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    入り組んだ記憶喪失話……になる筈のシリーズになります。一部は原作軸。初っ端からメリバで終わるので、苦手な方はお気を付けください。この後現代AU高校生のターンに移ります。

    うつせみ:第一部『震音、滑落』
     
     肌を引っ掻く風が優しくなり、草木と土の甘い匂いが漂い始めた、そんな頃合。午過ぎに訪れた高台の大木を見上げた俺は、口許を弛めた。
     少しだけ足取りを弾ませながら藍湛の執務室へと足を向ける。
     藍湛、と声を掛け、木枠をトントンと軽く叩いてから戸を引く。
    「どうした、魏嬰?」
     ゆるり、振り向いた藍湛の背中に背中をくっ付けて後頭部で後頭部を軽く叩く。
    「まだ終わらないか?」
    「もう少し」
    「じゃあそれが終わったら散歩に行こう」
     明るい声でそう云い、ずるずると背を滑らせる。コトン、と床に落ちた頭。
    「俺は寝て待つから」
    「君という人は……」
     はぁ、と藍湛が零した溜息には気付かなかった振りをして、俺は上下の睫毛を絡ませた。
     すぐに睡魔と仲良くなってどれくらい経ったか。魏嬰、と肩を揺すられた。
    「魏嬰、終わった」
    「ん……」
     ふぁあ、と大きな欠伸。のそりと起き上がって目を擦る。
     ちらりと横目に見遣った外はまだ明るい。
     軽く頭を振って眠気を飛ばし、藍湛の腕を引いて立ち上がる。
    「よし、行こう」
     藍湛の腕を掴んだまま外へと出る。そうして、さっき自分が辿って来た道をなぞるように歩く。
    「魏嬰、何処へ?」
    「訊かなくても判るんじゃないか?」
     この道を辿った先に何があるか、藍湛が知らない筈がない。
     まだ薄ら寒い格好の木々を両脇に歩む道。それが開けた高台には、薄紅霞を纏い腕を大きく広げる一本の木。
    「ずっと通って待ってたんだ」
     藍湛に見せる機会をさ。そう云って微笑む俺と大木とを二度交互に見てから、藍湛はふっと吐息を揺らして目を細めた。
    「綺麗だ」
     薄い唇が紡ぐ感嘆に、そうだろうと口端を上げる。
    「きっと今が一番の見頃だ」
     折角だから酒を持ってくれば良かったな。お前に早く見せたくて、酒のことはすっかり忘れてた。戯けるよう肩を竦めて、ついでにお前の琴も、と付け足す。
    「満開の桜の下で藍湛の琴を聴きながら酒を飲む……これ以上ないくらい贅沢な時間だ」
     惜しいことをしたなと笑えば、明日なら、と藍湛が呟く。
    「明日は午前に講義を行うだけだ」
     その後でも良ければ琴を持つと云う藍湛に、俺はパッと顔色を明るくする。
    「なら、俺はその間に天子笑を買いに行こう」
     そうすれば最高の時間が過ごせると相好を崩せば、藍湛も淡く微笑した。
     飴色に包まれ、薄紅霞の下で琴の音を聴きながら時折笛の音を重ねて天子笑を呷る。それはそれは優しい時間だった。
     
     
     
