Mellow loneliness 2 ◇
今年のクリスマスは両日とも平日だ。
仕事に出て普段通りに過ごせば気が紛れるし、日中であれば普通にケンジと一緒に過ごせる。
イブが平日なんてデートの予定が組めないよ〜と周りには不評だが、零次には今年のカレンダーの曜日の並びがありがたかった。
秘密の関係になって初めて迎えるクリスマス——願わくば恋人同士らしい思い出が欲しいと、気持ちばかりが急いていた。
冷静になって自分の立場を顧みて、零次は自分の思いあがりを理解した。
すでにケンジと深い仲になっている身で、これ以上多くは望めない。当然ながら、彼の家族にも顔向けできないことをしている。
日中だけでもケンジのそばで過ごせれば、それで充分だったのだ。
だからせめて、昼休憩にランチデートに誘ってみよう……そんな計画を立てるだけで、心がいくぶん救われた。
❇︎
今日は一二月十日、月曜日。本日の業務を終え、零次はケンジと連れ立ってロッカールームへ向かった。
途中、何人かの顔見知りの職員とすれ違い、挨拶がてらケンジも交えて短い会話をした。零次は女性の職員から声をかけられることも多い。こっそりモーションをかけるように、胸の前で小さく手を振られることもしばしばだ。
女性に興味がないわけではないが、もう二年以上もケンジに心惹かれている。未婚なうえに女性に対してもストイックな零次は、その恵まれたスタイルも相まってアメリカでもよくモテた。
そして、なぜか今日は異様にモテた。
アンニュイにも映る目許が女性心をくすぐるのか、歩くだけでどこからともなくハートマークが飛んでくる。この厄介なハートに恋人が被弾していることを、このとき零次は知るよしもなかった……。
「ねえ、レイ君……。
あの娘たちもみんな、知り合い……?」
ロッカールームへ入ってすぐ、ドアを閉める零次に背を向けたままでケンジが訊いた。
その声が少しだけ苦いものを孕んでいて、意味合いを測りかねた零次はとっさに答えに窮した。
あの娘たち、とはさっき会った三人組の女性職員のことだ。業務中は遠慮してくれるが、昼休みや業務外の時間になると積極的にアピールしてくる娘も多い。まさか冷たくあしらうわけにもいかないので、そんなとき零次はいつも、期待を持たせない程度の当たり障りのない会話で対応していた。
「いや、知り合い、というか……会ったらああやって、世間話をする程度の仲だよ、みんな」
「……ふうん、そう…………」
「……うん……」
整然とロッカーの並ぶ室内は、がらんとしているものの暖房が効いて暖かい。
背を向けたまま黙ってしまったケンジの表情まで読み取れないが、なんとな〜く場の空気がヒリついているのを感じる……。ロッカーの死角の向こう側で、数人の職員の談笑が聞こえた。零次はなぜか、自分たち以外の気配に安堵した。
ケンジは声のするほうをチラッと気にして、ブルースーツの青さが眩しい肩で大きく息をついた。
まるで答えが出せずに困りきったような、悩ましい長いため息だった。
「レイ君」
「ハイッ……」
ケンジにしては低めの声で名前を呼ばれ、思わず返事が上ずった。
——なっ!?なんかケンさん怒ってる!?
他人に感情を読まれるのを嫌う零次は、人前でめったに表情を変えない。これが零次がクールキャラをつらぬく理由だ。
しかし相手がケンジになると、分かりやすくまっ青にもなってしまう。惚れた弱みと言うべきか、零次は自分でも思う以上に、二つ年上のケンジに心底惚れ込んでいた。
落ち着きを取り戻すように深呼吸をするケンジは、ようやく零次へと向き直りばつが悪そうに唇を開いた。
「……もう慣れたと思っていたけど、……なかなか慣れないものだね」
「な、何に……?」
恐る恐る訊ねた零次を、太い眉を困ったように下げて、かすかに頬笑む瞳が見あげた。
「すご〜くモテる恋人を持った、彼氏のキモチ」
「…………」
「あ〜、ほんとに……若い女の子にまで妬いちゃって、何やってるんだろ僕……。
ヤな態度とってごめんよ、レイ君」
「!!」
衝撃的なケンジのセリフが、特大のジャブをくらいバグった脳内でリフレーンする。
——うそ……ケンさん、妬いてくれてた……?
ケンジが嫉妬してくれる日が来るなんて、まさに青天の霹靂……零次には思いがけないことだった。
これまでの経験上、恋人からの嫉妬は束縛されているようで息苦しささえ感じた。嫉妬されて歓喜で心が震えるだなんて、ケンジが初めて教えてくれた。
『幸福』のもたらす予想外の刺激の強さによろ……っと傾いた零次を、ケンジは「えっ、えっ!?」とうろたえながら慌てて支えた。
「ちょっと、レイ君っ、大丈夫かい!?
