいおとしを」
「あ、はい!よいおとしを!」
「よいおとしを」
連れ立った二人が引き戸を出ていくまで見送る余裕はなく、すぐに注文と向き合う。あたしのバトルは、まだまだ始まったばかりだ。でんこうせっかの如く、年明けまで働いてやるわよ!
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宝食堂の厨房で働くようになってから、数十回目の宝探しのシーズンがやってきた。この時期になると、チャンプルジムのジムリーダーであるアオキさんは、ポケモンリーグの営業をするどころではなくなる。今日も代わる代わる訪れるチャレンジャーに、規定のレベル調整がされたノーマルタイプのポケモンたちが、力試しに立ちはだかっている。だが連戦に次ぐ連戦に、さすがにポケモンたちにも疲労が見られてきた。そこで寸分違わずアオキさんから飛んできたアイコンタクトに了解し、カウンターからレジ前の店員と外にいる客引きに、それぞれ今日のジムチャレンジは打ち止めの旨を告げた。
「はぁ、何度見ても良いですね。アオキさんのバトルは」
当たり前のようにカウンターの定位置に座った少年……いや、もう青年と言ってもいいだろう彼は、うっとりとした表情でバトルコートを眺めている。ムクホークのつばめがえしが華麗に決まり、チャレンジャーのポケモンがモンスターボールへと戻っていった。歓声と拍手が店内を包み込む中、いつかのようにいくつか相手と言葉を交わしたアオキさんは、真っ直ぐにこちらへと向かってきた。
「今日はノー残業デーですか?」
クスクスと笑いながらからかい混じりに問いかけたアルトに、テノールはそうですね、と僅かに口元を緩ませながら答える。そうして、それがさも当然のように伸びた青年の細い指先は、少しだけ曲がった水色のネクタイを整えた。
「よし、男前」
「あなたの趣味は、相変わらず悪いですね」
「あはは、僕は昔と変わらず今も趣味がいいですよ」
軽やかなやり取りに目を瞬かせたが、なんだようやくまとまったのかと察して目尻を下げた。最初は脈なしかと思ったのに、やっぱり辛抱強くとっしんを繰り返していただけはあったんだなと、胸が温かくなる。
「それじゃあ、また来ますねお姉さん」
「はいよ。今度は二人で揃っておいで。特別に赤飯炊いてあげる!」
「……はぁ、やめてください。いきますよ、ハルトさん」
あはは、と青年と二人笑い合って、手を振り合う。先を行く丸い背を、ムックルからムクバードに成長した姿が追いかけていく。懐くようにピッタリと寄せられた腕は、振り払われることなく引き戸を潜り抜けていった。
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