    「魏嬰、何をしている?」
     戸口に背を向けて手を動かしている俺の後ろ姿を見て、執務室から戻って来たらしい藍湛が声を掛けてきた。
     ん? と首だけで振り返ったら、藍湛は橙色を背負っていた。
    「あぁ、もうそんな時間なのか」
     陽暮れが遅くなると時間の感覚が狂うな。
     くすくすと肩を揺らし、俺はパンパンと手をはたく。
    「一体何を?」
     繰り返された疑問に、もう少し待ってくれと笑う。
    「陽が完全に落ちたら、何をしていたのか教えてやる」
     それまでに湯浴みを済ませよう、と。俺は床に一枚布を被せて立ち上がり、藍湛の肩を叩いた。
     すっかり陽が暮れて濃紺色に包まれた世界。窓の外、天中には正円に少し欠ける白黄銅が輝いている。陽が落ちたことで、午の蒸し暑さは大分和らいでいた。
    「魏嬰、先の……」
     夕餉までを済ませ、冷茶を啜りながら夕刻の件は何だったのかと問うてきた藍湛。
    「ん、あぁ、そろそろ良い時間だな」
     床に広げていた布を掬い、その下に隠していたものを片手いっぱいに拾い上げる。
    「それは……木の枝、か?」
     俺の手元を見て首を傾げる藍湛に、まぁそうっちゃそうだなと頷き歩幅大きく室を出る。
     二歩分俺の後ろを歩く藍湛を引き連れて歩みを止めたのは川辺。
    「こんな所で、何を?」
    「まぁちょっと見てろ」
     しゃがみ、握っていたものを地面に置いて懐を探る。取り出したのは細い蝋燭と発火符。
     蝋燭に火を点け、少し大きめの石ころに固定する。
     そうしてさっきまで握っていた細枝の先を蝋燭の火に当てた。
     シュワ。小さな音と一緒に煙が立ち昇る。枝先にちゃんと火が移ったのを確認してから、俺はそれを水辺に向けた。
     シュワ、バチ、パチパチパチ。そんな音を立てながら、枝先からは夕陽色の火花が散る。
    「どうだ、綺麗だろ?」
     くるくると手首を回せば、藍湛は「ほう」と少しだけ目を丸くした。
    「単に枝に火薬を塗っただけだけどな。花が咲いてるみたいで風流じゃないか?」
     そう云いながら得意気な顔をして見せれば、藍湛は丸くした目を細めてこくんと頷いた。
    「ほら、藍湛も」
     二人で楽しむ為に沢山作ったんだ。俺の努力を無駄にはしないよな?
     悪戯っぽい声を出したら、藍湛も静かに細枝を拾い、その先端を火に翳した。
     初めての体験だからか、藍湛の手付きは恐る恐るといった様子で少し面白い。
     俺は一本目の枝の火薬が尽きそうになったのを見て、二本目を手に取りまたその先っぽを火に当てた。
     シュワシュワ、パチパチ。重なる音が夜気に溶けていく。
    「いつこんな物を作ろうと?」
     ぎこちなく枝を握る藍湛に、肩を揺する。
    「これを作ったのは今日が初めてじゃない」
    「と、云うと?」
     重ねられた問いには少しだけ苦い笑み。
    「昔、よく遊んだんだ」
     その一言だけで、藍湛は「そうか……」と悟った声。
    「……綺麗だ」
     そう呟いた藍湛は、その後黙々と火薬を纏わせた枝に火を点けた。
    「魏嬰」
    「うん?」
    「また、作ってくれないか」
     折角だから私たちの夏の風物詩にしよう。
     昔を掘り下げずに今を、そして未来を見詰めてくれる藍湛の優しさが嬉しくて、破顔せずにはいられない。
    「そうだな」
     また作るよ。飽きるまでずっと。火花の散る枝を軽く振りながら応えれば、藍湛はふっと小さく笑んだ。
    「飽きることはないだろう」
     君が作ってくれるのならば。
     付け足された台詞で胸の奥にも火が点る。
     何となく過去を塗り替えたくなって作ってみたものは、未来への道標になったような気がした。
     
     
     
     藍湛が忙しくしている間、俺の趣味には散歩が加わった。
     一日ごとに青空が高くなって、肌を撫でる風が水分を失っていく。
     林道の両脇には常緑樹が多いが、少し踏み込むと色を変えた葉が頭上に、眼下にと広がる。
     少しずつ色の違う赤と黄色が目に楽しい。日増しふかふかになっていく足元がカサカサと音を立てるのも童心を誘う。
     足取りを弾ませて暫く歩き回ってからパッとしゃがむ。
     色鮮やかな葉を一枚手に取って陽に透かせば、その色は鮮やかさを増す。
     今留守にしている藍湛の帰りはこの葉が鮮やかな内に戻れないかも知れないと云っていた。
     彼が育った敷地内の景色だからこんな色の洪水はもう見慣れているかも知れないけれど、それでも『今』の俺が見ている景色を共有したくて、俺はとびきり発色の良い葉を何枚か見繕った。
     藍湛の帰りはやっぱり自然の彩りが幾らか褪せてからだった。
     藍湛が充分に落ち着いた頃合いを見計らい、なぁと声を掛ける。
     うん? と俺を見る藍湛に手を出してくれと云えば、藍湛は素直に右手を出してきた。
     その手に短い短冊を乗せる。
    「? 栞……?」
     首を傾ける藍湛に、そうだと頷く。
    「今年一番の秋を閉じ込めたんだ」
     藍湛の手に乗せた栞は、薄く薄く漉いた紙に鮮やかな黄色と赤を挟んだもの。
     試作を繰り返した薬液を使い、時間が経っても色が変わらないように加工してある。
    「これが、魏嬰にとって一番の秋?」
    「そう。あー、でも要らなければ適当に処分してくれて構わないから」
     栞なんて幾らでも作れるし、買えもするからな。そう云って肩を竦めたら、藍湛は小さく首を左右に振った。
    「魏嬰に貰ったものを要らないだなんて云えるものか」
     真面目な顔でそう云って、藍湛は目の上に栞を翳した。
    「これが、魏嬰の見た秋……」
    「……何だよ、そんなしみじみ」
    「いや……」
     魏嬰と同じ世界を見れるのは嬉しい、と。そう呟いた藍湛は目許に喜色を滲ませるものだから、自然と顔が綻んだ。
    「来年は一緒に見よう」
    「あぁ」
     顔を元の位置に戻して目を細めた藍湛は、褪せ始めた世界を一瞬だけ鮮やかにした。
     
