虚空きっと、最初から何もなかったのだ、と、漠然と思う。
何も持つことができなかったまま、俺という人間はこの世に生を受けたのだろう、と。
そして俺は、それが悲しいことなのか、それとも人間として生きていくうえで喜ぶべきことなのか、それさえもわからないまま、今も生きている。
自分が初めて「思い出」というものを持ったのは、もう十五年近く前の頃、恐らくまだ赤子と呼ばれてもいい頃、病室で臥せっていた時のことだ。
自分という人間は、どうやら重度の肺炎を患って生まれてきたらしい。後に両親から聞いた話だが、生まれてきた瞬間から手術、精密検査、そして手術、の繰り返しで、大層忙しなかった赤子だったそうだ。
そんな自分が記憶している人生初の「思い出」は、病院で酷く咳き込み涎を撒き散らしながら肺というものが存在する胸を掻き毟っていた時のものだ。
思い出すのは、息をするだけで吐きそうになるほどの苦しさ。喉を焼くような何かが通り過ぎ、口から何度吐き出しても止まらなかった苦しさ。いくら傷跡が残るくらい胸に爪を立ててもどうにもならなかった苦しさ。苦しさ、苦しさ、苦しさ。そして―――その中で微かに耳が拾っていた、大人たちの声。
ああかわいそうに、つらいね、くるしいね、だいじょうぶよ、なおるからね、まけないで、もうすぐよくなるからね、ゆっくりいきをして、そうじょうず、じょうず、だいじょうぶ、くるしくないよ、だいじょうぶ―――。
そんな、大人たちの、励ましという名の声。
励ましというだけの、何の意味もない声。
そんな声を、生きるだけで精一杯だった体は拾っていた。
血反吐を吐きながら、泣き叫びながら、のた打ち回りながら、どうにもならないとわかっていてもどうしようもない苦しさに藻掻いていながら、この体はその声を拾っていた。
その時自分が何を言っていたのかは、実は何も覚えていない。要領を得ない、理解不能な叫び声を上げていただけだったのかもしれない。ただひたすら息をするのに一杯いっぱいで、声を発する力なんて残っていなかったのかもしれない。例え喋れていたとしても、苦しい以外の言葉など上げる余裕なんてなかったのかもしれない。
それとも、もしかすると、この体はその大人たちに向かって、「たすけて」とでも叫んでいたのだろうか。
思い返してみても、自分が何を言っていたかだけは、全く思い出せない。
では、何が「思い出」なのか。痛かったからか、苦しかったからか、たくさん泣いたからか。そんな痛覚的な面も、あるにはある。
だけど、それは取るに足らないことだった。重度の病気だったのだから、痛いのも、苦しいのも、泣くのも、自分でなくたって、ほとんどの人間はきっと同じ立場に置かれれば誰だって同じだ。
それではない。「思い出」はそれではない。
自分が強く覚えている理由はただ一つ。苦しみの中、痛みの中、どんなに泣いても涙が止まらなかった中。
周りの医師たちが、看護師たちが、病室内を入れ代わり立ち代わり走り回っている中。
そんな大人たちが、ずっと自分に呼びかけていた声たち。
病気に苦しむ哀れな子供を元気づけようとする、言葉たち。
かわいそうに、だいじょうぶよ、つらくないよ、すぐよくなるから、くるしくなくなるから、だいじょうぶ、くるしくないよ、だいじょうぶよ―――。
それを拾い上げた幼稚な体が、耳が、細胞全てが、脳が。
岸岡黒空という人間のかたちをしたものが。
「―――人って、自分の前でだれかがかなしんでいたら、くるしんでいたら、こういう言葉を話すものなんだ」
初めて人間というものについて理解したから、だった。
幼少期、小学校高学年になるくらいの頃まで、入院の日々は続いた。
自分が覚えている限りでは、最初から退院する最後まで、病院での日々はずっと一人部屋だった。話す機会があったのは、両親、医者、看護師だけだった。
やることといえば、やれることといえば、本を読む、テレビを見る、外の景色を眺める、眠る。それくらいだった。
ただし、稀にではあったが、体の調子がいい時は、看護師と一緒に病院の廊下を歩いたり、中庭に出たりしたこともあった。
廊下や中庭に出ると、全身を撫でる風が運んできたかのように、時々病院のそばにあるのだろう空き地なのか公園なのか、自分は終ぞ知ることはなかったが、そこで遊んでいる子供たちの声が聞こえることがあった。
目を向けると、病院の敷地を形作っているフェンスの向こう側で、名も知らない、自分と同じくらいの年頃の子供たちが男女交えてボール遊びをしている最中だった。
