Mellow loneliness 8 ◇
「お願い……。
今夜はテレビじゃなくて、僕を見て」
零次にそう、迫るように懇願したケンジの睫毛が震えていた。
零次をソファの背もたれに留めるのは、本気を出せばすぐにでもほどけてしまいそうな拘束だ。
もどかしさを訴えて零次と対峙する瞳の中に、見逃すことのできない劣情の火が灯っている。どうかその手で触れて欲しい……と、まっ赤な火が声にならない声でゆらゆらと揺らめいているように見えた。
当然、零次の身体にも欲情の火は灯っている。無意識とはいえ散々煽られたせいで、火と呼ぶよりも轟々と燃え盛る炎の熱量に近い。
男性的な小さな臀部をしたケンジだが、大腿部に密着する肉感はしっかりと柔らかい。おまけに心地よい熱まで発するものだから、挑発的な危うい刺激だけで気が遠くなってしまいそうだ。
——こ、これはやばい……マジで身体が、熱い……。
零次はとっさに、欲望に灼けた手を握り込んだ。恵まれた体躯の零次がその気になれば、形勢逆転などたやすいのだ。だけど、それをすると理性も優しさも夜の彼方に吹っ飛んでしまう。
すでにショートした前頭前野でなおも苦悶する零次は、みずからの欲望を追いやるようにふっと息を吐き出した。
「見てるよ……」
ようやく絞り出した声は、掠れてとても情けなくなってしまった。
好きで好きで、大好きで、全力で愛を叫ぶ胸が痛くて苦しい。果てのない愛おしさは、当の零次にも底が見えない。
「俺はこの二年間、もうずっと、ケンさんしか見てないよ」
一途すぎて、この事実に自分でも驚く。
なんて重たい奴だろう、そう思われても、思いのすべてをケンジに知って欲しかった。
一朝一夕にケンジを愛していないことを、生半可な思いでそばにいるわけではないことを、きちんとケンジに知らしめたかった。
「ケンさんは笑うかもしれないけど、俺、初めてなんだよ……。
こんなに人を好きになったの、ケンさんが初めてなんだ」
これからも屈託なく笑いあえる最高の相棒でいたかったから、絶対に言ってはダメだと好きな気持ちを滅していた。
けれど、隠して育み続けたケンジへの思いは、結果的に手に負えない大きさにまで膨らみ、あっけなく暴露してしまった。もう終わりだと思ったこの恋もケンジとの関係も、しかし終わりではなかった。
「あのとき……ケンさんが俺を受け入れてくれたの、今でも奇跡だって思ってる」
「……、……」
容姿だけでなく生き様までもとても美しい人が、なぜ自分を拒否しなかったのか、零次にはずっと不思議だった。正しい道を逸れてまで、どんな覚悟の上で零次の手を取ってくれたのか、今日まで怖くて聞けなかった。
懺悔を込めて見あげたケンジの表情は、零次がハッと息を飲んでしまうほど、やさしい悲哀をまとっていた。
「違うよ、レイ君……。
僕たちがこうなったのは、必然だよ」
その瞬間、心臓が大きく波打った。
ケンジは唇にかすかな笑みを浮かべて、零次の頭の高さに視線を合わせた。
「レイ君、あのね」
まっすぐに見つめあうケンジの、しっとりと湿り気を帯びた手のひらが両側から頬を包む。
深い飴色をした虹彩に魅入られる零次は、とつとつと語り始めたケンジの声を夢見心地で聞いた。
「春にレイ君に告白されたとき……とにかくびっくりして、実は、寝られないくらいショックも受けたんだけど……」
「ん、ごめん……」
「ううん……。でも、落ち着いて、ひとつひとつ気持ちの整理をしてみたら……どうやっても否定できない、決定的な思いがね、ひとつ残ったんだよ」
「……それって……?」
恐る恐る答えを窺う零次に、ケンジは小さく頷いた。
「僕ね、本音ではいやじゃなかった——」
ケンジは思いを巡らせるように目蓋を伏せて、そしてまた冴えた瞳に零次を映した。
「あのとき、即答はできなかったけど……。
きみに好きだって言われて、確かに嬉しい気持ちが僕の中にあったんだよ」
「うれ、しい……?」
呆然と聞き返す零次に、そうだよ、とケンジが頬笑む。
「同期とはいえ、出会った当時から尊敬してたレイ君だもん……。
そんなひとに好意を寄せられたら、やっぱり嬉しいものだよ」
ふふっと愛おしそうに首をすくめ、ケンジは零次の頬骨を親指の腹で撫でた。
ささやかな愛撫に綿毛の触れる感触を重ねる零次は、甘やかなくすぐったさを堪えてケンジの話に意識を集中させた。
「レイ君への思いが芽生えたのは、あの告白がきっかけだったのかもしれない……。
だけど、もともと僕の中にも、レイ君への好意の種はずっとあったんだと思う」