     
     
     曇天が散々と落とした六花。ようやっと澄んだ水色が天を覆った白銀広がる世界は、色彩豊かな季節よりも陽の光を反射して一際眩しかった。
     朝早くに離れていった体温を恋しく思い、眠気を引きずったまま牀から下りる。
    「うわ、外眩し……っ」
     差し込む朝陽が瞼の裏を刺す。
    「雲深不知処の冬は容赦がないな」
     火鉢の側で背を丸めたら、ふわりと肩に掛けられた厚手の衣。
    「風邪を引かないよう」
    「ありがと、藍湛」
     上等な質感の衣に「流石……」とは胸の裡でだけ呟いて見上げた藍湛はさして厚着もせずに平気な顔。
    「お前、寒くないのか?」
    「多少は冷えるが……」
     眉間を寄せた俺に、藍湛は特に何でもないといった様子。
     感覚が鈍いんじゃないか? と思ってから、あぁでも生まれた時からこの環境に居たのなら慣れていて当然か、と思い直す。
     芯から冷える寒さには芯から温まる燗でも飲みたいな、などと考えるが、幾ら俺に甘い藍湛でも朝から飲酒は許してくれないだろう。
    「なーぁ、藍湛」
    「何か?」
    「今日の予定は?」
    「午前中に昨日残した執務を」
    「半日で終わるのか?」
    「終わる」
     確かな応えに、そうかと返してからおもむろに立ち上がる。
     茶卓に向かおうとする藍湛を一歩追い掛けて強く腕を引く。
    「な、んっ?」
     後ろに傾いてきた身体を上手いこと受け止め、ずりずりと牀に引っ張っていく。
    「魏、嬰……っ」
    「半日で終わるなら、午過ぎから始めても同じだろう?」
     ふふと笑ってくるりと反転し藍湛を牀に押し倒す。
    「魏嬰」
     咎めるような声ににやりと口端を上げてそのまま分厚い掛布を被って薄闇の中に藍湛を閉じ込める。
    「羨羨は上着だけじゃあったまらないな」
    「火鉢の側に居れば……」
    「鈍いぞ、含光君」
     手探りで藍湛の手を探し、指を絡める。
    「芯から温まるには、人肌が一番だって、」
     判らないのか? 吐息を揺らしてころりと横になる。
     それから藍湛を羽交締めにして動けないようにした。
    「魏嬰」
     今度は嗜めるような声。それを無視して欠伸をひとつ。
    「もうひと眠り」
     もうひと眠りしよう。勿論一緒に。
     肩口にそう囁いてやれば、藍湛は大きな溜息を吐いて片手を俺の頭に回してきた。
    「午になったら絶対に起きるよう」
    「判ってるよ」
     丸一日はふいにさせないと笑って藍湛の匂いを肺一杯に吸い込む。
     体臭と香の匂いが混じるその香りは俺にとって一番の催眠効果をもたらす。
    「おやすみ、藍湛」
     眠りに誘おうとそう呟けば、藍湛はまた溜息を吐いて、俺の頭をポンポンと叩くだけだった。
     
     
     
     春がきて、夏がきて、秋がきて、冬がゆく。そうしてまた春がくる。そうやってずっと一緒に季節を巡り続けるんだと信じていた。
     こんな風に何でもない穏やかな日々が幸せの塊なんだとは判っていたけれど。
     それがどれだけ己の生きる材料になっていたのか。それを明確に把握したのは幾らか先のことだった。
     
     
     
