暖かな穏やかな夢の中で(仮題)――早川アキは普通の子供だ
生まれは日本、雪深い北海道。両親と弟を含めた四人家族。アキは賢くそれでいて快活な少年だった。年相応にキャッチボールをすることが好きな男の子。だけど独りじゃキャッチボールは出来ない。父親にせがんでも病弱な弟のタイヨウに構いっぱなし。母親も皆タイヨウの味方で、アキは構って貰えなかった。
――独りで何をしようか
グローブもボールも家の中。周囲にある冷たく降り積もった雪がアキの知る世界だ。寒いけれど、どうして此処に居るのか分からなかった。その身を震わせて両腕を擦り合わせて温めるが効果はない。
「うっ、寒っ……なんでオレ外に来たんだっけ?」
何をしたかったんだっけ?ふと視線を感じて顔を向ければ自分よりも身長の高い青年が居た。くすんだ金髪、同じ色の眉毛がひしゃげて茜色の瞳が困惑したように左右に動く。
「デンジ……」
無意識に呼んだ名前だった。だけど俺の友達だ。……あれ?友達だったかな?それ以上の関係だった気がする。タイヨウや両親よりもずっと深い関係。子供のアキにとって家族以上の関係は分からない。けれど親しさが込み上げてきて不思議と心が温かくなる。不意に右手に冷たく少し重い感触がした。思わず握りそれをまじまじと見る。雪を丸めた、そうこれは雪玉だった。
「あ!雪合戦だ!」
そうだ、雪合戦だ。思い出して雪玉を投げた。後からパワーもやってきてデンジとチームを作らせたけれど自分だけ一人だ。どうしようか、と考えていると仲間に入れて欲しそうな人を見つけた。
「一緒に遊ぶ?」
どうせなら三対二になればオレの方が有利じゃん。そう思って誘うけどデンジが許してくれなかった。
「いてっ!」
雪玉を投げてきて思わず手で受け止めるけれど痛いものは痛い。
「ちくしょー、やったな!?」
えい、雪玉を投げて投げられてそして投げ返すその繰り返し。デンジも負けじと投げてアキも投げ返す。気付けば大きかったデンジも小さくなっているのにアキは気付くことはなかった。雪玉の応酬の果てで、アキは初めて笑った。
「こんなに楽しいのは初めてだ…!」
父さんも母さんもタイヨウにかまってさ、オレにはかまってくれないんだ。また笑うけれど今回は乾いたような笑いが漏れた。寂しかったんだ、今更気付いてアキは雪玉を持った。
「だけどやっと…やっとさあ、なんか毎日が楽しくなってきたんだ」
よく分からないけれどその感情が込み上げてきて、その感情のまま雪玉を投げる。投げた雪玉はデンジの腹に着弾してそのままデンジは倒れた。降参?問いかけるとデンジが起き上がって雪玉を投げようとする。
「そうこないと!」
雪玉を投げるけれどいい加減に手が冷たくなってきた。少し手を止めるとデンジの雪玉が沢山飛んでくる。
「うわっ」
「うわぁ!はっ!あははははははは!」
最初に頭に二発。次に肩。三発四発、次第に増える猛攻にくすぐったそうにアキは笑った。
「凄い攻撃だな!」
じゃあこれを喰らえ、そう言って雪玉を投げようとした瞬間アキの手は止まる。え…、と小さな声を上げて呆然とアキはその手を下ろした。デンジの顔がグチャリと歪んでいた。
「何泣いてんだよ…」
顔を赤くしてボロボロと涙を流してまた一つ雪玉を投げる。頭に雪玉が当たっても、もう返す気はなくなっていた。
「オマエが泣いてるトコさ…初めてみたよ……」
その呟きと共に胸に当たった雪玉の衝撃を感じる。今度は、アキが倒れた。仰向けになってただ頭上を見上げる。
「わかった……、……もうオレの負けだ…」
急に冷めたようなそんな感覚だ。デンジが泣くまでやる理由が見つけられなかった。そもそもアキはこんなことしたくはない。
「だいたい雪合戦なんてオレ好きじゃないんだ」
手ぇ冷たくなるだけだし。いい加減手もかじかんで痛くなっていた。あれ…?起き上がって見渡せばもう誰も居なくなっていた。
「デンジ?」
呼んでもやはり誰も居ない。雪だけしかない景色にアキは取り残された。
「おにいちゃー!」
ボールとグローブ!持って来た!弟のタイヨウが自宅から飛び出してアキを呼ぶ。その姿を見てアキはようやく思い出した。
「そうだった…、オレ…キャッチボールがしたいんだった」
もう、デンジの顔も名前も思い出せないまま、アキはタイヨウの元へと走り出した。
――――――――――――――
――デンジはマキマに勝った