僕が気づかなかっただけで……、そうつぶやいたケンジは苦しそうに眉根を寄せた。血色のいい唇を柔らかく歪めながら、ケンジは胸に抱えた思いを初めて吐露した。
「レイ君に応えるのは、いけないことだって……。
道を外れることになるって、頭ではわかっていたけど……」
短く吐息するケンジの、伏せられた長い睫毛が震えていた。躊躇して言い淀む声も、いつも頬笑みかけてくれる唇も、零次に触れる指先までも、ケンジの怯えを物語るように小さく震えていた。
「でも……僕が自覚したレイ君への思いは、今さらごまかしがきかないくらい、確かなもので……」
「…………」
「僕を好きになってくれたレイ君の気持ちも、僕が知ってしまったきみへの想いも、どちらもなかったことにするなんて、できなかったんだ……」
「……ケンさん、——」
瞬間的に、強い力でケンジを胸に抱き締めていた。
「わかった、もういいよ、困らせてごめん……。悩ませて、本当にごめん……」
朗らかで誠実なケンジを、こんなにも悩ましい恋路に引きずり込んでしまった罪の深さは、一体いかばかりだろう。
結ばれるとは思いもしなかった今年の春までは、同僚の、それも同性からの告白なんて、気持ち悪く思われて当然だと完全にこの恋を諦めていたのだ。
もちろん、禁忌に触れてしまう罪悪感もあった。告白をして、あわよくば……なんて楽観的なことは、1ミリも想像できなかった。告白をしたら最後、唯一の『そばにいたい』という願いも叶わなくなると思った。
捨て身だったのは思いを告げた零次だけでなく、葛藤の末にこの手を取ってくれたケンジも同じだったのだ。
「……ん、レイ君」
抱き締める力加減が強かったのか、腕の中でケンジが身じろぐ。密着する身体はどちらも熱く、共鳴する鼓動の息衝く胸が掻きむしられるように痛んだ。
ケンジは零次の肩口に頭を預けたまま、優しい声でゆっくりと言葉をつむいだ。
「僕には、妻も子供もいるけど、それでもね……きみみたいな人に熱心に愛を告白されたら、それこそ少女漫画の女の子みたいに、胸がキュンてときめいちゃうんだよ。恥ずかしいけど、心臓なんて、レイ君のそばにいるだけで、ずっとドキドキうるさくて……。
こんなこと、僕も生まれて初めての経験で、今でも戸惑ってばかりなんだけど……」
ケンジはわずかに顎を上向け、じっと零次を見あげた。
「僕は男でも、こんなふうに……レイ君の逞しい腕に抱き締められたら、あたたかさと抱擁力に泣きたくなるくらいほっとするし、レイ君に大切にされると……なにか、自分が上等な人間になったように錯覚しちゃって、ふわふわした恍惚感に包まれるんだよ」
「ケンさん……」
ケンジは再び零次の鎖骨に頭を預けた。息を飲む太い首筋に、さらさらの黒髪が快い香りをまとってやんわり触れた。
「僕から言うのは、レイ君を縛りつけてしまうからNGかもしれないけど……」
「……?」
「僕は、レイ君が思ってる以上に、きみに恋してるみたい……」
そう言って、胸にしなだれるケンジが上目づかいに零次を見あげた。
「好きだよ、レイ君」
「……、——」
零次の体内を、あたたかな光にも似た幸福感がじんわりと満たす。
頬笑みたいと思ったが、切ないような愛おしさが堰を切り、うまく笑うことができなかった。
「きみが、大好きだよ」
たたみ掛けられる真摯な囁きとともに、ぎゅっ、と強い力で背中をたぐられた。そうして、軽やかなキスを何度も首筋や下顎に贈られる。
「レイ君が好きだよ……」
やわい唇の感触は、子猫のしっぽでくすぐられるような、愛くるしいくすぐったさに似ている。
もっと、と求めてしまいそうな甘い吐息を飲み込んで、零次もより強くケンジを掻き抱いた。
「俺も……。
俺も、ケンさんが好きだよ——」
肩甲骨のたつすっきりとした背中も、大きめのスウェットシャツに隠された細い腰も、引き合う磁石のようにしっくりと手指に馴染んで気持ちいい。
零次はくったりとしなだれる背中を抱き留め、ケンジの熱を持った耳へ精いっぱいの思いの丈を吹き込んだ。
「ケンさんを、愛してる」
それは、何度も何度も脳内でシミュレーションした、短い愛の告白。
どうしてもケンジへ伝えたかった、大切な愛の囁きだった。
「ん……っ……」
反射的にのけ反った首筋にも唇を押し当てて、零次は壊れてしまったレコーダーのように熱い囁きを繰り返した。
「ケンさん……愛してる、どうしょもないくらい……ケンさんを愛してる」
「うん、……レイく、……」
赤い顔をもたげたケンジが、焦燥に駆られた吐息の合間につぶやいた。