     雪華の季節も終わりが見え始めた頃合。夜狩に行くと云う藍湛に、俺も行きたいと同行を願い出た日のこと。
     見慣れた顔触れの門弟たちと共に歩み出た世界は純黒の世界。月は齢を零としていて、葬式の参列じみた白の集まりさえ闇に沈みがちな灯りに乏しい夜だった。
     この日の夜狩はさして苦を要することはなかった。
     多少苦戦する門弟が居ないではなかったが、他から助け舟が入れば犠牲は最小限に留まる程度。
     雑魚ばかりの相手で少々物足りなさを感じながらも、まぁそれ自体は悪いことではない。寧ろ好ましいことだ。
    「今夜は大したことなかったな」
     琴を背中にした藍湛と向き合い、横笛で自分の肩を叩く。
    「ひと通り片付いたみたいだし、今夜は帰るか?」
    「あぁ」
     頷いた藍湛に、じゃあと懐から符を一枚取り出す。それを頭上に向かって真っ直ぐ投げ上げ、パチンと指を鳴らせば小さな破裂音と青白い光が弾けた。判り易く集合を告げる為に作った規模の小さい信号弾のようなものだ。これなら門弟たちの拾い忘れもなくなる。
     ひょいひょいと木の上に登って、頑丈な枝を足場に周囲を見渡す。ぱらぱらと集まってくる門弟たちに、よしよしと一人頷いていた俺だったが、北方から駆けて来た一人の背に濁った色の影を見付けた俺は、咄嗟に藍湛の名前を叫んだ。
    「藍湛! 結界を張れっ!」
    「魏嬰?」
     訝しげな声は、それでも周囲に半円の乳白色を作った。
     それを横目に確認して枝から飛び降りる。産毛が逆立つような感覚。今にも不穏が夜を塗り潰しそうだ。しかしその不穏は邪祟の気配と似て非なるもののように感じる。
     跳ぶように駆け、何も気付いていない様子の白い細腕をすれ違いざまに結界側へと放る。
     素早く笛を構え、一音鳴らした瞬間、濁った影が背を高くした。まるで俺を飲み込もうとするようなそれから逃げようと後方へと大きく飛び退いたのと同時に、襟首を強く掴まれた。ドサッと地面に打った背。何事かと理解するより先に視界を白が埋め尽くした。
     三歩前方で影が白を覆い隠す。
    「藍湛っ!」
     叫び声は濁った色に溶け、その影がしゅるしゅると藍湛の白に染み込んでいく。
     濁りはまるで藍湛の白い衣で浄化されたよう、その色をなくした。
    「藍湛! 大丈夫かっ?」
     すぐさま起き上り、片膝をついた藍湛の肩を抱く。
    「……特に、問題はなさそうだ」
     手を握ったり開いたりしてから立ち上がった藍湛の姿勢はいつも通り。
    「大丈夫そうなら、良かった」
     は、と安堵の溜息を吐いて藍湛と肩を並べる。
    「さっきのは、一体何だったんだ……」
     邪祟の一種だろうか。少し性質が違うようにも感じたけれど。
    「明日、蔵書閣で調べてみよう」
     藍湛の提案に、俺はそうだなと素直に頷いた。
    「何はともあれ取り敢えず全員揃ったし、戻るか」
    「……そうしよう」
     結界の中に居た門弟たちはそれぞれ戸惑い顔をしていたが、「大したことじゃなかった」と俺が明るい声を出せば、彼らは「魏先輩がそう云うなら」とほんの少しだけ表情を和らげた。
     列の後方で藍湛と並んで歩く。
    「本当に大丈夫か?」
     横顔を覗き込めば、大丈夫だという答え。その声は明瞭で、普段の藍湛そのものだった。
     そう、その筈だった、のに。
     灯り乏しい純黒が藍湛の長い松葉の下により濃い陰を落としていた所為で、彼の玻璃が僅かに濁っていたことに気付けなかった俺は本当に愚鈍も良いところだった。
     
