常軌を逸するその日、夜道を一人歩く俺は上機嫌だった。
この世に自分程世渡りに長けた奴はいないだろう、と鼻も高々に歩みを進めれば、舗装されていない土の路面でさえ革靴の音が高らかに鳴るような心持ちがして爽快だ。
等間隔に灯って並ぶガス燈に「文明開化」と謳ったのはもう幾年も前だが、その時の陽気な気持ちが蘇るようで晴れやかな心のまま月と文明の証が照らす道を揚々と歩く。
何と言っても、最近敗けが混んでいた賭博で漸く勝ちを掴めたのだ。
それも自分の懐を痛めず得た金子で!
我ながら悪い顔をしていただろうが、幸いにして往来には俺以外誰もいない。見咎めるであろう警官も眉を潜めるであろう通行人も誰一人も、だ。
ならば勝利を高らかに謳っても構わないだろう。
人を(それも善良な部類の人間を!)だまくらかすのは少し勇気のいることだったが、同じ学舎に通う同窓の真木晶という奴は、俺のついた嘘にいかにも気の毒そうな顔をして「たまたま財布にお金が入っている日で良かったです」と懐から出した金をそのまま俺に握らせたのだ。
「少しでも妹さんのご快癒のお力になれたら」と!
嘘と知らず、善意の笑みだけ向けられることに罪悪感がなかったかと言われれば、否だ。
だが、俺には金が必要だった。
何せずっと、敗け続けていたのだ。
勝利を渇望し、その勝ちで得る筈の大金を逃し続けてきたのだ。
もう後がなかった。
下宿先の大家に払う家賃さえ工面できず、頭を下げ言いくるめて何月も滞納する程にのめり込んだ博打から足を洗うなんて、最早不可能だ。
借金を取り立てに現れるゴロツキを撒くのだって最早茶飯事になってしまっている。
だが不意に冷静になって辞め時を考える瞬間さえ疎ましく感じる位、あの賭場の熱気や退廃とした空気を欲するようになってしまっているのだ。もう足は洗えそうにない。
ともあれ。
今宵は祝杯をあげても許される筈だ。
それに、此度のことで真木晶がお人好しで同窓生というだけで金をせびれることが分かったのだ。
暫くはこの勝ち金を元手にして、頃合いを見てまた金を出して貰えばいい。
思いっきり憐れっぽく振る舞えば、あの善意の塊からはいくらでもむしり取れるだろう。
「悪く思うなよ、真木」
高笑いしそうになるのを堪える為に学友の名を呟くが、どうにも侮蔑混じりになってしまっていけない。咄嗟に口許に手を当てたが、圧し殺した笑いは指の隙間から溢れ出てしまう。
流石に高揚しすぎだろうか。
平常心を取り戻そうと、俺は立ち止まり深呼吸を繰り返した。
刹那、頭上で煌々と輝いていた満月が目に入る。
それが合図だったのかもしれない。
青ざめた色をした月を認識した瞬間、頭の芯がすっと冷えた気がして、俺は思わず姿勢を正した。
しかしその時にはもう、既に遅かったのだ。
どう考えても現実的ではない程に、辺りの空気が冷たい。
頭の芯どころか背筋が冷えて震えが走り、懐に手を突っ込み正したばかりの背中を丸めたものの、当たり前だが気休めにしかならない。
まるで真木の名前と月を目にした事が切っ掛けであったかのように、先程まで月明かりにも迫るほど点っていた筈のガス燈は一基残らず一瞬で暗くなり、不気味な月に照らされるだけの真っ暗な道に俺はぽつんと取り残されるばかりだ。
「見ーつけた」
背中に冷や水をかけるような、ぞわりとした響きが耳に届いて、思わず声の聞こえた方を凝視する。
気づけば音もなく、そいつは俺の数歩先の闇の中立っていた。
ぼう、と月明かりが差している筈なのに真っ暗な道に浮かび上がるような佇まいは、水墨画で表された幽霊のように不気味で仕方がない。
真っ白な装いは海軍の軍服のような作りをしていて、矢鱈と長い脚にすらりとした細身の体躯は異国人を思わせる。
この国で見かけたことのない髪色は銀細工のような色をしており、目深に被った軍帽から覗く相貌は左右違った色だ。
多分、この、目の前の男の相貌は整っていて美しいのだろう。
だがそう思う以前に、それ以上に不気味だった。