見かけたのは、一度だけじゃない。ボール遊びだけじゃなく、砂場らしきところで何かを作っていることもあった。高台と地上とを、器用に交互に上り下りしながら走り回っていることもあった。
その様子を、自分は風に髪を撫でられながら静かに眺めていた。ずっと病室で過ごしてきた身には眩しすぎる、太陽の光から逃げる術も持たない身で、赤い光をこれでもかというほど浴びながら、只々静かに見ていた。
そんな折、じっと外の子供たちを見つめている自分に何を思ったのか、傍にいた看護師に、
「大丈夫よ、もう少し経てば、黒空くんも元気いっぱい遊べるようになるわ」
と微笑みながら、優しく頭を撫でられたことがあった。
何を思ったのか、じゃない。そう言われた意味なんて、本当は当の昔にわかっている。
自分を哀れに思ったのだ。同じ年頃の子供が病院などに籠らず元気に地を駆け回っているのに対し、自分は閉鎖された箱庭の中庭まで歩いていくだけで精一杯だ。
そんな脆弱でどうしようもない自分と、それ以外の人間を比較して、自分は何て弱くて悲しい奴なんだ、と、何てどうしようもなくて哀れな人間なんだ、と。
そう卑下しているんだ、と思ったのだ。
看護師という存在は、病院に来訪する人間が持つ様々な病気を回復に導くための存在だ。その場の来客者だけじゃない、恒例となり通院している人間、入院している人間、老若男女問わず全ての人間に等しく明るく優しく対応し、元気づけ、励まし、精神面だけでもよい方向へ向かわせるために、最大限の努力をする存在だ。
だから、目の前で困っている様子の患者がいれば、どうしたのかと尋ねる。悲しんでいる様子の患者がいれば、傍に寄り添い慰める。落ち込んでいる様子の患者がいれば、そっと励ます言葉を贈る。
看護師とは、そういう存在である、と。
そうあれかし、と願われた概念を遂行する者たちに他ならなかった。
そして、自分のような、生まれた時から病弱で、普通に歩くことだけもできず、ただただ外の景色を眺めることしかできないような者は、世間では弱くてかわいそうで心まで病んでしまっている、哀れな存在だと思われることが多かった。少なくとも、病室で読んだ、世に出回っている病院を舞台にした本に書かれていた物語や、病室に備え付けられたテレビに映し出されたドラマの世界では、そういう存在だと表現されているものばかりだった。
そして、その存在たちは、自分の置かれた境遇とは違う、自分がどうあがいても手に入れられない境遇をさも当たり前のように持っている人間を羨んだり、妬んだりするものだと描かれていることが多かった。
自分のような存在も、きっとそうに違いない、と。
そうあれかし、と描かれているものばかりだった。
そんな弱くて矮小な存在の自分と、病人を元気づけることを役目として背負っている看護師の人間。
両者とも、偶像が定められた存在。
その両者が舞台に上がれば、観客に望まれるべき行動など一つだけだった。
看護師は、そうあれかしと願われたとおり、俺を優しく励ました。
そして自分は、そうあれかしと願われたとおり、風に靡かれて少し乱れた髪をとかすように撫でられたその手を、嫌がることなく受け入れたのだった。
そうあれかし、とは呪いの言葉なのかもしれない。
俺は、その場で何かを言うことはなかった。
俺は、ずっと子供たちを見ていた。延長線上にいる遠い存在を、傍目に見ればまるでその存在を羨んでいるかのように、只々静かにずっと見ていた。
その舞台を誰かが見ているのなら、誰かが聞いているのなら、何かが変だと思われないように、怪しまれないように、興覚めしないように、望まれた題目のとおり、静かに自分の役目を果たした。
俺のような人生を送ってきた人間は、そうあれかし、と願われたとおり、看護師の舞台に付き合うものだと、本やドラマの役者によって知っていたから。
俺のような、「ずっと病院で過ごしてきた、病院以外の世界を知らない、友達というものが一人もいない、小さく哀れな子供」は、こういう役目を演じることを望まれることを知っていたから。
この世界からこの役目を望まれているんだ、と、理解していたから。
俺はその役目が嫌だとも、苦しいとも思うことはなかった。
ただ、望まれた役目と少し違ったかもしれないところが、一つだけあった。
俺は、その場で何かを言うことはなかった。ただし、俯くことも、泣くことも、目を閉じることもなかった。
俺は悲痛な顔をしていたわけでも、泣くのを耐えていたわけでも、子供たちを羨んでいたわけでも妬んでいたわけでも、何でもなかった。