     夜狩から帰り、身を清めてから牀に横たわる。無論俺と藍湛は一枚の掛布の中。
     何時に寝ようと、藍湛の朝はいつも同じ。俺が目を覚ます頃にはもう隣に体温は残っていない……筈、なのに。
     目が覚めて、肩に何かが当たっていることに気付く。ん? と首を回したら、藍湛の寝顔があって驚いた。珍しく自分が早く起きたのだろうかと窓の外を見れば、射し込むのは淡い飴色で、それが藍湛の起床時間をとうに超えていることを教えてくれた。
    「藍湛?」
     珍しいこともあるもんだ、と彼の頬に手の甲で触れて思わず息を飲む。
     額に、首筋に手の平を当て、皮膚が捉えた温度に微かな動揺。よく見れば、藍湛の眉間には浅い皺が刻まれており、薄らと汗ばんだ額には絹糸のような髪の毛が張り付いている。
    「藍湛っ?」
    「…………」
     返ってこない声。松葉が持ち上がる気配はない。浅い呼吸の乱れを感じた俺は、藍湛が発熱しているのだと確信して静かに、けれども速やかに掛布の中から抜け出して室を出た。
     一先ず水を貰いに行こうと廊下を早足で歩めば、角を曲がった直後に「おや」という穏やかな声。
    「あっ、沢蕪君……」
     軽く拱手すれば、そんなに慌てた様子でどうかしたかい? と問われる。
    「藍湛が、」
    「忘機が?」
     沢蕪君の鸚鵡返しに、藍湛が発熱していることを言葉短く説明する。
     それで水を求めに行こうとしているのだと告げたら、沢蕪君はすぐに医師を向わせようと俺に背を向けた。
     水の入った桶を持って静室へ戻る。藍湛は横になったままだった。
     牀の側に膝をつき、水に浸した手拭いで藍湛の首筋や額の汗を拭ってやる。そうしてまた水に浸した手拭いを固く絞り、首筋に当ててやった。額を冷やすよりも首を冷やす方が解熱効果がある。
     ややあって、沢蕪君と医師が姿を現した。
     医師はひと通り藍湛を診てからゆるりと振り返り、曇った表情で大きく瞬いた。
    「どうやらただの発熱ではないようです」
     ただの発熱ではない、とは?
     怪訝を纏えば、それを察したよう医師は言葉を続けた。
    「何か、障りに心当たりは?」
    「障り……?」
     首を傾げる俺に医師は頷き、二の若君は何かしらの瘴気に当てられている様子ですと苦い顔をした。
     瘴気……心当たりを探り、あっ、と俺は息を飲んだ。
    「魏の若君、何か思い当たる節が?」
     顔を覗き込まれ、恐らく、と口許に手を遣る。
    「昨夜、夜狩の時に……」
     邪祟と似て非なる得も知れない不穏が藍湛を包み込んだことを明かせば、医師はちらりと藍湛を見てから俺と沢蕪君を交互に見た。
    「確かな原因は不明ですが、きっとその何かしらに悪さをされているのではないかと思われます」
     俺と沢蕪君は一瞬顔を見合わせてから、医師に向き直る。
    「瘴気を散らすには、」
    「単なる瘴気であれば、煎じ薬や薬香でどうにかなる可能性がありますが、二の若君の霊脈には呪のようなものが溶けているように感じられます」
     瘴気を祓っても呪を解かなければ根本の解決は一筋縄ではいかないかと、とまた藍湛を見る医師の表情は硬い。
    「……沢蕪君、蔵書閣の書物を借りてきても?」
     藍湛を一人静室に置いて蔵書閣に籠る気にはなれず、書物の持ち出しを願い出た俺に沢蕪君は「禁書以外なら構わない」と諾を唱えてくれた。
     承諾を得た俺は早速蔵書閣に向かった。呪を解く為に参考になりそうな書物を見繕い、両腕に抱えて静室でそれを開く。
     苦しげな吐息ひとつ洩らさず昏々と眠り続ける藍湛。時折心配になって藍湛の顔に手を翳してしまう。皮膚を掠る仄かな感覚にホッとしては、また書物と睨めっこを繰り返すこと六日。
     何十冊と目を通した書物からは何ひとつ手掛かりを読み取れず、俺は奥歯を噛むことしか出来ない。
     清拭をし、水分補給をさせ、藍湛の両手を握り込んでは溜息を零す。早く熱が下がらないか、目を覚まさないかと祈ることしか出来ない俺は何て無力なんだろう。
     七日目の午。相変わらず文机で書物を開いていると、んっ、と微かに息を飲む音がした。パッと顔を上げてすぐに立ち上がる。牀の側に腰を落とせば、何度か松葉が揺れた後でそっと藍湛の瞼が持ち上がった。
    「藍湛!」
    「……魏嬰……?」
     掠れた声。ぎこちなく回った首。玻璃越しの琥珀が俺を映す。
    「……私、は……」
     起き上がろうとした藍湛の肩を押さえて牀に戻した。触れた首筋は未だ熱を持っている。
    「七日眠りっぱなしだったんだ」
    「七日、も……?」
    「あぁ。心配のし過ぎで胸が潰れるかと思った」
     眉尻を下げたら、藍湛の手が緩慢な動きで俺の頬に触れた。
    「心配させて、済まない……」
    「全くだ」
     わざとらしく憤慨するような声を出せば、藍湛はもう一度「済まない」と繰り返した。
     藍湛が目を覚ましたことを沢蕪君に、そして医師に告げに行き、揃って静室に踏み込む。
     医師は身体的な異常がないかだけを診て、三日三晩安静と養生に気を配れば概ね元の生活に戻れるだろうと俺たちを見回した。その双眸の奥に「呪は解けていないが」という色が含まれていることに気付かないのは藍湛だけだった。
     医者の云う通り、三日三晩経てば藍湛は少々覚束無いながらも歩き回れるようになった。
     寝たきりも良くないからと、積極的な散歩を勧めてきた。
     未だ風は肌を切るようだが、最近は青空続きの日が多い。天高くにある水色を眺めながら飴色を浴びるのは確かに心身を健やかにさせるのに丁度良いかも知れない。
     俺はなるべく藍湛と寝る時間を同じくするようにして、朝夕と散歩に出た。
     散歩に行こうと手を伸ばせば、その手を取られる。それだけのことがやたらと尊いことのように感じるのは、七日生きた心地のしない日々を過ごしたからかも知れない。
     敷地内はどこもかしこももうすっかり見慣れている景色だろうに、藍湛はどうしてか毎回初めの一歩だけを躊躇うように踏み出していた。
     並んで、まだ溶けきらない白の上を歩く。
    「藍湛」
    「うん?」
    「……ずっと、」
    「ずっと……?」
     ずっと、一緒に居てくれ、と。
     そんなことを改めて云うのは野暮な気がした。
     そんなことを云わなくても、今握っている手がずっと共に在ろうという証明な気がするから。
     繋いだ手に、絡めた指に少しだけ力を込める。離したくない。離れないでくれ、と。
     この温もりだけは絶対に失いたくない。この温もりが、この温もりだけが、俺を生かしてくれるのだから。
    「藍湛、明日は街に行こう」
    「街へ?」
    「このところすっかり禁酒生活だったんだ。久し振りに天子笑が飲みたい」
     おどけるような俺の声音に、藍湛は淡くはんなりと笑った。
     翌日の朝は少しのんびりしてから、午を前にして藍湛を静室から連れ出した。
     街へ下りる為の道程に歩みを乗せたら、藍湛が俺の袖を軽く引いた。
    「ん? どうした、藍湛?」
    「今日は、どこへ……?」
    「へ……?」
     藍湛の思わぬ問いに目をぱちくりさせてしまう。
    「今日は街へ行こうって、昨日云っただろう?」
    「……あ、あぁ、そうか、そうだったな」
     そうだった、と繰り返した藍湛は俺の袖から手を離した。
     贔屓の酒屋で小甕をみっつ銀子と取り替えてから茶楼に入る。
     もう馴染みになり過ぎて、あれをこれをと頼まなくても俺には酒が、藍湛には茶が卓に置かれる。好意で出てくる茶請けはひまわりの種。
    「……美味いな」
     茶を啜りながらしみじみと呟く藍湛に、きっと久し振りに飲むからかも知れないなと笑う俺は酷く楽観的だった。
     藍湛の奥部に巣食い続ける呪のことを忘れていた訳ではなかった。それでも大きな問題が起きることがなかったから、どこか軽視してしまっていた感は否めず。