そんな俺の恐れを見透かすように、にい、と色の悪い唇が弧を描いて、煌々と光る赤と金の目が俺を見て嗤う。
「ふうん…お前、怖いんだ」
「?!」
色が悪い筈の唇の奥に、妙に艶かしい赤色を覗かせて男は口を開いた。恐怖心に満たされた俺を眺めて酷薄に嗤う姿がまた不気味だ。
逃げ出そうにも両足が動かず、身体がずっしりと思い。
鉛を呑み込んでしまったような苦しさと不快感がじりじりと喉元にせり上がってくるような感覚を覚え、俺は思わず眉をひそめた。
くつくつと声を出さず嗤って嘲りを隠すことなく俺に向け、男は音も立てず静かに、一歩一歩勿体ぶるように近づいてくる。
歩く度に肩にかけた軍服と同色の外套がゆらゆらと揺れ、この上ない不気味さが増長していく。
この世のものとは思えない姿は、まるで冥府からの使いのようだ。息をすることも忘れ、緊張と恐怖で鼓膜にまで鳴り響く心臓の音を聴きながら男が近づくのを待つしか出来ない。
「感謝してはいるから、殺さないでおいてあげる」
一歩。
「お前のおかげでまた、面白い顔が見れたし」
また一歩。
「ああ、でもむかついてもいるんだよね…」
そして、気づけば男は俺のすぐ目の前にいた。
煌々と輝く赤と金の目に射竦められ、冷や汗がだらだらと流れる。がたがたと歯の根が鳴る。
俺の生殺与奪を掌の上に置いてどうしようかと考えあぐねる姿からはどこか子どものような無邪気ささえ感じられるが、それはかわいらしい幼気とは異なる残虐性を孕むものだ。
例えば、道端であくせくと動く蟻の身体を好奇心で引きちぎるようなそれと同じ。
「やっぱり、殺しちゃおうかな」
無垢な子供のように目を細めて、また嗤う。
嗤って、恐ろしいことを口にして、妙に艶かしく舌が動いたのが見えて、血のように真っ赤なそれが、得たいの知れない、聞き覚えのない言語を操って、瞬時に現れた巨大な狼のような獣が俺の前で獰猛に口を開けて、それから―。
「あーあ、死んじゃった」
それから、俺の目の前は真っ赤になった。
+++++
ぱたぱたと廊下を歩く音がして、ネロは顔を上げた。
思わず口の端が上がりそうになって、いけないと引き締める。
「おはようございます、ネロ」
「ああ、おはよ。晶」
する、と静かに襖が開いて予想した相手の姿に、やはり表情は弛んでしまった。
いつも、この邸宅に住まう自分を含めた二十二人の料理をネロと時折通いで来てくれるお手伝いさんの二人で振る舞っているのだが、晶はそれを大変に有り難がって「出来る限りお手伝いしますね」と申し出てくれているのだ。
気にしないで良いと告げたものの、内心ではその優しさと心遣いに心底ときめいている。だからこそ、今朝のように厨房でせっせと手伝いをしてくれる晶を独占できる時間が堪らなく幸せだ。
晶が朝に弱いため週に二日、三日が良いところだが、だからこそ希少とも言える。
「…だらしない顔」
「ぉわ?!」
「ひぇっ?!」
と、そんなネロと晶の背後に呆れた声が響き、二人は同時に驚きの声を上げて振り返った。
そこに立っていたのは銀髪に互い違いの目の色をした青年で、晶は「オーエン!」とその名を呼ぶ。
「おはようございます。珍しいですね、こんなに朝早くに」
「うるさいな。お前に人のことが言えるの?」
「うぐっ…返す言葉もございません…」
晶の朝の挨拶を流して皮肉を言って、ちょっとしょんぼりする姿に口の端を上げると、ネロの方に視線をやる。
それまで少し嫉妬混じりに二人の様子を見ていたネロだったが、意味ありげな様子に何かを察し、小さく溜め息を吐いた。
「そういや晶、今日はソウジトウバン、とかいうやつじゃなかったか?」
「…あ、そうでした!ありがとうございます、ネロ。うっかり忘れて怒られるところでした。ごめんなさいネロ、今朝もお手伝いできなくて」
「いいって。ほら、これあんたの分の朝メシ。喉につまらせるなよ?」
「き、気をつけます。わ、だし巻き卵だ!ありがとうございます!」