俺は、本当に静かに子供たちを見ているだけだった。
本当に、何もなかったんだ。
俺は、自分の中に感情を芽生えさせることなど、できなかった。
俺は、子供たちを妬むことも、羨むことも、憎悪することもできず。
「―――俺のような年齢の子供は本当に、ああやって誰かと共に遊ぶことが当たり前で、それが楽しくて幸せであると、そう願われているものなんだ」
事実を知った、だけだった。
発する言葉にはその意味そのままの力が宿る、と信じられ始めたのは、いつの時代からだっただろうか。
言霊。口に出した言葉に宿る不思議な力、とされるもの。
気分が明るくなるような言葉を口にすれば、結果もよいものになる。逆も然り、気分が沈むようなことを言い続ければ、結果も悪いものになる。
現代だとスピリチュアル、なんて言葉で親しまれていたりするらしい。
うまく商売にしたものだ、と思う。そう思うだけで、それが感心すべきことなのか、世間を馬鹿にしていると嫌悪すべきことなのか、たとえ聞かれたとしても俺には回答などできない。
ただ、一つだけ、事実としてどうなのか、気になることはあった。
言霊。口に出した言葉に宿る不思議な力、とされるもの。
それは声に出す言葉だけでなく、文字に起こす言葉にも適用されるのだろうか。
有り体に言ってしまえば、人の名前にも力は宿るものなのだろうか。
人の名前。親から子への、一番最初の贈り物。
夫婦というものは、お互いに好きなもの、理念、語呂の良さ、代々の家系の伝統、そういったものを連ね合い、話し合った上で子の名前を決めるものだという。
俺の母は、星空が好きだった。俺の父は、名に代々「黒」の字が入っているからと、伝統を引き継がせたがった。
最終的に俺の名前を決めたのは、母だった。黒い空、夜空。遠い空にある宇宙。空に煌めく星々が作る宇宙のように、広く優しく、全てを包み込んでくれるような温かい心を持つ子に育ってほしい、という想いを込めて名付けたのだ、と。
中学校に上がるまでに肺炎が完治し、ただしあまり体に負荷をかけるようなことはしないように、と専門医から重々忠告を受けた上で退院し学校に通うようになった時に課せられた、「両親が自分に贈った名の意味を聞き、それを後日発表する」という宿題を終わらせるため訪ねた俺に、母はその理由を、少々照れくさそうに語った。
でも母さん、嬉しいわ、と母は続けた。
黒空の病気がちゃあんと治って、元気になってくれて。
ううん、それだけじゃない。母さんたちが思っていたとおり、思いやりができる優しい子に育ってくれたんだもの。
母は、いつもより楽しそうにそう言った。
そんなことないよ、それに裁判官やってる父さんが厳しいから父さんに逆らえないだけで、遅れて反抗期がやってくるかもしれないよ、と俺は言った。そうすると母は、あらやだ、黒空も、母さんのご飯なんか食べたくない、なんて言う日が来るのかしら、とため息をついた。
母さんのご飯は美味しいから、反抗期が来たとしても母さんのご飯はちゃんと食べるよ、と俺は笑いながら、いつもより明るい口調でそう言った。それを聞いた母も、満足そうに微笑んだ。
子と親とは、こういった何気ない会話をすることが、普通なんだ。
これが、子と親のあるべき姿なんだ。
そう思ったから、俺はそうした。
本当は、母の料理が美味しいのか美味しくないのかの判断なんて、したこともなかった。
母の手料理は、入院していた時の病院食と何が違うのか、俺にはわからなかった。
俺の名前。岸岡黒空。
こくう。
夜空に浮かぶ宇宙を夢見て、名付けられたという名前。
だけど、この名前には、言霊により別の意味が宿ってしまったんじゃないだろうか。
煌めく惑星たちに追いやられた、宇宙の端。宇宙の片隅にあるとされるブラックホール。何もない、全てを飲み込む黒い闇。虚無の空間。
そこにあるのは、虚しいカラだけだ。
ただただ、虚空が広がっているだけだ。
ブラックホールを進んだ先に、何かを見つけることができるのだろうか?
そこに、必要な何かはあるのだろうか?
虚空が形を変えることはあるのだろうか?
虚空が何かを得ることはできるのだろうか?
虚空が、感情を知ることはできるのだろうか?
世界に求められるままに。
人間とはそうあれかし、と願われるままに。
さも見渡せばその辺に幾らでもいるような、ただの年頃の学生という役目を求められるままに。
心を持っている人間の、真似事をするままに。
俺は、ずっと舞台から降りることができないまま、今も生きている。
何もわからないまま、今も生きている。