     だからこそ、数日後から藍湛の身に起きた変化は非常に急ぎ足のように感じたし、事実それは急な展開だった。
     朝起きたら隣に人肌がなかった。それ自体は不審がることでもない。のそりと起き上がって目を擦りながら大きな欠伸。それからようやっと目をしっかり開け瞬間、俺は思わず呆けた。
     文机にも茶卓にも腰を落ち着けず、室の中央でぺたりと座り込んだ藍湛が俺を茫然と見ているのだ。
    「藍、湛……?」
     牀を下りて近寄ったら、
    「……きみ、は?」
     普段より幼い声で問われ、世界から音が消えた。
    「……ここ、は?」
     座り込んだままの藍湛を見下ろす俺は時が止まってしまったかのようにただ立ち尽くすしか出来なかった。
    「藍湛……?」
    「何故、君は私の名前を知っている……?」
    「藍湛、冗談にしたって何も面白くないぞ」
    「冗談など、私は云わない」
    「……あぁ、知ってる。お前はそんなに柔軟な考え方が出来る奴じゃない」
    「君は、どうしてここに……」
     どうして私と同じ牀で寝ていたのだと困惑した様子の藍湛に、俺も困惑を隠せない。
    「……藍湛、沢蕪君を呼んでくるからそのまま動くな」
    「兄上の、知り合いなのか……?」
     藍湛の問いにはうんともいやとも答えずに俺は室を飛び出した。
     寒室の戸枠を軽く叩いてから、沢蕪君と声を掛ける。
     入って構わないよ。その声を聞いてから戸を引き、こちらを振り返った沢蕪君と向かい合って膝を折る。
    「どうしたのかな、魏の若君」
    「藍湛の様子がおかしいんです」
    「忘機の……?」
    「俺のことを誰か、と」
     そう問うてきたのだと唇を噛んだら、沢蕪君はすいと立ち上がり、医師を連れて行くから貴方は忘機の元へ、と指示を受けた。
     云われるがまま静室へ戻れば、藍湛は茶卓に向かっていた。
    「藍湛」
    「……魏嬰?」
     いつの間に室を出ていたんだ? と問われ、一瞬理解が追い付かなくなる。
    「藍湛、俺のことが判るのか?」
    「……? 魏嬰、何を云っているんだ?」
     キョトンとした顔の藍湛を見て、額を押える。
     何だ? 何が起こっている?
    「忘機」
    「兄上」
     俺に続いて沢蕪君の登場に藍湛は首を傾げる。
    「私に何か用向きが?」
    「忘機に不調がないか、それを確認しに来ただけだよ」
    「今のところ特別悪く感じることはありませんが……」
    「先日寝込んだことを忘れたのかい? 暫くの経過観察が必要だというのが医師の見解だよ」
     そうですよね? 沢蕪君が軽く振り向けば、その背後からぬっと姿を見せた医師。
    「その通りです。二の若君は未だ本調子ではないと見受けられますので」
     診察をさせて頂きたく、と医師は藍湛の斜向かいに腰を落として薬包を懐から取り出した。
    「精のつく薬です。食事からは充分に得られない栄養素を補うものになります」
     今ここで服用しろと暗に含む医師に逆らう道理はないと判断したのか、藍湛は素直に薬包を受け取り茶器に入っている茶で粉薬を飲み干した。
    「それでは牀に」
     促されるまま藍湛は牀へ横になる。
     医師が身体的異常がないかと調べている間に、藍湛は何度か緩く瞬いた。それが眠気に抗う仕草だというのは明白で。医師は時間を稼ぐよう綿密な診察を続けた。
     そうして藍湛の瞼が完全に下りたのを合図にしたかのよう、医師は藍湛の霊脈を探り出した。
    「身体の回復に比例するよう、呪の力が強まっているようです」
     医師の静かな声に俺と沢蕪君を同時に眉根を寄せた。
    「魏の若君の言を信じるとすれば、二の若君には健忘が生じ始めているのではないかと」
    「対処法は」
     問うたのは沢蕪君。
    「呪の根源を断つことが最良の対処法となりますが、」
     そこで一度言葉を区切った医師は、難しい顔をして頭を横に一往復させた。
    「二の若君を蝕む呪は既に霊脈から神経へと癒着してしまっているようです」
     霊脈に溶け込んでいるだけであれば、純度の高い霊力を注げば中和出来たかも知れないが、神経をも蝕んでいては手の打ちようがないと沈鬱な声。
    「じゃあ、藍湛はどうなるんだ」
    「神経を辿り呪の影響が中枢までをも侵した場合……」
     その先は聞かずとも知れてしまった。
    「なら、もう最期を待つしかないってことか?」
     剣呑な語調になってしまったのは、遣る瀬なさ故の殆ど八つ当たりだ。
    「進行を抑制させることは可能かと」
     その為の薬を調合する時間を幾らか頂きますが、と。淡々とした声が俺の神経を逆撫でたが、ここで当たり散らしても何ら意味はない。
    「どれだけ遅らせられるんだ」
     絞り出すような俺の台詞に、医師は刹那視線を横に流してから侵食速度がどの程度か判らないからどれだけという明確なことは云えないと、偽らない答えを寄越した。
     憤りを感じ熱を帯びる俺とは真逆に、沢蕪君は目を細め冷たい空気を纏っていた。それは一種の諦観だったのかも知れない。
    「出来得る限りの、」
    「承知しております」
     沢蕪君の冷えた声に医師は怯むことなく大きく頷いた。
    「早急に手筈を整えましょう」
     医師の惑いない声に、俺と沢蕪君は同時に拱手した。
     そうして四日後、医師は俺に七日分の薬包を握らせた。
    「一日一包。眠前に服用するようにと」
    「茶で良いのか? それとも水の方が……」
    「少々えぐみがありますので、味の誤魔化しに茶の方が宜しいかと。効能に差はありません」
    「……判った」
     頷き、俺は自分用にと充てられている抽斗にそれをしまった。
     以降、俺は藍湛に毎夜薬を飲ませた。初め、何の薬かと訊かれた時には滋養強壮のものだと偽った。
     半月程異常を見せなかった藍湛に安心したのも束の間。彼の記憶は坂を転がり落ちるよう急速に失われ始めた。
     藍湛、と呼んでも、君は? と返ってくる。その哀しさはどうにも喩えようがない。
     ただ、幸か不幸か。どちらとも云えない気持ちになることがあった。藍湛は、時折正気を取り戻すことがあったからだ。
    「魏嬰」
     そう名を呼ばれるだけのことが、酷く尊いことに感じられた。
    「藍湛」
     名を呼び返し、縋るよう手を伸ばす。伸ばした手は躊躇いなく握られ、そのまま彼の腕の中に閉じ込められれば、視界が僅かに歪んだ。
     俺のことを確かに認識してくれる瞬間が嬉しくて、嬉しくて、いっそ残酷だとも思った。
     触れ合うだけの戯れも、幸せの裏に虚しさが張り付いて離れない。
     次はいつ正気に戻って俺を愛してくれるのだろうかと期待してしまう。期待すればするだけ、現実に裏切られた時の苦しみは深くなるばかりだと理性では判っている。それでも本能は藍湛を求めずにはいられない。
    「なぁ、藍湛」
     琴を爪弾く藍湛の背に背を預けてぽつりと零す。
    「何だ? 魏嬰」
     まだ。まだ、藍湛は俺の名前を呼んでくれる。
    「藍湛は、俺とずっと一緒に居てくれるか……?」
    「……愚問だ」
     短い溜息に、ふふと洩れた喜色の吐息。
    「藍湛、好き」
    「私も同じだ」
    「一生、一緒に居たい」
    「……叶うのであれば」
     それだって同じ気持ちだと後ろ手に手を握られる。
    「藍湛は、俺と最期まで一緒に居てくれるか?」
    「時間の許す限り、私は君に寄り添うと告げたことを忘れたのか?」
     もう随分と昔の告白を思い出して、またふふと笑みを浮かべる。
    「藍湛」
    「何だ」
    「……何でもない」
     俺の小さな呟きに藍湛は何も追及してこなかった。追及してこない代わりに、俺の手を握っている指に少しだけ力が籠った。
     