「はいはい」
当てずっぽうだがそれっぽく言えば、正解だったらしい。
手伝いが出来ず申し訳なさそうな晶の頭をぽんぽんと撫でると、ネロは晶の分の朝食をよそって盆に載せ、手渡してやる。
おかずに喜ぶ晶が可愛らしく、小一時間程見ていたい気持ちになるが、それをぐっと我慢して厨房から食卓に向かう背中を見送った。
「…で?」
きっちりと襖が閉ざされたのを確認し、戸棚のジャムを舐めていたオーエンに向き合う。
先程までの穏やかな表情から一変し、ネロの目は剣呑としている。
「ブラッドリーが管理してる賭場の常連のカモだった」
肩を竦めて結論だけオーエンが言うと、額に手を当て「ったくだからちゃんとシメとけって言ったのにあの馬鹿」とぼやいてネロは大きな溜め息を吐いた。
その間にもオーエンはジャムの容器を空っぽにし、二つ目を開けようとしている。(一応高級品なんだけど)と内心ぼやくが、この邸宅においては特に問題になることでもない。ただ、ネロが庶民的な感覚を持ち合わせているため、購入時の値段を思って若干胃がキリキリとするだけだ。
「わかった。晶に手を出そうとしたのは許せねぇし、そもそも一般人を巻き込むのは御法度だからな。きっちり分からせておく」
「フン…」
静かに告げるネロをオーエンは鼻で笑い、三つ目のジャムに手をつけた。ドン引きするネロを尻目に満悦そうな顔をして、オーエンはジャムを舐め続けている。
言葉が途切れたことで情報共有が終了したと理解したネロは、朝の仕込みを再開した。
ぐつぐつと音を立て出す鍋の火を弱め、落し蓋をしたところで「そういえば」と声がした。
まだいたのか、と若干うんざりしながらネロが振り返ると、上機嫌そうに微笑んでオーエンは言う。
「晶の学校の近くに、新しい甘味を出す店が出来たんだって。オーエンが好きそうなお菓子ですよ、って間抜け顔で言ってたから、今日行っちゃおうかな」
「………」
「ふふ、怖い顔」
じゃあね、と言いたいだけ言ってオーエンは煙のように姿を消した。普段皮肉ばかりで分かりづらく読みづらい男の、珍しくも分かりやすい牽制にまた大きな溜め息が出る。
そして、その真意に気づいてしまえる程付き合いが長くなってきたことにも。
「要するに、カモに晶が金渡しちまったから、行きたかったお目当ての店に行けなくなったってことか?」
ぼやいて、また溜め息。
「…晶から、どんな甘味が出たか聞かないとな」
これまで晶が称賛した食事を調べて、店で口にした以上の味を徹底的に追求し提供し、常に「やっぱりネロのご飯が一番ですね」という言葉を獲得してきたのだ。甘味はどちらかといえば苦手だが、晶の胃袋を掴み続けるためなら些末事と言える。
この邸宅に住まう二十一人は、晶が自分達から離れていかないようそれぞれがそれぞれの能力で晶を縛りつけている。お互いが協力者だが時に出し抜く動きもあり、こうした日常は穏やかさと共にスリリングな一面も併せ持つ。
てんでばらばら、個性の強すぎる面々との同居生活に、最初こそ緊張しきりだったが真木晶という存在がそれらを解消してくれた。
心地よい距離感と、優しい心遣い。怖いもの知らずな言動と少し抜けたところ。
晶は、二十一人全員が好ましく思う要素を凝縮させたといっても過言ではないのだ。
作業台の隅に置かれた新聞には、
『○○大学学徒、心神喪失状態で発見。正気を完全に失い、○○病院に収容』
といった記事が小さく掲載されている。
「あー…フィガロにも伝えた方が良いのか?」
でも知ってそうだしな、と腕を組む。
記載されている病院はフィガロの管轄だ。
まぁ、任せるかと鍋の落し蓋を外して作業台に置く。
くつくつと音を立て、出汁の効いた煮物が鍋の中で揺れていた。
味見皿に煮汁を掬い、小さく口に含む。
今日も我ながら良い味だ。
「晶に手を出したお前が悪いんだよ」
そう言って、皮肉げに口の片端を吊り上げ嗤う。
同意するように、鍋の中身が一際大きくぐつりと鳴った。