どうしたの!?僕につかまっていいよ!」
「いや、うん、ありがと、ケンさん……」
自分より小柄なケンジの肩を借りることに一瞬迷いが生じたが、零次は甘えたい衝動を素直に受け入れた。体格差のせいで、肩を借りるつもりが結局ケンジを抱き込むかたちに落ち着いてしまい、そのまま彼の肩口に鼻先を埋めた。
「大丈夫?」
「あぁ、ごめん……」
零次の背中を撫でる手のひらは優しく、腕の中のケンジの身体はあたたかだった。
ブルースーツから香るのは、きっと彼の妻が選んだであろうほのかな花の芳香だ。零次は閉じていた目蓋を開いて、ケンジの身体をそっと放した。名残惜しいが、この場所で夢は見られない。誰かの談笑はまだ続いている。
「ケンさんて、妬くとあんな感じなんだな」
場を取り繕う零次がイタズラっぽく瞳を覗き込むと、ケンジは見る間に赤くなって、「僕も知らなかったよ」と恥ずかしそうにつぶやいた。
帰り支度を整えた二人は、駐車場までの道のりを並んで歩いた。頭上に星空の広がる暗闇の中で、街灯のオレンジ色の明かりがまっすぐに続く舗道を照らし出している。
ロッカールームで味わった至福を反芻する零次は、ケンジの歩幅にあわせて彼の右隣をゆっくり歩いた。
ケンジは左肩にかけたトートバッグからスマホを取り出し、何やら考え込むように黙ってしまった。右手に握ったスマホの画面がほの暗く発光し、そこに自分たちが目指す小惑星『314225AN41』が映った。もちろん、零次も同じ画像を待ち受けにしている。
長い沈黙のあと、ケンジが零次を振り仰いだ。
「ねえ、レイ君。
クリスマス、どうする?」
それは唐突に、けれど切り出すタイミングを慎重にうかがったケンジの言葉だった。
「えっ?」
今夜は幸せが供給過多で、にわかに思考が追いつかない。本当に、ケンジの声が左耳から右耳へすり抜けていった。
にぶい反応の零次を見て、ケンジはふふっと愛おしそうに笑った。
「クリスマスだよ、レイ君」
そう言うケンジの声は、少し早口で快活だ。
「せっかくだから、一緒にご飯食べたりしないのかなって……。
ほら、去年までのクリスマスとは違うでしょ?
レイ君、ぜんぜん誘ってくれないから……」
「えっ!?ええっ!?あっ、いやっ、そのっ!」
目をパチクリさせてあまりに零次が驚くものだから、ケンジはだんだんと不安げな表情になって、ついには声を弱々しくしぼませた。
「ぁ、えっと……なんかごめん……僕、見当違いなこと言っちゃったかな……」
マフラーの覆う首をすくめて、ケンジがしゅんと落ち込んでしまう。
——やばい!傷つけた〜〜〜!!!
俯き加減の横顔がきれいでいじらしくて、もっと見ていたくて……零次は愛おしさでぐちゃぐちゃになる感情を抑えて、今日イチ元気な声を張りあげた。
「違う!違うんだ!ケンさん!嬉しいよ、めちゃくちゃ嬉しい……!!
ケンさんの負担になりそうで、俺からは誘えなかったんだ……!だから、気にかけてくれて、本当に嬉しい……!!ありがとう!」
夜の冴えた空気を震わせた零次の声は、ケンジの心にも響いたようだ。
「レイ君、そんなに喜んでくれるんだ——」
さっきまでの心細そうな表情が消え、零次を見つめるケンジの瞳にほっと安堵の色が浮かんだ。
涼しげな目蓋の縁取る黒目は潤みを帯びて、思わずそのきらめきに魅入られてしまう。キスしたい、率直にそう思った。だけど、どこに人の目があるかわからない状況では一緒に歩くだけで精いっぱい、抱き締めることさえ無理だ。
ケンジと歩を揃えて歩く零次は、熱い衝動を逃すように一二月のカレンダーを脳裏に思い浮かべた。
一二月二二日は零次とケンジ、二人が小惑星探査の任務に任命された記念日だ。そしてケンジの次女、安の誕生日でもある。そこから二四日、二五日とクリスマスが続くから……
「ケンさんの家も予定があるだろうし、今週中のどこかで食事に行こうか」
零次の提案に、スマホの画面上でスケジュールを確認するケンジも賛成してくれた。
「レイ君、一四日は?金曜日だから、夜もゆっくりできるよ」
「俺は予定ないから平気だけど、ケンさんとこは大丈夫?」
やっぱり家に帰らなきゃ……と、土壇場でケンジが不在になってしまうのが一番つらい。
念のため用心深く訊ねる零次を横目に、ケンジは心配ないよと目を細めた。
「レイ君と夕ご飯食べるって言ったら、ゆっくりしてきてって歓迎されるよ」
そう言って、ニコッと白い歯を見せた。
癒されてふわりとあたたまる胸に、チクンと針で突かれた痛みがうまれる。それは確かにケンジの家族に対する罪悪感で、零次は喉を塞ぐ息苦しさを小さな咳払いで飲み込んだ。
「じゃ、金曜の夜はどっか食べ行く?ちょっといいとこ、予約しようか?」
店選びは任せてとケンジを窺うと、ケンジは少し考えたあとで零次を見あげた。
「うーん……。店もいいんだけど、もう予約取れないかもしれないし……。
だったら僕は、レイ君の家のほうがいいな。静かで落ち着くし」
「っ……了解!」
クリスマスにはまだまだ早いが、まさかの、念願の、二人きりの『お家デート』がようやく叶う。
そわそわと浮き立つ零次の横で、ケンジは朗らかな声で歌うように言った。
「じゃあ、決まりだね、レイ君。
金曜は仕事が終わったら、二人でおいしいお惣菜たくさん買って帰ろう」
「ああ、いいね——」
凛とした佇まいの彼が自分だけに見せる甘えた表情に、すっかり零次は溶かされてしまう。
きっと、零次もケンジの前ではデレた顔をしている。ちょっとカッコ悪いヘンな顔になるあくびも(本人はあくび認定していないが)、零次はケンジの前でだけは普通にできるのだ。
それが、ケンジとともに過ごす零次の常だ。
「ケンさん、お疲れさま。
また明日」
まだまだ話し足りないが、車の前で手を振ってケンジと別れる。笑顔で手を振り返すケンジの背中を見送って、零次はホッと吐息した。今夜のケンジのおかげで、思いつめた日々の焦燥が和らいだようだ。
乗り込んだ車内は冷え切っていたが、零次の胸にはあたたかな思慕の想いがこんこんと湧いていた。