     暮れない白昼夢の中を彷徨い続ける藍湛。彼の神経はどこまで蝕まれているのか。ある夜、寝しなに藍湛が俺の肩口に顔を埋めてきた。こんなことは初めてで、どうした? と躊躇いがちに後頭部に手を添えれば、彼は小さく喘いだ。
    「魏嬰」
     確かに呼ばれたその名前に、心の臓がぎゅうと握り締められる感覚。
    「藍湛?」
     俺の呼び掛けに、藍湛は暫く黙ったまま。何も云わずに次の言葉を待てば、彼はまた小さく喘ぎながら一言。
    「こわい」
     と掠れた声で呟いた。
    「何が怖いんだ?」
     あくまで優しい声を出せば、藍湛は俺の背に腕を回して、衣に波間を作った。
    「私は、君と共に在ると……」
     そう誓った筈なのに。今の自分は君の傍に居ない気がしてならない。
     ぽつり、ぽつり。雨垂れのような声。
    「魏嬰……」
    「……うん?」
    「わたしはいま、どこにいる……?」
     微かに震える声が、俺の鼓動を逸らせた。
    「俺の、傍に居る」
    「ほんとうに……?」
    「本当だ」
     穏やかな口調を心掛けるが、鼓動は早まっていくばかり。
    「けれども……」
     何がどうそう思わせるのかは判らないけれども。私は何かが怖いと喘ぎ続ける藍湛の耳許に、俺は唇を寄せた。
    「何も怖くない」
     嘘ばっかり、と自分を罵ってから、あぁと緩く目を瞑る。
    「なぁ、藍湛……」
     いっそ。怖いものを全部捨てようか。お前が感じている怖さも。俺が感じている怖さも。全部、全部ひっくるめて。
    「全部捨てて、もう終わりにしようか……」
     静かにそう囁いたら、藍湛は俺の肩に押し付けた額を僅かに縦に滑らせた。
     しっとりと、肩口が熱く濡れた気がした。
     
