Mellow loneliness 7 ◇
食事の時間はゆるやかに、これ以上ないほど穏やかに空腹の二人を満たした。
食後の後片づけも食前の準備と同じく、流し台の前に二人で並び、手早い連携プレーで済ませてゆく。
「レイ君家、いつもおしゃれな食器使ってていいなぁ」
目の冴える、けれどどこか優し味のある黄色の平皿を拭きながら、ケンジが羨ましそうに言った。
「あぁ……俺は一人だから、枚数もいらないしな。気に入った器があれば、迷わず買っちまってるかも……」
「そっかぁ……僕ん家は『いつメン』の食器ばかりだから、すごく新鮮だよ」
「あははっ、うちも実家はそうだよ」
家庭のことを少しずつ話してくれるケンジの、その砕けた言葉のおもしろみに思わず笑みがこぼれた。
流し周りを拭いた布巾を固く絞る零次は、右隣のケンジに目をやって彼の娘たちのことにそっと触れた。
「俺、思うんだけどさ……フーちゃんとアンちゃんがもう少し大きくなったら、きっと、ケンさんの家もかわいいものやおしゃれな雑貨であふれるんじゃないかな。そうなったら、毎日退屈しないと思うよ」
零次は言いながら、日本で暮らす実の姉のことを思い出した。年頃の女の子が流行やおしゃれに敏感な生き物であることは、見た目も華やかな零次の姉が教えてくれた。ケンジの家も、いずれはキラキラしたたくさんの色彩に日々彩られるはずだ。
「ふふっ、そうだね。そう思うと楽しみが増えるなぁ。
そうそう、風佳なんて、レイ君のお嫁さんになるって、本気で言ってるんだよ。
あの子は我が強いとこあるから、お婿さんはタイヘンだよねきっと……」
くすくすっと、ケンジが首をすくめて微苦笑する。
零次は独り身だが、真壁家とは家族ぐるみの付き合いをしている。
子供でもイケメンの醸すオーラはわかっているようで、優しくて男前の零次に風佳も安もとてもよく懐いていた。また零次にしても好きなひとの娘は可愛さもひとしおで、会えば無条件で孫娘を甘やかしてしまう、そんなお祖父ちゃんに似た心持ちでもあった。
零次は風佳の初恋相手になることを光栄に思いながらも、少し背を屈め本音をケンジへ耳打ちした。
「……今夜だけ。
俺が“パパ”のお婿さんになってもいい?」
「ふぇっ!!?」
色気のかたまりが羽毛の軽さで鼓膜を撫でて、刹那にケンジはまっ赤な顔でコーチョクした。
不意打ちのささやきは、ほろ酔い気分でふわふわしていたケンジには刺激が強すぎたらしい。彼のトレードマークであるひとすじ垂れた前髪まで、驚いてピン!と跳ねた気がする。
「い、い、い、いいよっ。
でも僕もねじれ者だから、ちょっとタイヘンかもしれないよ!?」
必死で平静を装うものの、声が裏返ったりと完全に装いきれていないその姿に笑みを誘われる。
「ふふっ。知ってるよ、ケンさんはまっすぐなねじれ者だって」
「……!」
きっとケンジもそうだと思う。相手を尊び、どんな人間かを理解したうえで受容するのがバディの務めだ。零次はケンジの警戒心が強いところも、少しだけ素直じゃないところも、彼をかたち造る要素ぜんぶを認めて愛している。
「あと、すげえ頑固なとこもあるよな、ケンさんは」
そんなところも好きだけど……と続く言葉を胸の内で呟く零次に、ケンジは「あっ、そうだったんだ……!」と何かに気づいた様子で目を瞠った。
「レイ君に言われて初めて気づいたよ。風佳の我の強さって、頑固な僕譲りだったんだ……!」
「いやいやいや……ケンさん……。
フーちゃんはケンさんの生き写しだろ、どう見ても」
「そ、そう……?」
「ああ、そうだよ。よく似た親子で、俺には二人ともかわいいよ」
「あ、ありがとう……」
お皿を拭く手を止めて、ケンジがまっすぐな瞳で零次を見あげる。照明と零次を映すそのきらめきにスッと飲み込まれてしまいそうで、あぶない……と、とっさに視線を逸らす零次は言葉を探した。
「そうだケンさん、風呂……。片付けも済んだし、そろそろ風呂にでも入る……?」
シンクのふちに両手を突き、零次はケンジが気遣わぬようにさらりと訊いた。
零次を見あげ一瞬だけ時が止まったようだったケンジも、その声に小さく眉を跳ねさせた。
「ぁっ、そうだね、うんっ、そろそろお風呂、もらおうかな……」
拭いたお皿を目の前のカウンターに並べ、布巾を干すケンジが取り繕うようにニコッと笑う。
来客用のバスルームが廊下にあることは、ケンジもトイレで中座するときに把握済みだ。朝のうちに掃除も済ませているので、入浴の準備は万端である。
「ケンさん、バスタオルとかシャンプーとか、遠慮せずになんでも使えばいいよ。バスタブにお湯張って、ゆっくり浸かってきてよ。俺は自分の部屋の風呂に入るからさ」
「うん、ありがとう。
じゃあ……お言葉に甘えて、ゆっくり入ってくるね」
「あぁ」
斜めに切り替えの入ったラグランスリーブの肩をすくめて、ケンジが白い歯を覗かせて少し赤い顔で頬笑んだ。
そして「じゃ、またあとでね」と笑顔の横に手をかざし、くるっと踵を返してリビングへ向かう。そのままお泊り用のバッグを手にすると、パタパタと軽やかな足音をさせて廊下へ消えて行った。
どこかいそいそと弾んで行った後ろ姿を見送って、零次は深い、深いため息を吐いた。
やばい、やばい、やばい……。
——かわいすぎるんですけどぉぉぉ……!!!
