Mellow loneliness 5 ◇
零次の暮らす地区には、常緑樹の並木が印象的な長い遊歩道がある。
周辺には市民の集うきれいな公園もあり、零次もジョギングのときには必ずここを通った。
日中は足下に木漏れ日を作る豊かな葉群れが、今は夜更けの冷たい夜気の中でひっそりと漆黒の闇をたたえている。
ドライブの終わりを惜しむようにゆっくりと過ぎる車窓に、家々の明かりが暖かく灯る。閑静な住宅街の中で、家庭用のイルミネーションを軒先に飾る家は、夜だけ現れる小さな遊園地のようにも見えた。
二一時半を少し過ぎたころ、車はようやく零次宅へ到着した。
ガレージ側の玄関からケンジを家に招き入れ、零次はコートを脱ぐ間も惜しんでリビングダイニングの暖房を入れた。今朝聞いた天気予報の通り、今夜の冷え込みはかなり厳しい。
帰宅しても待ち人のいない室内の寒さに零次は慣れているが、家庭のあるケンジはそうではない。せっかく泊まりがけで来てくれたのだから、一時でも不自由な思いはさせたくなかった。
「ケンさん、すぐ夕飯の用意するから、自由にくつろいでていいよ」
コートをハンガーにさっと掛けた零次は、今度はエプロンを手早く着けながらケンジに言った。
零次のあとについて部屋へあがったケンジは、肩に掛けたバッグを静かに床に置き、「ううん」と首を横に振った。
「僕も一緒に手伝うよ。
くつろぐのは、あとからでもレイ君といっぱいできるから……」
そう言って、ね?と小首を傾いでにっこり笑う。
「ぐ……ッ!!」
——カワッ!!カワッ、イイーッ……!!
罪な恋人にハートをギュンッと射抜かれて、エプロンのウエストリボンを結ぶ零次はしどろもどろで答えた。
「そっ、そうっ……!?
じゃ、じゃあ、一緒に準備しようか……」
言ったそばからみるみる顔が熱くなって、おまけに声もひっくり返って……いつものことながら、ケンジにイイキモチにさせられて、全然キマらない零次である。
ケンジは脱いだダウンジャケットを胸に抱き、ほんのり赤い顔で嬉しそうに頷いた。
「うん!二人ですれば、楽しいし時短にもなるよ。
レイ君、ハンガー借りてもいい?」
「もちろん。マフラーも預かるよ」
「ありがとう」
ケンジの温もりを宿したダウンとマフラーを受け取って、零次はそれらを丁寧にハンガーにかけた。
今日のケンジは象牙色のやさしい風合いのセーターを着ている。細身のジーンズと相まって、端正な風貌の彼にとても似合っていた。
零次はふと思い立ち、カウンターキッチンの備えつけの戸棚から、きれいにたたまれたエプロンを取り出した。これはカズヤが家事を手伝うときに使っていたものだ。
仕事の都合上、零次は家を留守にすることも多い。カズヤが一人のときでも食事に困らないようにと、彼に少しずつ料理の基礎を教えていたのだ。今は一人暮らしのカズヤだが、たまに手料理の写真をメールで送っては、零次をほっこりと和ませていた。
「ケンさん、これ……弟が使ってたやつだけど、よかったら着けて。
ちゃんと洗濯してるから」
「あっ、ありがとう」
服を汚さないためのひとまずの気遣いを、ケンジは感激した様子でこころよく受け取った。
リネン生地のありふれた形のエプロンも、ケンジが着けるとパッとその場が華やぐような新鮮な印象に変わる。
「……、そう言えば、初めて見たな、ケンさんのエプロン姿」
布帛特有の素朴な質感と自然体で佇むケンジのコントラストが好ましくて、思わずじっと見入ってしまった。
警戒させるつもりも、緊張させたかったわけでもない。
ただ、どんな姿のケンジも目に焼きつけておきたかった。
なんなら、ずぅ〜……っと見ていられると思った。
「…………」
「…………」
目が合って、逸らして、吸い寄せられるようにまた視線をからませて……。
意味深でいて、なんとな〜くお互いの出方を探り合う沈黙が続いたあと——
ケンジがソワソワと視線を泳がせて、ふっくらと形のいい唇を震わせて零次をなじった。
「うぅ〜、降参……!レイ君、そんな目で見つめるなんてずるいよ……!
キっ、キスしたくなるじゃないか……!」
潤んで足下をさまよった瞳が、物欲しさを訴えて零次の唇の上で留まる。
「えっ!?ゴッ、ゴメンッ……」
そんなつもりじゃ……!と言いかけた零次は、寸でのところで次に続く言葉を飲み込んだ。
——うわーっ!!ウソウソ、あっぶな!!
その気になってくれたケンさんに、『そんなつもりじゃなかった』なんて、絶対に言っちゃダメなやつーッ!
さっきケンジは、キスしたくなる、と確かに言った。
零次の唇を見つめて、確かに言った。
今夜の零次は、ケンジと二人きりになっても、その時が来るまでがっついてはダメ!と、自我に強い自制心を利かせていた。だから車の中でもガマンできたし、ここまで割と紳士的にケンジをエスコートすることができた。我ながら満点のふるまいである。
しかし、今——。
こらえていた零次より先に、目の前のケンジのガードが、雰囲気に押されてユルんでいる……!
かわいそうに、何を着てもかわいい〜とご満悦で見ていた零次の視線に、知らず知らず火をつけられた挙げ句、ムラムラを持てあまして完全に戸惑っている……!
据え膳食わぬは男の恥なんて言われるが、いざ最高潮にいじらしいケンジを前にして、零次は本能と理性の合間で激しく葛藤していた。
なぜって、このシチュエーションって……
——迫っていいやつ……!?ダメなやつ!?