     数日後。真っ白な朝を迎えた俺たちは手指を絡ませながら眺望の良い場所へとゆっくり歩を進めていた。
     鼓膜を叩くのは水音。一歩進む毎にその音は近くなってくる。
     もうこれ以上先はないという高さまで歩いて来た俺たちは、ゆるりと顔を見合せた。
     互いの顔は今までで最も柔らかな微笑だっただろう。
     一音足りとも声を発さず、藍湛の手を取って一歩、二歩。そうして振り向きざまに彼の手を強く引く。抱き合う形になって、三歩目は後ろ足で踏み出した。もう一歩、後ろを踏んだ足は遠い青の上だった。
     ばさり、長い黒が絡み合うように白い光に飲まれていく。
    「……なぁ藍湛、空に融けていきそうだ」
     漸く発した声は無邪気。
    「風が気持ち良いな」
     藍湛の背にしがみつきながら笑う。
    「あと、どれくらいかな」
    「……もう、」
     すぐだ、と藍湛の声が聞こえるより先に響いたのは、バチャン! という水音だった。
     背を打ったそれは流体の筈なのに岩盤のように硬くて。
     息を飲んだ瞬間、もう視界は歪んだ乳白色でいっぱいだった。
     眼球が痛むのも忘れて揺らぐ世界をぼんやりと眺めていたら、頭を引かれて唇に温度のない柔な感触。
    『また、必ず逢おう』
     口移しされた藍湛の正気に、俺は「あぁ、絶対だ」と彼を強く抱き締めた。
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