あたたかい雪『明日の夜二十四時。防寒着を来て部屋で待っていること』
十二月の寒い日が続くこの日。
迅に突然そう言われたのは、昨日の夜のことだった。癪ではあるが、このことは誰にも秘密と言われていたので、今夜のことは結局誰にも言ってはいない。地下の部屋で時計を見ると、時刻は約束の二十四時十分前だった。防寒着とは言われたものの、生憎捕虜の身なので選べるほどの服もなく、一番暖かそうな白のダウンを羽織る。青いマフラーを巻いてこんなものだろうと頷くと、ちょうど良いタイミングで控えめにドアをノックする音が鳴った。
「準備できてるか?」
「ああ」
「皆寝てるから、静かにな」
「……」
ベージュのコートを着た迅が顔だけを覗かせて、黙って先導するのを後に続く。ひたひたと歩く支部の中は既に暗く、既に眠っているであろう陽太郎の部屋の前も足音を立てずに通り過ぎた。何をするのかもどこに行くのかも聞いてはいない。防寒着というからには外なのだろうということだけが漠然とわかっているだけだった。
階段を上り、そっと支部の玄関の先を抜けると精練された冬の空気に鼻の奥がツンと痛くなる。屋上以外でこんな夜中に支部の外を歩くのはガロプラ襲撃のあの日以来かもしれない。どこか解放感に似た何かがある。白くなった息が夜の闇に溶けていくのを見届けて、迅の背中へと視線を向けると、振り向いた鼻の頭がやはり寒いのか赤くなっていた。
「はは。さすがにさっぶいな」
「迅、これからどこに行くつもりだ」
立ち止まって待つ仕草をする迅に追いつき隣に並ぶ。角を曲がると先程まで見えていた支部は視界から消え、どことなく居心地の悪い気持ちが少しだけ減ったように感じた。隠れて脱走をしているわけでもないのだから、気に留める必要は無いのだけれど。
「んー、どこに行こうか?とりあえずおまえ手袋は?」
迅がオレのむき出しの両手に気が付き、歩みを止める。
「持っていない」
「そっか。じゃあおれの片方使って」
迅がつけていた左手の手袋を渡されて、この寒さに断る理由も無く黙ってつけた。黒いニットの手袋は軽いのにあたたかく、迅の体温が移るようで少しこそばゆい。それを払拭するようにグーパーして紛らわせてると、嬉しそうに目を細めている迅と目が合う。
「んでもう片方は」
「おい勝手に!」
無防備だった右手を取られ、そのまま迅のコートのポケットに突っ込まれた。
「中にカイロ入れてるから、あったかいだろ?」
「……」
ならこんなことをせずカイロだけ渡せと言えばよかったのに、繋がれた手を離すタイミングを逃してしまったかのように言葉が出ない。無言を肯定だと受け取ったのか、じゃあ行こうかと迅がまっすぐに歩き出す。深夜の静寂にはスニーカーの靴音さえもよく響くような気がした。ぽつりぽつり明かりはついているものの、ほとんど街灯の明かりだけを頼りに歩く。寒いのにあたたかいのはあまり好きではないなとも思った。
「そろそろ目的地を教えろ」
支部もとっくに見えなくなったし、今なら誰にも聞かれていない。ここまで黙ってついて行くにもそろそろ限界だった。
「そんなの無いよ」
「無いとは?」
「今、ちょっと時間稼ぎしてるだけだし」
もうちょっとなんだけどなぁ。一度空を仰いだ迅が、じゃあ公園が近いから行こうかと言う。何かを待っているらしいその様子に、何を待っているのかと聞いても今は教えてはくれないだろう。迅とはまだ短い付き合いだが、確信を言わない奴だなという印象は未だに拭えないでいた。
「あ、ちょうど。ほら」
公園につくと同時に迅が夜空を指差す。
「……雪、か」
真っ暗な夜空から白いフワフワとしたものが降り注ぐ。
手袋をした方の手で受け止めると綺麗な模様をした結晶が、毛糸の上であっという間に溶けて消えてしまった。
「今日、初雪なんだ。おまえと見たくて」
「それはこちらでは特別なものなのか?」
「そういうわけじゃないけど。夜中にデートする口実くらいにはなるだろ」
こちらの雪はランク戦の映像で見たとはいえ、本物の生身で感じる雪というのはまた違った感想が生まれる。隣にいるのが迅というのも要因の一つにはなるのだろうか。
「どうせデートに誘うなら、夜にしか出ないというラーメン屋に連れて行け。陽太郎とは行けないからな」
「ああ、屋台のやつか。今から行く?まだやってるっぽいし」
あっちの方向だと思うよと迅が来た道と反対の方角を指差す。まだもう少しこうしていようとか言い出さないところを見ると、雪というのは本当に口実らしい。
もう行こうかと歩き出す迅の手を引くと、繋いだままの手がコートのポケットからはみ出す。そのまま数歩歩み寄ると、まだ一度しか重ねたことのないそれを自分から触れ合わせた。
「デートというのも口実で、隙あらばこういうことがしたかったんだろう?」
「……えっ、あ?」
どうやら図星だったらしい。未来視を持っているとは思えないほどの動揺に、ペロリと舌を出して挑発する。
「いやらしい」
「っとにおまえは」
成功した不意打ちに、唇を押さえた迅の顔は寒さなど関係無しに赤かった。ムードを大切にしているのか、ただのヘタレなのか。キス一つでこんなにも初心な反応をされたら本番は一体どうなるのかと今から気が思いやられる。そして「本番」なんてもう少し先の未来のことを考えられている自分自身にも少し驚いた。それなりに最低限の知識は持ち合わせているものの、迅がどの程度の知識を所有しているのかをそういえば知らない。
「顔が真っ赤だな。今ならコートを脱いでも熱いくらいなんじゃないか?」
「揶揄うな、ばか」
「なんだ、揶揄われている自覚はあったのか」
「じゃあ今から舌入れるキスしてやる。初めてだろ。びびっても知らないからな」
「手慣れたフリをしているのかもしれないが、本当に慣れている者ならば、宣言などせずもうしている。先程のオレのようにな」
素直に経験不足を認めたらどうだ?と指摘をすると、迅が見せたかったであろう年上としての魅力などどこにもなく、背伸びをしすぎて失敗した子供もどきのような顔。そういう顔も悪くない。むしろ、どこか飄々としたいつもの顔よりずっといい。
「オレが代わりに手本を見せてやろうか」
襟首を掴み、閉じた唇を舌でこじ開ける。実際にするのは初めてではあるが、それは迅がオレにしたからといってあまり変わるものでもないだろう。せめてもの抵抗なのか。後頭部を支えるように指を添えて、唇を触れ合せる合間にオレの名前を呼ぶ必死さもどこか愛らしい。いつも勝手に「可愛い」なんてふざけたことを連発してくる唇を力任せに塞いでやるのは、何とも気分が良かった。
「どうだ、初めての深いキスは。ビビったか?」
「……次はおれがリードするし」
「ふっ、それは楽しみだな」
キスをする前には降っていた白い雪は、キスを終えて見渡すとその熱にあてられたかのように、いつの間にか降り止んでいる。店が閉まる前にラーメン屋に行くぞと迅の手を引くと、手袋なんて必要ないほど互いの掌が確かに熱を持っていた。