でも『キスしたくなる』って、ケンさん言ったよな?
てか、え!?……それって今したいの!?まだしたくないの!?
ケンさん……!!
「俺は今すぐにキスしたいよ……」
思考がオーバーヒートして、無意識に、ケンジを求める心の声が出ていた。
あ、言っちまった……と、零次もまろび出た本音に驚いた。
これ以上もこれ以下もないストレートで飾らない告白に、伏し目がちに睫毛を震わせたケンジがおずおずと両手を伸ばしてきた。
「じゃあ、キス、してもいい……?」
切羽つまった切なげな声が、零次の鼓膜にこわごわと触れた。
それはケンジからの、初めてのキスのアプローチだった。
ああ、ケンジが欲情してくれている——、今夜キスを迫るのは自分ではなく、ケンジの方からなのだ——。
瞬時にそれを理解して、零次は「うん」と頷いて背を屈めた。
「……好きだよ、レイ君」
向き合う格好で零次の首へ両腕を回し、ケンジはその澄んだ瞳に一途な恋人をしっかり捕らえた。
ケンジからキスを贈られるなんて、今夜はなんてサプライズに満ちた夜だろう——。
ごくっと生唾を飲み込んだ零次は、ケンジがキスしやすいように、少しだけ顔を傾けて目を閉じた。
ドキドキとうるさく鳴る心臓が口から飛び出てしまいそうで、吐息と緊張を押し殺す身体がわずかに震えた。
目蓋を伏せる直前に見たケンジの表情は、はかなげに眉根を寄せて今にも泣いてしまいそうだった。大胆に肩へと回された腕は、けれどなす術もなく強張って張りついている……。
大丈夫だよと安心させて、やさしい手触りのセーターごとケンジを強く抱き寄せたい衝動を、零次は必死で我慢した。
今か今かとその瞬間を待ち望む零次をよそに、しかしなかなかケンジの唇は重ならなかった。
「……、……」
——まだなの、ケンさん……!!
鼻先では戸惑う唇の気配を感じるものの、何かがストッパーになっているらしく、そこから先へコトが進まない。
すごく、すごく焦らされて、不安ともどかしさの荒波に揉まれて酔いそうだ。
も、もしかしたら、気分が変わってしまったのかも……!
——俺のキス顔見て、萎えちまってたらどうしようっ……!!
まあまあまあ、いくら絶世の美男とはいえ、それもありえないことではない……。
だったら無理強いはできないと、半ば悲しい気持ちで零次がうっすらと目蓋を開けたとき、迫る影に覆われてようやく目の前が暗転した。
「……ん、……」
よかった、キスしてくれたんだ……と、不安を打ち消す安堵と高揚感の中で、零次も静かに目を閉じた。
長いためらいが嘘のように、ケンジのキスは想像以上に濃厚だった。
触れあうキスからついばむキスへ、段階を追って深まる口づけに互いのボルテージが増してゆく。
ケンジの唇は緊張を物語るように少しだけ乾いていたが、一度唾液に濡れてしまうと、ただただ熱くて饒舌になった。
——あ、……やば……。
ケンさんの唇もべろも、やわらかすぎて天国……——
舌を吸われる快感にひたる間もなく、背伸びしてより深く唇を求めるケンジに背中を強くたぐられる。
「んっ♡……レイく、……んっ♡」
堪えきれずに吐息とともに漏れる喘ぎが一生懸命でいてかわいくて、とてもじゃないが今さら夕飯の準備には戻れない……。
二週間ぶりの甘いキスに夢中になる零次は、エプロンが覆い隠す腰を撫でていた両手のひらで、ケンジの小さな臀部を揉み込んだ。
乱暴なことはダメだと重々わかっていたけれど、飢えた両手はジーンズ越しの双臀を割り広げるようにきつく揉みしだいてしまう。
臀部を支点にそのままケンジを持ちあげて、零次は彼の背中を軽々と壁に押しつけた。これも鍛えている成果なのか、宙に浮いたケンジの身体が軽すぎて逆に驚いた。
「ケンさん……キスだけじゃ足らない」
熱っぽくそう囁いて、湯気が出そうに上気した耳許へ唇を寄せる。
耳たぶにキスしただけで、甘い声をあげて身をよじるケンジがまた愛おしかった。
「でも、レイ君、先にご飯を食べなきゃ……」
壁と零次に挟まれたケンジは、はぁはぁと胸を喘がせながらも今晩のお惣菜の行方を気にかけている。
楽しいデートの最中に二人で選んだメニューを思い出すと、どちらともなく、空腹のお腹がグーキュルルーと派手に鳴った。
「ほら〜、レイ君もお腹空いてる」
ふふふっとケンジから笑みがこぼれて、零次も「ケンさんだって鳴ったぜ?」とつられて笑った。
零次にも順番が違うことはわかっている、わかっているけれど……キスを発端に食欲よりもケンジを貪りたい欲のほうが勝ってしまい、すぐにはケンジを手放せなかった。
くすぶる熱のせいで自制心を失くしかけた零次を見あげ、ケンジはそっと、零次の頬を両手で包んだ。
「ごめんよ。ご飯の前だったのに、煽った僕が悪いね」
凛々しい眼差しに慈愛にも似た色を浮かべ、ふっとひと息吐いたケンジは、零次にとってこの上なく魅力的な提案をした。
「この続きは、ご飯を食べて、お風呂に入ったあとで……。
今夜はいっぱい、レイ君のして欲しいこと、してあげるから」
「!?」
「だから、ね?
先に夕ご飯食べよう」
ルーティーンを重んじる理性的なケンジに腕をクイっと引っ張られて、はずみで頭の中で散乱する『!?』マークがぽろぽろとあふれ出す不憫な零次だった……。