声にならない雄叫びをあげて、零次はカッと熱くなる顔面を両手で覆った。
「……、はぁ〜……」
急にさびしくなった右隣に残るものは、ケンジの温もりを象る残り香だ。さっきまで花が咲いたように明るかったダイニングキッチンが、今はいつもの静けさを取り戻している。
嗅いだ覚えのあるほのかな芳香にくすんと鼻をならし、ゆっくりと身体を反転させた零次は、冷えたシンクのふちに腰を預けた。
頃合いもよく思わず風呂をすすめてしまったが、ここから先にあるものは、正真正銘の二人きりで愛を語らう時間だ。
このままいい雰囲気が継続して、あの甘い夢を忠実になぞることができたなら……。
切なさと侘しさに暮れる長い夜が、幾晩か救われることだろう。
夕食前に交わしたキスが二週間ぶりなら、セックスはもうひと月以上致していない。妄想の中でならスムースにケンジをリードできるけれど、実際のベッドの上ではどうだろう……。
野獣にならずに、丁寧にエスコートできるだろうか?
——いや、無理よ!ケンさんに触れたら、一瞬で爆発しちまう自信ある……!
やばい!余裕ないうえに、めちゃくちゃ緊張してきた〜……!!
こ、これは風呂に入りつつ、心と身体のクールダウンをはかることが必要かもしれない……。
さっき戯れに吸われた舌の先が今さらのようにジンと痺れて、零次はまたひとつ、熟れたため息をもらして目蓋を伏せた。
❇︎
寝室のバスルームで念入りに身体を洗った零次は、歯を磨き、軽く髪の毛を乾かしてからリビングへ戻った。
あれから四十分ほど経つがケンジの姿はまだ見えない。零次はケンジを待つあいだ、所在なげに部屋を往復したり、カーテンの隙間から外の様子を覗いてみたり、見もしないテレビをつけてみたりと、うるさく騒ぐ心臓をなだめながら時間をつぶした。
普段ならばリラックスして寝そべるはずのソファに浅く座り、廊下の先にあるバスルームの音に耳を澄ませてみる。……静かだ。テレビの音量を絞ってみても、ケンジの立てる音は聞こえてこない。
——大丈夫かな、ケンさん……。まさか、のぼせてないよな……?
