西連寺紺西連寺紺という人間は、所謂天才と呼ばれる人種だった。幼い頃から音楽、殊更ピアノに関心が強く、のめり込むのにそう時間はかからなかった。その豊かな表現力と美しい音色に、彼の両親はたいそう喜んだ。喜んでこの子に音楽の道を進ませてやろう、と。しかし、彼が幼くして様々な賞をとり、称賛を浴びるようになるたび、徐々に変化は表れた。母親は息子の才能をかさにきて、それをひけらかすことに快感を覚え始める。自身と紺を飾り立て、紺自身の意思を考えなくなってしまった。いくら訴えたとしても、帰ってくるのは「あなたには才能があるんだから」「私の言う通りにすればいいの」「貴方にはピアノしかない」という呪いの言葉だ。いつしか紺は口を噤むようになった。
ある日、母親のあまりに行き過ぎた行動に父親が声を上げた。しかし母親は聞く耳を持たず、「紺の為である」という主張を崩さない。最終的に離婚するまでに至ったその言い争いでも、紺の意思は通らなかった。母親の生家が資産家であることと、父親が『同性愛者』であったことが原因で、親権は母親のものとなったのだ。父親は紺に泣きながら謝った。
「すまない、紺。必ず...いつか必ず迎えに行くから、それまでどうか待っていてくれ」
紺は同性愛者というものの何が悪いのかは分からない。何故なら、父親とそのそばに居る恋人が、誰より幸せそうに見えたからだ。それが当たり前のように。呪いから逃れる為には、この人たちのそばに行かなければ。そうすれば、そうれば自分に足りない何かを手に入れられる。強い確信があった。
しかし、その淡い希望はほどなくして打ち砕かれることになる。訃報が届いたのだ。事故だった。父親とその恋人が運転中、制御を失った大型トラックと接触、そのまま押し潰される形で圧死。車体は炎上し、消火が終わった頃には身元も特定できないほどの状態だったという。車のナンバープレートなどから辛うじて2人だと判断されたようだ。淡々と続けられる報告を、紺はどこか遠くのように聞いていた。これは呪いなのだ。影が立ち上り、侵食していく。足元から、腹の中をはい登り、首を絞めて口を塞ぐ。これは、呪いだ。何も聞こえなくなる。受話器の重さが分からなくなる。その向こうから聞こえる音が理解できない。感覚のにぶった両手で口を覆う。胃が激しく痙攣し、何かが勢いよく喉を登って、組んだ両手指の隙間から溢れ出る。いつの間にかついていた膝と膝の間にぼたりと落ちるそれは、この世の何より黒く見えた。
それから有名な音楽大学に通った紺は、常に独りだった。才能豊かで、それを惜しげも無く見せつけて容赦なく他者を圧倒し、見下す。誰が見ても不遜な態度の紺に近付くのは、彼の持つ名誉やその身体そのものを目当てにした卑しい人間だけだった。そんなことを気にする暇も無く、紺はピアノに向き合うことを余儀なくされていた。自身も周囲も顧みず、ピアノだけを。それが残された道だった。母親にとって紺の価値はピアノだ。才能を愛しているのであって、決して紺を愛してはいない。父親が好きだと言ってくれたピアノを、唯一の幸福な記憶を手放すのはあまりに恐ろしかった。呪いに蝕まれるのを自覚しながら、紺は鍵盤を叩き、音を奏で、感情を身体で歌うことしか出来ない。才能と100%の努力は紺を裏切らなかった。数々のコンクールで賞を取り、稀代の天才だと持て囃され、画して彼の進む道はいよいよ一本の線として完成しようとしていた。
が、その道に影がかかる。
