Mellow loneliness 3 ◇
今週は、火、水、木曜日と、本当に落ち着かない一週間だった。
もちろん、年末に向けて仕事量が増えたことも一理ある。が、一番は『金曜日が待ち遠しすぎて、ぜんぜん気持ちが落ち着かない……!』コレに尽きた。
頭脳明晰・容姿端麗と高フルスペックな零次も、動物学的にはごく普通の健康的な成人男子である。疲れれば人並みにムラムラするし、当然ながら、自慰で性欲の処理もする。
しかしケンジと結ばれてからというもの、零次は極力自慰を避けるようになった。理由はポルノを見ることも、ケンジをオカズにすることにも罪悪感を感じるようになったからだ。
ケンジへの後ろめたさを抱えて気持ちよくヌケるわけもなく、ムラつけばジョギングや筋トレに精を出し、涙ぐましくも健康的な方法で性欲を昇華させていた。
零次はもともと剣道五段の腕前を持つスポーツマンである。体力だけでなく、忍耐にも持久力にも自信があった。
この数ヶ月、地道に筋トレに励んだ零次の身体は、以前よりずっと引き締まり逞しくなった。まさに美丈夫。長身の骨格を覆う筋肉はうっすらと厚く、硬く均整が取れて美しかった。
逢瀬のたびに、ケンジは零次の胸筋や腹筋に無邪気に触れた。零次は仔猫に舐められているような指先の戯れが、官能的で好きだった。
春にケンジに告白して以来、零次はいまだ数えるほどしか彼を抱いたことがない。圧倒的に機会がないのだ。
休日にも会えることはまれで、二人きりでの逢瀬は月に二回もあれば多いほうだ。そのぶん、メールのやり取りはオンもオフもこまめにしている。
それでも、『愛している』を直接ケンジの耳許で囁くのと、メールとして文字の羅列にして送るのとでは、伝えたい愛情の熱量に天地ほどの差があると零次は思う。
だからこそ、この週末はありったけの愛の言葉をまっ正面からケンジに伝えたい……!
そんな意気込みが見事に先走ってしまったのか、零次は夢の中で早速ケンジを抱いてしまった……。
夢とは本当に欲望に忠実で油断ならないものだ。たぎる欲望をケンジにぶつけた挙げ句、射精の気持ちよさと自己嫌悪のないまぜになった木曜の朝の目覚めは、なかなかにひどいものだった。
明日を心待ちにしながらも、木曜日は終日、ケンジの顔を正視できなかったのは、言うまでもない。
❇︎
待ちに待った一二月一四日、金曜日がやってきた。
深夜にざっと雨が降って、夜が明けても空は寒々とした薄墨色の雲に覆われた。
天気予報では正午には晴れ間がのぞくと言っていた。今晩は冷え込むものの、夜更けにかけてすっきり晴れるらしい。
今夜のケンジとの夕食は、ささやかなクリスマスディナーと忘年会も兼ねている。
やっぱりお酒も飲みたいよね〜ということで、はれてケンジのお泊まりが決定した。カズヤを交えてのお家デートは何度かしたが、ケンジが零次宅へ泊まるのはこれが初めてのことである。
ケンジと二人きりの夜を過ごせるのは、泊まりの出張に共に赴いたときくらい……とにかく貴重な今夜の逢瀬を、仲良く酔い潰れて気づけば朝!なんてことにはさせたくない。
絶対にロマンティックな一夜にする……!叶うなら……そう、久しぶりにキスもしたいし、嫌がられなかったらそれ以上も……。
暖かな部屋で恋人と過ごす冬の夜、甘い妄想はどこまでも膨らみ、胸は始終ときめきっぱなしだ。
理性ではがっついてはダメとわかっているのに、飢えた身体は夢で見た色っぽい展開を切望していた。
出勤間際までリビングやダイニングを片付けていた零次は、もしもに備えて寝室のベッドメイキングも念入りにした。
