Mellow loneliness 4 ◇
待ち侘びた定時を迎え、零次はケンジと連れ立って仕事をあがった。
さいわい、休憩後にはケンジもいつもの調子を取り戻し、午後からの業務は滞りなく終えることができた。
あと三日、あと一日、あと数時間……零次が指折り数えた週末の夜が、泊まりの用意をしてきたケンジとともに、ようやく目の前にやってきた。
タイムカードを切った瞬間から、二人だけの秘密の時間の始まりである。
明日の昼までという制限つきではあるものの、今夜は思いきり羽根を伸ばして、恋人同士らしい尊い時間を楽しみたい……。
同僚であり相棒でもある零次とケンジは、普段から何ごともシェアしあってきた。
二人の力関係は平等——ではあるが、根っこのところでは零次が年上のケンジを深く敬っていた。
タクシーやエレベーターに乗り込むときには、ケンジが先に行けるようにそっと促してみたり、狭い通路を行くときには必ずケンジの一歩後ろについて歩いた。
この数年ケンジとともに過ごすうち、零次の中には無意識に『ケンジファースト』が根づいていた。
好きだからケンジに尽くしたい、という本音はあれど、過剰に女性のように扱うことも違うと零次は思っている。
車道側を恋人に歩かせるような気の利かない彼氏になりたくはないが、ケンジを庇いすぎて彼の男性性を傷つけてしまうことは絶対に避けたい。
ここはあくまで、『さりげなくフォローする』がポイントなのだ。
いかにさりげなくケンジに寄り添い、彼をバックアップできるのか……零次は日頃から、さりげない親愛のカタチについて自分にできることを考えていた。
職場を出る前に自販機でカップのココアを買ったのも、そんな思いがあったからだ。
「どうぞ、ケンさん」
二つ買ったうちの一つをケンジへ差し出すと、ケンジは零次を見あげて「ありがとう」と頬笑んだ。
これくらいのことであれば、遠慮せずに甘えてくれるととても嬉しい……。
「あったかい〜」
屈託なくニコニコするケンジは、ほのかに湯気の立つカップを両手で大切そうに包んでいる。
さっきカップを手渡すときに指先が触れて、零次は思わぬ冷たさにハッとした。遅い夕飯になりそうなので何か温かい飲み物でも、と思ったが正解だったようだ。
「ん……甘くておいしい〜」
結ぼれた糸までふにゃ〜とほどけてしまいそうなその表情がやわらかくて愛おしくて、見守る零次の一日の疲れが見事に吹き飛んでしまう。
「よかった……。
じゃあ、行こうか」
そばにいるだけで癒されるのに、ときめく心臓が早鐘を打って息が苦しい……。
まさに翻弄という言葉がぴったりの、なんて裏腹な恋心だろう。
こんな状態で一晩ケンジと過ごしたら、幸福が喉に詰まって死んでしまうかもしれない……。
——いや、それも本望……!
ケンジを促して歩き出した零次は、手にしたカップよりも熱くなった頬を、空いているほうの手でペチンと叩いた。
❇︎
これから先の移動はすべて零次の車で行うので、ケンジの車は一晩、駐車場でお留守番である。
カズヤの送り迎え以来、助手席に誰かを乗せるのは久しぶりのことだった。
ケンジが助手席に乗り込んだとき、零次の胸には初めて彼女を車に乗せたときのような、甘ずっぱい感覚がよみがえった。
カップホルダーに収まった二つのカップが、ドライブの始まりを予感させるようでドキドキと心を騒がせる。
「今夜はよろしく、レイ君」
「こちらこそ、ケンさん」
おもはゆい空気の中でシートベルトを締めて、お互いにニコッと視線を交わす。
駐車場までの道中が寒かったせいか、ケンジの瞳が涙を溜めているように濡れて見えた。真冬の冷気で冷え切った車内も、じきにエアコンが効いて暖気が充ちた。
くるくるとマフラーをほどく仕草と車外の明かりを弾く輪郭に目を奪われる零次は、ケンジも自分と同じような高揚感を感じてくれていたら嬉しいな……と、こっそり思った。
スーパーマーケットや飲食店の多く立ち並ぶ地区までドライブをしながら、二人でいろんな話をして笑った。
夕方の車内で聞いているラジオ番組が同じこと、よく買い物に行く店のこと、零次が気に入って通っているブックストアのこと……。
零次の話に耳を傾けて、相槌を打っては楽しそうに笑うケンジの横顔に胸が躍る。
——ああ〜、このまま連れ去ってしまいたい……!