廊下の静寂に一抹の不安を駆られ、零次が腰を浮かせたとき、バスタブの湯を抜く排水音が聞こえてきた。じきに風呂からあがったケンジの気配も廊下越しに伝わって、零次は安堵の吐息でふたたびソファに腰をおろした。
そのままケンジの立てる生活音に耳をそばだてるのは悪趣味な気がして、慌ててテレビの音量を元に戻す。さも今までテレビを見ていたふうを装う零次は、お気に入りのクッションを膝に抱いておとなしくケンジを待った。
テレビの音をかいくぐり聞こえていたドライヤーの音が止み、しばらくしてケンジがリビングに姿を現した。
「おまたせ、レイ君……お風呂、ありがとう。身体、すごく温まったよ」
「…………」
一瞬、目を奪われた零次の時が止まってしまうほど、風呂あがりのケンジは素朴でいてとても幼い風貌をしていた。
健康的な太い眉も黒目がちの瞳も、まさにイノセンス——。オーバーサイズのスウェットに身を包んだ小柄な体躯もあいまって、ちょこんと首など傾げられると、丁寧に洗い立てたかわいい小動物を見るようで胸が逸った。
いつものオールバックから一転、少し長めの前髪が無造作に額や頬にかかる様は、たまらなく希少な光景を見るようで零次の心を躍らせた。
「久しぶりに見たけど、やっぱり髪をおろしたケンさん、はちゃめちゃにかわいいな……」
感嘆する零次は思わず口許を左手で覆い、口の中でボソボソと本音をつぶやいた。
さいわいこの惚気はケンジには聞こえなかったようで、ケンジはお泊まりバッグをソファの脇へ置くと、「水……」と遠慮がちに零次を見つめた。
「レイ君、水もらってもいい?」
「あっ、もちろんっ!ちょっと待ってて」
零次は素早く立ちあがり、リビングダイニングの隅に置いたウォーターサーバーの前へと向かった。コップへ温水と冷水を半々ずつ交互に注ぎ、零次はかたわらで待つケンジへ「どうぞ」とそれを差し出した。
「ありがとう」
ほのかに上気した笑顔で礼を言い、ケンジはごくごくと喉を鳴らして温んだ水を飲み干した。その姿はどこか庇護欲をくすぐるもので、二つ年上の同性、というよりは甘えたがりのかつての弟の姿を彷彿とさせた。
「ごちそうさま。これ、洗うね」
空になったコップを片手に、律儀なケンジがシンクのあるカウンターの向こうへ回る。清潔感のある白い照明がケンジの穏やかな表情を照らし出して、零次は吸い寄せられるようにカウンターに身を乗り出した。
「ケンさん、コップ……気ぃ遣わせてごめんな。そうだ……ホットチョコレート……。
どうする?あれ、明日の朝にする?」
「あ、そうだねぇ……」
すっかり満腹になってしまった今の二人には、甘いデザートドリンクは少々重たい気もする。短く瞳を見交わせた二人は、カウンターを挟み苦笑いで首をすくめた。
「今日はもう遅いし、やっぱり明日の朝にしようかな。僕もさっき、歯磨きしちゃったし」
「あ、うん、俺も歯、磨いたわ……。じゃあ明日の朝、のんびり飲もうか」
ケンジの帰宅予定は明日の昼頃なので、午前中は二人でゆっくりできるはずだ。寒い真冬の朝にケンジとまったりと過ごせると思うだけで、プライスレスな温もりが身体中に広がった。
「そうだね……よし、片付けも終了したし、あとは寝るだけだよ」
ふふっと笑うケンジが、深読みしたくなるセリフとともにカウンターから出てくる。彼なりに心を決めてきたのか、そっと零次のとなりに寄り添う姿に、訓練のときに見せた迷いはないように見えた。
着実に、蜜月にも優る濃密な時間は、すぐそこまで来ている。
もしもここでケンジに指を伸ばせば、ゲージの溜まりきった劣情の針が一瞬で振り切れてしまうかもしれない……。零次はそれを恐れて、グッとこぶしを握り込んでいた。
夕食前は暴走してしまったけれど、今夜だけは自我の手綱を放したくない。
今夜はきちんと手順を踏んで、愛を語らったうえで優しく彼に触れたかった。
それなのに、だ。
紳士的に臨みたいと意気込む零次をあざ笑うように、ソープの香りをまとうケンジは思わず触れたくなる温もりを全身から発している。
無防備な笑顔で無意識に振り撒かれる色気の効果は絶大で、すでに嗅覚と視覚を囚われた零次に強烈な追い打ちをかけた。
——さっ、さっ……
触りたいっ!!今すぐ……ッ!!
いっそ、建前など捨てて本能の下僕に成り下がってしまえたら……!
カッコつけた顔をしていても、本心は喉から手が出るほどケンジに触れたいのだ。
筋トレと引き換えに地道に鍛えた理性をもってしても、風呂あがりの恋人の姿には到底かなわないことを、このとき零次は痛感した。
——でも、今夜は耐える……!
愛してるって、ちゃんと伝えてから触れるんだ……!
本能と理性の狭間で身悶える零次は、それでも前後不覚になる手前で必死に体裁を保っていた。
「えっと……ちょっと座る?」
ストレートに寝室に誘うことができなくて、結果的につけっぱなしのテレビに目をやってケンジに訊いた。
「少し、テレビでも観ようか?」
「……、うん……」
いや、そうじゃないだろ……と、言ったそばから頭を抱えた。
気の利いたことが何も言えないばかりか、愛を語らいたいくせにテレビに頼ってしまうなんて……!