頭の中にはケンジがあふれて、心はずっと逸っていた。
零次自身、これほどまでにピュアな恋心がまだ自分の内に残っていたことが、驚きでもあり、新鮮だった。
❇︎
普段通り、午前中は目まぐるしく過ぎていった。
残りの業務を頑張ってこなせば、あとはご褒美のような一夜が待っている——そう思えば、俄然やる気も出るものだ。
ただひとつ、ケンジのことで少し気になることがあった。
午前中のシミュレーター訓練で、ケンジは二度ほど簡単なミスをした。チーム一まじめで優等生のケンジのミスに、フレディたちも驚いていた。もちろん、零次も。
昼休み、束の間ケンジと別れた零次は、人手で賑わう食堂のテラス席に一人座った。芝生に面した陽だまりのテラスでは、ほかにも数人の職員がグループごとに談笑している。
いつの間にか空は晴れて、ブルースーツだけでも過ごしやすい、暖かな気温になっていた。
訓練でケアレスミスをしたケンジは、反復したいから一五分ほど居残ると言った。心なしか、顔色がほんのり赤いのが気がかりだった。
俺も付きあおうか……そう口走りそうになった零次は、寸でのところで口をつぐんだ。ケンジは本当に優秀な男だ。心配だからと馴れあいで声をかけては、却ってケンジの邪魔をしてしまう。
ここはケンジがより集中しやすい環境を作るべきだと、零次は後ろ髪を引かれつつも先に昼休憩に入った。
——ほんと、大丈夫かな、ケンさん……。
ひょっとして、体調悪いとか……?
零次は軽く宙に吐息して、ランチセットの載ったトレイを手元に引き寄せた。
あ、そうだ、テラスにいることをケンジにメールしておこう……零次がそう思い立ちスマホを手に取ったとき、ふいにその人が現れた。
「よっ!レイちゃん、お疲れ〜」
「ヒャッ」
突然、背後からムギュッと肩を抱かれ、虚を衝かれた零次は間の抜けた悲鳴をあげた。スマホを取り落とさなかったのが救いである。
「なっ、なんなんスか〜……もう〜、毎回毎回、ほんとなんなんスか〜……」
わかりやすくため息をつき、零次は白んだ目つきで背後を振り仰いだ。
零次の肩越しに身を乗り出したのは、食わせ者の忍者先輩、紫三世だ。零次の反応に気をよくしたのか、紫は嬉しそうにヒャハッと笑った。
「いやあ、レイちゃん見つけたらスルーできないっしょ」
「……俺のこと、からかいたいだけでしょうが……」
「スキンシップって言って、スキンシップ」
背中にくっつく紫から、思わずくらっとするようなセクシーな香りがかおる。
「てか、レイちゃん、マジで身体仕上がってるね」
「……はぁ、どうも」
零次の肩周りを遠慮なく触る紫が、ヒュ〜と短い口笛を吹いて、吊りあがった細みの眉を持ちあげた。
紫は中堅クラスの先輩なのに、衒うことなく後輩によく甘えてくる。
特に零次はお気に入りらしく、紫は零次を見かけるといつも楽しそうに飛んで来た。まあ実際、この先輩と話すのは有意義だし、いじられるのは悔しいけれど、それ以上にとても楽しい。
雨の日まで晴れに変えてしまいそうなこの陽気な先輩が、零次も好きだった。
「今日は珍しいね、ケンちゃんと一緒じゃないんだ?」
隣のイスに浅く腰掛ける紫は、そう訊きながら頬杖をついて零次を見た。フォークを握る零次は本日のメイン、タルタルソースのかかったフィッシュフライを大まかに切り分けた。それを口に運ぶ前に、午前中にあったことをかいつまんで紫に話す。
「ケンさんは居残り練です。コンパネ操作の凡ミスが続いて、珍しいことだから周りも心配する感じで……」
「へ〜、ケンちゃんがね。そりゃ心配するわ……なにか上の空だったとか?