この狭い車内で浸るには、なんという密度の濃い幸福感だろう……。
愛おしさが過ぎて、感情が暴徒化してしまいそうだ。
ケンジを独り占めしたい欲に囚われる零次をよそに、ケンジは「そういえば、お昼……」と、ふいに運転席の零次を仰いだ。
「紫さんに詰め寄られてるレイ君の顔、最高だったな」
「ン〜……あのときはゴメンネ」
「ううん、いいよ。なかなか断りづらいよね、わかるよ」
ふふっと思い出し笑いをするケンジが、カップに手を伸ばしてココアを啜る。
「クールなレイ君が泣きそうに困った顔してたから、思わずキュンとしちゃったよ」
「……そ、そうなの……?」
「うん。ホントはね……ちゃんと断って欲しかったけど、でもかわいかった。
これがギャップ萌えってやつなのかな?」
「……か、かわ……!?」
——ギャップ萌え……!?
ケンジからのストレートな愛情表現がとても嬉しいのに、情けない姿にキュンとされてしまった事実が恥ずかしい……。
そして、本当にかわいいひとから『かわいい』と言われて、激しく戸惑ってしまう……。
次は絶対に、かっこいいって言われる男になろう……。
そう、紫三世に迫られても怯まない男に……!
ハンドルを強く握り締め、零次は密かに胸に誓いを立てた。
いつの間にか車は人気の店がひしめきあう大通りに入り、車窓の景色が途端に華やかにきらめきだした。
まさか自分の発言が零次の心を掻き乱しているとも知らないケンジが、通りを彩るイルミネーションを見て「きれいだね〜」と瞳を輝かせている。
「今日はレイ君が運転してくれるから、街の夜景がゆっくり眺められるよ」
信号で停車しているあいだにカップのココアを飲み干して、ケンジは明るい声を弾ませた。
「ねえ、レイ君。
紫さんとも約束したけど、今度はみんなで忘年会やろうね」
「もちろん」
こころよく相槌を打つ零次の脳裏に、六太や絵名やせりか達、大切な同期の面々が浮かんだ。
❇︎
食べたいものをいろいろ相談して、夕食は日本料理店のお寿司とお肉料理をテイクアウトした。
二人で歩く街並みが目に沁みるほどきれいで、長いあいだ一人で歩くことに慣れていた零次は、かたわらに誰かのいるぬくもりを改めて感じた。
街がクリスマス一色に染まった冬の夜のデートなんて、切ないけれど今年はこれで最後だと思う。
このまま車に戻って帰路に着いてしてしまうには、あまりに残念で心残りが多過ぎた。
「なあケンさん……。
もう少しだけ、俺とデートしてくれない?」
零次は惣菜の入った紙袋を振らないように歩きながら、頭ひとつぶん背の低いケンジに耳打ちをした。
デート、という単語に弾かれたように肩を跳ねさせたケンジが、街の灯を映すきれいな黒目で零次を見あげた。
「い、いいの……!?
だったら僕は、レイ君とクリスマスマーケットに行きたい!」
「……!」
同意してくれるだけでも救われるのに、零次とどこへ行きたいかまで、しっかりと伝えてくれたことが本当に嬉しい……。
この時期はどこのデパートやショッピングモールも簡易的なクリスマスマーケットを開催している。クリスマスにまつわるお菓子や日用雑貨を扱う露店が小さな町のように立ち並び、大人でも童心にかえって買い物を楽しむことができた。
「いいね〜、デザート買ってないから、おいしそうなやつ探してみよっか?」
「うん、探そう探そう!
ふふっ……」
首元を暖めるマフラーを掴んだケンジの指が、くいっと生地を上へ引き上げてほころんだ口許を隠してしまう。
ケンジの左手で光るプラチナの冷えた輝きが、イルミネーションのまたたく都会的な冬の夜に似合っていた。
「どうしたの、ケンさん?」
ほくほくと嬉しそうな笑みで寄り添うケンジに、愛おしさを隠しきれない零次が訊く。
ケンジはマフラーを少しずらして唇を出すと、照れくさそうに零次を仰いだ。
「レイ君とデートしてるんだなって思ったら、胸がときめいちゃって……。
一人でニヤニヤしちゃって、ごめんよ」
「……!」
——それ俺のほうだからッ!!