激闘の末、マキマを全て喰らいデンジは公安を辞めた。高校に入り今は早川デンジとして学生生活を謳歌している。とはいえ学生をしていても勉学は分からない。書ける文字はひらがなと【早川】という漢字だけ。訳も分からないまま当てずっぽうでテストに答えるから赤点まみれだがそれでも勉強はしているのだと思う。
――だって、勉強はアキがしろっていつも言ったから
勉強すれば役に立つ、生前のアキはいつもそう言っていたからこうしているだけだ。していることと言えばもっぱら金稼ぎで女生徒の椅子になっている。最近は吉田ヒロフミというストーカーの金払いの良さで金を稼いでいる。あいつはストーカー野郎だけど飯を奢ってくれるから良い奴だとは思っている。
――稼いだ金は全部貯めていた
妹分のナユタのために、きっとこれは貯めなければいけないと思う。普通の生活をして欲しいなんて、思う。それはきっとかつてあいつが思っていたことで、デンジにとって生きる糖だ。普通に生きて普通に死ぬ。ポチタとの契約を履行し続けながら。
――だけど摩耗して磨り切れていた
この感情は何と言うのだろうか、呆然としたデンジの顔は次第に虚ろになっていく感覚がする。チェンソーマンとしてバレて、モテれば何か変わるのだろうか?そんなことを考えて、デンジは生活を営んでいた。
――そんなある日のことだ
連絡もないまま、ふらりと岸辺が家へとやってきた。いつも手に携えるスキットルの中身を呷り、喉を動かしてデンジ、と酒臭い口でその名を呼ぶ。
「……元気そうだな」
ナユタは元気か?痛々しい縫い痕が残る左頬が動き喋る口がまた酒を呷る。深い水底のように暗い眼は何処も映していないように虚空を見ていた。
「……相変わらずそうすね」
ナユタは今犬の散歩中です、そう続けて岸辺の返答を待つがまだ酒を飲んでいるようだ。酒を飲むのは変わらずと言ったところか、否、酒の量は確実に増えているのだろう。一通り飲んだようでふぅー…、と息を吐き出して自分のペースで一方的に話しかける。
「なら、安心だな」
今日は、お前に預けたい奴が居るんだ。また身勝手なお願いを言い出した岸辺にデンジの口から素っ頓狂な声が出た。
「はあ!?うちは今我が儘お嬢様で手がいっぱいすよ!?」
それこそ冗談ではない、必死に岸辺を説得するがドサリと置かれたモノを見てデンジは息を呑んだ。
「……これは、今の公安では手に負えないんだ」
それ以上の言葉はいらないと言った様子であっさりと岸辺はその身を暗ました。室内に残ったのはデンジとこれと言われた存在のみだ。
「……、」
全身拘束具で拘束されたそれは、蠢いて生きていることを示している。耳をふさがれて猿轡を付けられて息だけをする。フッフッ、と猿轡から漏れる息と口から流す唾液は知性すら感じない。まるで獣のようなそれは、紛れもなくデンジの罪そのものだ。
「……アキ、」
思わず呼んだその名を呟いて頭を抱える。先程食べたモノを全て出してしまいそうになった。忘れもしない、これは銃の魔人で。かつてのデンジの恋人だった。右手の銃も変わらず残っていて、チョンマゲを解いた髪もきっとこれくらいだった。目元は大きな銃口で覆われて全容が分からないが、それでも分かる。
――まさか生きていたのか?
冷たくなっていく存在を感じ取っていたのに。でも息をして目の前にいることがただ苦しくなる。また殺さなくちゃいけないのかな、でも預けるって言ったし。混乱するデンジは気付けばまた口を開く。
「……なあ、アキ。なんであの時撃たなかったの?」
あの時、最後にデンジがアキにトドメを刺そうとしたあの瞬間。アキの攻撃が止んだのを覚えている。あの頭部に生える銃を撃てば負けていたのはデンジだったのにアキはしなかった。だけどデンジのチェンソーは確かにアキを貫いて、その感触を今でも覚えている。答えが欲しくてデンジはアキの猿轡を外す。取れた猿轡から見えるその唇の形はデンジが誰よりも知っていた。
「……デンジ、デンジ」
顔もきっと歪んでいるのにまたデンジって言ってくるコイツはきっとアキに違いなかった。このアキをどうすればいいのだろうか?
――途方に暮れて時間ばかりが過ぎていく
いつの間にか返って来たらしいナユタがアキを縛ろうとするがデンジが必死に止めて揉めると気付けば夕暮れ。開いた玄関口のドアの向こうは切り抜かれたような茜色の光が見えた。地平線へと沈む夕暮れはいつか見た黄昏。冷え始めた外気よりもずっと心が寒くなるような気がした。