レイちゃん、なにも知らないの?」
紫を象徴する特徴的なサングラスの瞳が、チラッと零次を窺って光る。
ついつい紫の前で無防備に振る舞う零次は、うっかり今夜の予定について口を滑らせてしまった。
「たまたま、のミスかもしれないんですけどね……。
今夜一緒に飲むんで、聞いてみます」
「エッ!?」
ハスキーボイスが明るく弾み、途端に紫の瞳が輝いた。
マ、マズイ!と思ったが、ときすでに遅し……。
「いいな、いいな〜!俺も一緒に飲みたい!レイちゃん、仲間に入れてよ〜。
年末だし、たまには三人で飲もうよ〜」
「やっ、えっ、えーっと……」
——それだけは無理……!今夜だけはダメ!
ちゃんと断って、俺……!
一瞬、零次の脳裏に、紫をセンターに据えて酔い潰れた三人のビジョンがゆら〜っとよぎる。
いやいやいやいや、こんなの零次が思い描いた甘〜い夜とはほど遠い……。むしろ真逆にある悪夢ではないか……。
しかし、それをさて置いても、さすが陽キャの紫三世——。
呼ばれてもない飲みの席にも積極的に参加できる、そのマインドがストロングで頼もしい。
「ねっ、ねっ、レイちゃ〜ん、何時から?場所は?」
「やっ、えっ、ちょっ……!」
俺も寄せて〜の一辺倒でジリジリと距離を詰めてくる紫に、零次はすっかりタジタジになって、キッパリ断るきっかけを逃してしまった。
飄々として見える零次だが、目上の人間には礼を尽くす性格である。ここからどうやってフォローを入れつつ断ればいいのか……??
尊敬する先輩だから、余計に答えづらくなる。
「レイ君」
即答できずに固まる零次は、穏やかで芯のある、聞き慣れた声に顔をあげた。
「ケンさん……!」
にっこりと片手を挙げて頬笑むケンジが、きれいな所作で二人の向かいに腰掛けた。
「遅くなってごめんよ。テラスにいたんだね、ちょっと探したよ。
紫さん、お疲れさまです」
ケンジは手にしたランチバッグをテーブルに置き、紫に軽く会釈した。
爽やかな笑顔を向けられ、紫もにかっとイタズラっ子の笑みを浮かべる。陽の下で見るケンジは顔色もよく、気を揉んでいた零次はひとまずほっと安堵した。
「お疲れ〜、ケンちゃん。
ねえねえ、今夜の飲み会、俺も一緒に行ってい〜い?」
ワクワクを抑えきれない紫が、可愛い口ぶりで早速ケンジにお伺いを立てる。
涼しい瞳をぱちぱちっと瞬かせ、ケンジは説明を求めるように零次を見た。
——ごめん!ケンさん!断れなかった〜!
面目ない!と、胸の前で両手を合わせる零次を見て、ケンジはすぐに事情を察したようだ。
かすかに頷いたケンジは紫に向き直り、凛々しい眉を下げて申し訳なさそうに言った。
「紫さん、ごめんなさい。今夜は僕とレイ君だけで飲む約束なんです。
よければまた次の機会に一緒に飲みましょう」
こころよい笑顔で小首を傾いだケンジの言葉を、紫は零次の予想に反してあっさり受け入れた。断り方を考えあぐねた零次が拍子抜けするくらい、ケンジの前で紫はしおらしい……。
「も〜、ケンちゃんが言うならしょうがない……ほんと、年末までにみんなで行こうよ、ミヤッチとムッちゃん達も誘ってさ」
紫はあっけらかんとそう言うと、気を取り直した様子で零次とケンジを交互に見比べた。
その顔が意味深な笑みを浮かべるので、訝しさの込みあげる零次はたまらず紫を仰いだ。
「……な、なんなんすか〜、ニヤニヤして」
「いや、二人とも、すっかり相棒の顔になったなって思ったら、嬉しくってさ」
「「……!」」
「情熱的なケンちゃんと、クールなレイちゃん。
ほんとお似合いのコンビだよ」
紫が本当に嬉しそうにニッコリ笑うものだから、目を瞠る零次とケンジは思わず顔を見あわせた。
敬愛する先輩に二人揃って認められたことが誇らしくて、どちらともなく自然に口許がほころんだ。
ふふっと阿吽の呼吸で笑いあう二人を見つめ、両手を頭の後ろで組む紫は満足そうに背伸びした。