「……、嬉しい……」
「ケンさん——」
まるで暗闇で光を探すように、零次のものより細身な手のひらが一生懸命に頬をたぐる。
零次はその手を優しく捕まえて、彼の薬指を飾る繊細なプラチナに口づけた。
彼の妻よりも彼に愛される自信はない。
それでも零次は、ケンジのそばにい続ける限り、密かに願ってしまうのだ。
宇宙への夢と挑戦心でつながった運命共同体とも呼べる彼と、いつかは夫婦よりも強い絆で結ばれてみたい——と。
こんなことを言うと、ケンジはどんな顔をするだろう。
——いや、夫婦よりも、とか……困らせちまうのがおちだろ……。でも、思うくらいは——
自戒の念を込めてつぐんだ唇で、零次はケンジの頬に触れた。
なめらかな頬の上で唇を鳴らすと、ゆるく唇を尖らせたケンジが顔をずらしてキスをねだった。
「ん、……」
ケンジが望むまま、触れるだけのキスで互いの温もりを交換しあう。手のひらも重ねあわせ、気持ちを確かめあうように一本ずつ指先を搦めた。
唇がまた重なって、ゆるゆると下肢をこすりつけるケンジと少し長めのキスを交わした。
離れる間際、イタズラにちゅう〜っと下唇を吸われてしまい、零次は予想外のハプニングに思わず吹き出してしまった。
「……!」
「……ん?どしたの、ケンさん……」
なにやら、鼻先が触れ合う近距離で、ケンジが目を丸くして固まっている。
急にフリーズしたかわいい顔を不思議に思い、人差し指の腹でケンジの頬をこちょこちょと掻いてみた。
「ふ、ぁっ」
色っぽく鳴いたケンジが首をすくめ、感激を隠せない様子でウルッと瞳を潤ませた。
「い、今のレイ君の笑った顔……!かわいかった〜!」
「んっ!?……っと、ふふっ、あったかい……」
「……ん。安心するから、もっと、ぎゅってして……」
「うん、いいよ……」
甘えて四肢を絡ませてくるケンジを硬い胸で抱き留めて、零次はなだらかな斜面で尾骨まで下る背中を、あやすように何度も撫でた。
そして、はらはらと落ちる髪の毛が覆う耳へ、シンプルで熱い文句を吹き込む。
「俺の部屋に行こうか……?」
「……うん、行く、行きたい……」
ようやく誘ってくれた……そう言わんばかりに、ケンジがいっそう強い力で肩にしがみつく。
零次はちょっと待ってね、と熱い耳に頬擦りをして、リモコンでテレビの電源を落とした。部屋から音がなくなると、ぴたりとくっついた胸から、お互いの心臓の拍動音がダイレクトに聞こえた。
自分たちは生きている、温かな生身の身体を寄せあって、想いあう喜びに没頭している——血の通った皮膚の柔らかさ、興奮の兆しの見える少し荒い呼吸音、全力で零次の背をたぐる両手指の力強さ……腕の中で息衝くケンジのそのすべてが尊い。
胸が詰まるほどの愛おしさに溺れる零次は、小さな臀部に下から両手のひらをあてがった。
「ケンさん、いい?
このまんまだっこして部屋に行くから、しっかり俺につかまっててくれる?」
「え?!えっ、冗談だよね……?!!
わっ、わぁぁぁ〜……!!」
零次は重力などないようにその場にすっくと立ち上がり、驚いてダンゴムシのように丸まるケンジを、よいしょと軽々抱き直した。
「やだよ!レイ君、恥ずかしいよ!おろして、重いからっ。
もう〜、腰やっちゃうよ〜……!」
早口でまくし立てるケンジは、恥ずかしさと焦りでなかばパニックである。けれど、落ちないようにと、両腕と両脚はがっちりと零次にしがみついている。
例えるならば、ころんとしたコアラがとまるユーカリの木……。
そんなユニークな見た目で何事もないように歩き出した零次は、ズボン越しのケンジの臀部をやんわりと鷲掴みにした。途端にケンジが息をのみ、腰部に巻きついた両脚に力が込もる。
「それがさ……重いって思うだろ?」
零次は寝室へと向かう足取りと同じく、軽快な口調でケンジに頬笑んだ。
「ぜんっぜん重くないんだよ。でも、危ないから暴れないで」
「……う〜……わかったよ」
カッと身体を熱くするケンジは、それでも「やっぱり恥ずかしいよ〜」と涙声で訴えて、顔を埋めた零次の肩口に目許をぐいぐいと押しつけた。
まさか、この歳になってだっこされる日が来るなんて、ケンジも思いもしなかっただろう……。
「あ、ケンさん……。
悪いけど、代わりに電気のスイッチ、消してくれる?」
「……うん、ドアも閉めるよ」
リビングを出る間際、零次の逞しさに観念したケンジは、しおらしい返事とともに電気のスイッチに手を伸ばした。
午前0時過ぎ——
久しぶりに賑やかな時間で華やいだリビングに、ひっそりと夜の静寂が訪れた……。