今すぐに抱き締めたい衝動をいさめ、零次は「俺なんて、ずっとときめいてるよ……」と、枝先にまで光をまとう街路樹に向かってつぶやいた。
道理に反した道ならぬ恋ゆえに、思い悩む夜もたくさんある。
世間にも、ケンジの家族にも顔向けのできない恋をしている。
だけど、神様、今夜だけはこの幸福を許してほしい……。
——ケンさんの隣、すげえあったかい……。
なんか、泣きそう……。
胸の奥から染み出て全身を満たす多幸感を噛み締めると、車道を往くテールランプの帯が幾重にもにじんだ。
❇︎
地元でも人気のショッピングモールの、棟と棟をむすぶ広い中庭はたくさんの人出で賑わっていた。
手入れされた植木には温かみのあるオレンジのライトが灯り、カラフルなネオンサインが縁取る露店は絵本の世界のように輝いて見えた。
今まで足を止めてじっくり見たことはなかったが、やはりクリスマスマーケットの光景は心踊る懐かしさと夢が詰まっている。この時期だけの特別な催しをケンジと見てまわれるなんて、一層期待に胸が高鳴った。
さまざまな露店を見物する途中、二人が足を止めたのはかわいらしいチョコレートの店だった。そこで零次の家で飲むためのホットチョコレート用のスティックチョコを数本買った。
ケンジはほかにも、レトロな雑貨を取り扱う店で何やら小物を買っていた。
何を買ったの?と訊ねた零次に、ケンジは「あとでね、今は内緒」と目をキラキラさせて笑った。
「レイ君、ツリーもおっきいよ〜!すごくきれいだよ!」
はしゃぐケンジが指差すのは、広場の中央に飾られた七、八メートルはありそうな立派なクリスマスツリーだ。
やさしい灯りを明滅させる枝葉の合間に、たっぷりと大ぶりな赤や金に輝くオーナメントが揺れている。幻想的で華麗な装飾は、堂々とそこに佇むもみの木の威厳にふさわしかった。
ツリーの周囲には買い物を楽しむ人々が集い、思い思いにスマホを構えて記念撮影をしている。
何か思いを巡らせるような横顔で彼らを見ていたケンジが、ちら……と一瞬、零次を見あげた。
その視線に垣間見えたケンジの本音を、零次はすべて暴いてしまう。
零次だってケンジと同じ、今夜の思い出が欲しいのだ——。
「俺たちも一枚、撮っとく?」
「!」
気持ちを悟られたことにケンジは目を丸くして、そしてすぐに小さく肩を揺らして笑った。
「さすがだよ、レイ君……なんで僕が思ってたことわかったの?
うん!一緒に撮りたい。いいかな?」
「もちろん!俺のスマホで撮ってもいい?」
「うん、いいよ」
「OK、ちょっと待ってて……」
零次がバッグからスマホを取り出しているあいだに、左隣にぴたっとケンジが寄り添ってきた。おずおずと、しおらしくくっつく姿が思わず頬笑んでしまうくらいにかわいかった。
みんながそれぞれに夢中になっているこの空間でなら、自撮りをするために肩を寄せあうことも許されそうだ。
インカメラにしたスマホを構えて、零次は思いきってケンジの身体を抱き寄せた。ケンジの着たダウンから、すっきりとした身体の線が手のひらに伝わる。
ふいに零次が見せた思わぬ力に、ケンジ当人は少し驚いてしまったようだ。
零次は画面の中のケンジを見つめて、強張りをほどくような優しい声で合図した。
「撮るよ、ケンさん」
「う、うん!」
慌てて姿勢を正すケンジもまた、画面の中の零次を見つめた。
たくさんの人を見守るツリーをバックに、二人ははにかんだ笑顔で写真に写った。
これをきっかけにグンと距離が縮んだ二人は、保存した写真を頭を突きあわせて覗き込んだ。
「……うん、いいね」
「うん、最高のツーショットだよ。
あとで僕のスマホにも送ってほしいな」
こうして二人で写真に収まるのは、夏に日本に帰って以来だ。
あの時も楽しかったな……二人して島根の観光地を巡った夏の日を思い出して、零次はふっと目蓋を伏せて頬笑んだ。
「あ、レイ君いま、島根デートのこと思い出したでしょ」
「えっ……!?当たり……!
ケンさん、なんでわかったの!?」
見あげるケンジにズバリと言い当てられて、今度は零次がうろたえてしまう。
ケンジは瞳を細めてふふっと笑い、とても得意そうに声を弾ませた。
「だって、僕らはバディだからね」
「そっか、そうだった……。
ケンさんといれば、最強だな」
今や同期以上の強い絆で結ばれた零次とケンジは、以心伝心の言葉もいらない関係になっている。
「レイ君、帰りは僕が荷物を持つよ」
惣菜の入った紙袋を零次の手から譲り受け、ケンジは笑顔で零次を促した。
「デート楽しかったね。
さ、レイ君の家に帰ろう」
「……、ああ——」
また一つ増えた大切な思い出を胸に抱いて、深く頷いた零次はケンジと並んで歩き出した。