卒業前の、名誉あるコンクールの前日。紺は最後の調整のために1番小さな音楽室に篭っていた。気に入りの場所だ。学校の端にあり、1番静かで、不便で誰も寄り付かない。校内も人気がまばらになり、そろそろ引き上げようかと腰をあげた時、ガラ、と引き戸の開く音と複数の足音が背後に聞こえた。ピシャリと閉じられた扉と同時に紺は振り返った。そこには5人の男が立って、手に手に縄やフェイスタオルのような布状のもの、ビニール紐などを持っている。外の世界と隔絶された音楽室は、耳に痛いほどの沈黙を孕んだ。どれも、紺の記憶には残っていない顔だった。男たちはじりじりと紺を取り囲むように広がっていく。その中の、ロープを手にした男が紺の腕を掴もうと大きく1歩踏み出した。咄嗟に後ろに後退り、左足で腹をめがけて蹴りを繰り出す。ぐっと男が呻いたのとほぼ同時に、残りの4人が紺に向かって飛びかかる。向かってくる手を払い、肘で顔を押し退けてもがくが、唐突に片足を抱えあげられ、あっさりとバランスを失った身体はつるりとした音楽室の床に倒れ込んだ。すぐ様1人が紺の背中に乗り上げ、両肩を膝で押さえつける。あっという間に両足をロープで縛られ、両手はビニール紐で手首をぐるぐる巻きにされて顔の前におさえつけられた。声をあげようとした口にタオルを噛まされ、完全に紺は自由という自由を奪われてしまった。力任せに押さえ付けられた身体がギシギシと痛む。緊張と興奮で乱れた息遣いが音楽室に響く。する、と1人が紺の目の前に立つ。紺は、目の前でその男の薄汚いスニーカーのかかとが自分の手の上へと持ち上げられていくのを見た。一瞬の事だった。反射的にびくりと跳ねた身体を乗り上げた男が執拗な力で押さえつける。その息遣いに既に緊張の色は無く、ほのくらい興奮に染められていた。気色悪い。虫唾が走る。腹が立つ。大した努力もしてないようなクズどもが。じんじんと痛み、熱を持つ手を、紺はひたすら見つめていた。何度も何度も踏みつけられ、メキメキと嫌な音がなり、関節が捻じ曲がる。
「っ、....っ、....」
「おい早くしろ!」
「分かってる!」
歯茎から血が出るほどに噛み締めた口から血と唾液がタオルに染み込み、吸い込まれなかった分が顎を伝って垂れ落ちる。痛みに意識が霞む。手首から先の感覚が無い。それでも、紺は屈しない。屈することが出来ない。これは、呪いだから。上に乗り上げた男が紺の髪を鷲掴み、引っ張って無理やり無惨な姿になった手を見せつける。指は爪が割れて血だらけになり、赤黒く変色していて、おかしな方向に曲がっている指さえあった。歪んだ笑い声は最早聞こえなかった。全てが膜一枚隔てた向こう側のことのように白く霞んで見える。自分の荒い呼気が脳内に響く。肌を滑っていくのは汗なのか、血なのか、分からない。熱いのか、冷たいのかも。カツン、という音と共に視界の端を通り過ぎたのは、金属製のパイプのようなものだった。空気を切る音、ぐしゃ、と何かの潰れる不快な音、その向こうに、見える、黒い影。あぁ、口を塞がれる前に言っておけばよかった。お前たちがどんなに足掻こうと、俺にかかった呪いは解けないのだ、と。影が笑いながらこちらを見下ろしている。そのまま紺の意識は飲み込まれた。
あのあと、紺が意識を取り戻した時、外は既に暗くなっていた。足のロープも、噛まされていたタオルも、手の紐も凶器もなく、あるのはただ紺の手から流れ落ちてこびりついた血だけだ。幸いもう血は止まっているようだが、手首より先の感覚が一切無く、動かすことも出来ない。血を失ったことで重くなった身体を何とか時間をかけて起こし、フラフラと立ち上がる。既に校内は誰も居ない。用務員用の出口から何とか出て、紺は近くの病院まで黙々と向かった。
紺の指は、辛うじて治った。砕けた骨のせいで、少し歪にはなったものの、問題無く動く。しかし、母親はコンクールに出られなかった紺を罵り、犯人を探せと喚き散らし、挙句音楽の道を絶たれた紺を見捨てた。リハビリ中、時折震えて力の入らなくなる指を見詰める。鍵盤を叩くためだけに存在した指。ピアノを弾けないのなら、なくても同じだ。諦めてしまいたかった。こんな指でまだピアノが弾けるのか?弾けたとしてどうなるっていうんだ?しかし、そんな考えが過ぎる度、黒い影が指を這い、耳元で呪いを囁くのだ。紺にはピアノしかない。まだ、覚えているだろう?まだ、音を奏でることが出来る。父が好きだと言ってくれたそれが。それ以外の価値を知らない。ありようもない。全てをそれに費やしてきたのだから。
何のために?
誰のために?
そんなものはどうでもいい。
だって、俺には『ピアノしかない』のだから。