——あー、うそうそ!!動線が完璧に迷子……!!
肝心のラブタイムへの入り口がわからない!おまけに……
——ケンさんの前だと、どう足掻いても、童貞の、中学生の俺に戻っちまう……!!
ケンジのことが好きすぎて、思春期を追体験するような甘ずっぱい純情が炸裂してしまう。
そこに大人の男の余裕は一ミリもなく、今の零次はとにかくどぎまぎしっぱなし、彼らしくないおぼつかないエスコートをするばかりだ。
一方、零次の胸中を知るよしもないケンジは、零次のそばからぴたりとくっついて離れない。少しうつむき加減の顔はほんのり赤く、ちら……と表情を窺った零次に気づいて、にこっと恥ずかしそうに頬笑み返した。
——とッ、尊すぎてしぬっ……!
もうずっと、キュンと締めつけられていた胸が、ドキドキと悲鳴をあげて痛いほどに軋んでいる。もしかしたら、ケンジにもこの胸の高鳴りが聞こえてしまっているかもしれない。
——あぁ、まったく……。
どう転んでも、今夜の俺は相当にカッコ悪いな……。
自嘲まじりに自覚すると、開き直りついでにか、気持ちが少し楽になった。
先にソファに腰掛けた零次は、自身の腿をポンポンと叩いていたずらっぽく言った。
「ケンさん、ここ、座る?」
ここ、とは零次の両腿の上である。こんな冗談でもケンジが笑って、零次の緊張もほぐれてしまえば一石二鳥だ。
『またまた〜、座らないよ〜。さてはレイ君、だいぶ酔ってるね?』
苦笑いでたしなめられることを想定していたのだが、ケンジはわずかに開いていた唇を閉じて、まじめな顔で零次を見つめた。
「うん、座りたい……。
ほんとに、座ってもいい……?」
見る間に瞳が潤みを帯びて、一瞬、ケンジが泣いてしまうのかと思った。
感情を抑えた声はどこか物怖じしながらも、零次の心のありかを懸命に探っているようにも聞こえた。
内心では飛びあがるほどうろたえてしまったが、救いたくなるくらい切ない表情をされてしまっては、今さら冗談では済ませられない。
零次はソファにどっかりと座り直し、ケンジに向かってゆったりと両腕を広げた。
「いいよ、もちろん!
おいで、ケンさん」
「……、うん……」
ぽってりとした魅力的な唇をきゅっと結び、零次の腕を恐る恐るたぐるケンジが深くうなずく。
かすかに眉根を寄せてはいるものの、じっと零次だけを映す瞳は穏やかに凪いで美しい。
ケンジはソファに片膝を突くと、向かい合わせの姿勢でためらいがちに零次の両腿を跨いで座った。
——え……?
太腿を伝うしなやかな重みと小さな臀部の肉感が、強い電撃波が走るようにぼやけた意識を震わせる。
——アレッ……!?
目の前で息衝くケンジの鼓動と頬にかかるいつもより熱い吐息に、ようやく状況を把握した頭に一気に血が駆けのぼった。
——ウッソ、ケンさんこっち向きに座って……!?
てっきり普通に膝に乗るんだと思ってたぁぁ……——
普通に恋人を膝に乗せてテレビを見るだけの夜もどうなんだ、と零次はそんな違和感にも気づかないくらいに動揺している。
「あっ……♡」
隙をつかれ、思わず色っぽい声をあげたのは零次である。
肉づきの薄い太腿に甘噛みするように横腹を挟まれ、たまらず声が漏れてしまったのだ。いつの間にか両手にはケンジの指が搦みつき、ソファの背もたれに背中ごとしっかりと留められている。
恋人からの初めての拘束にすっかり動きを封じられた零次は、優位に立つケンジをなす術もなく見あげた。
ケンジの視線は、腰を据えた零次の大腿の厚みぶん高くなっている。首をかすかにうつむけるケンジは、吐息が触れあうゼロ距離で零次の瞳を捕らえた。
「レイ君……」
切れ込んだ瞳は切羽つまった強気な色をしているくせに、零次を呼ぶ声には心細さがにじんでいる。
揺らいで、燃えて、また潤んで……。感傷的に変化する眼差しは息をのむ美しさで、その輝きに魅入られる零次は毎回新しい気持ちでまた恋におちてしまう。
射抜かれて動けない零次の耳許へ唇を寄せて、ケンジは身体の熱を訴えるように、懇願する声を震わせた。
「お願い……。
今夜はテレビじゃなくて、僕を見て」