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    pwは3338で統一していたと思います。

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    断念したものを、女体化で恐縮なのですがせっかくなので掲載します。PKSP金銀です 死ネタ・キャラの実子の存在 ご注意ください

    ##ほか

     すぐ戻ってくるからと、言いながら頬にふれたいいかげんで優しい唇のこと、きっと死ぬまで忘れない。
     彼は戻ってこなかった。冷ややかな永遠の存在を教えて、それだけ残して、シルバーから静かに立ち去った。言い訳はいくらでもつく、足下がぬかるんでいたのだろう、頭の打ちどころが悪かったのだろう、その人は不具だったのだから仕方なかろう、シルバーだってそのときその場にいれば同じようにした。だが、蕭条と霧雨に濡れた皮膚、不健康に血管の色を透かして青白く、今にも内側から破けそうな、またすでにいくらか硬直もはじまってさえいるその身体を前にして、彼女はすんでのところで自らの錯乱を抑えた。女の啜り泣き、警察があたふたと場を検証する足踏み、雨が街を洗う音、全てが遠かった。揺らぐことなく闊達で、晩年は老成したおだやかな目で妻をよく守った、この男。こんなところで、あえなく、失うことになろうとは。へたり込んだ姿勢から上半身だけを彼に傾け、血色の引いた唇に最後のキスを返したとき、ふと、彼の固く結ばれた右手に何かを予感した。開くと、硬い外皮に包まれた植物の小さな種がいくつか、傷ひとつなく守られていた。
     冬の漣が引き、トキワの森にも春がやってきた。
     庭はまさに盛りを迎え、どこもかしこも甘いにおいで満ち足りている。薄紫や白の芝桜、チューリップにすみれ、ヒヤシンスは花茎をおもたそうに擡げ、パンジーはベルベットのような花弁を愛らしく広げている。グラニーズボンネット……オダマギの優雅で華やかな装い。屋根の上までを桃色に彩るライラック、神経質な瓔珞百合のまだ固い蕾。ハナダイコン、勿忘草、ショウキウツギ。クラブアップルの灌木は小さな八重咲きの花をいっぱいにつけている。
     薄桃色の石楠花の群れからさっと顔をあげ、シルバーは彼女の庭の東から西までをかえりみた。庭は実に美しく、華やかで、いつ彼を迎えても何ら不足はないように思われた。これから春も深まれば、木柵を踏み越えてオドシシが石楠花の終わった花を食べにくる。夏になり、ナデシコやヘリオトロープ、ペニチュア、クリンソウの間からベルガモットの赤い花がポツポツと咲きはじめ、その蜜を吸いにコラッタたちがマンネングサの影からやってくる。秋はクラブアップルが鈴なりに実をつけ、そうなれば森中のポケモンたちの格好の食糧だ。尽きることのない実は冬まで持ち越し、その間にシルバーは温室に行って椿やオレンジ、月桂樹を寡黙に育てるだろう。何ひとつ足りないものはないというのに、肝要の帰るものがいない。彼女はワンピースの裾が土に汚れるのもかまわず、石楠花の根のあたりにしゃがみ込み、そこに忘れられたみたいに咲く赤いアネモネをを眺めた。貞淑な花びらの輪郭、愛おしい紫のしべ、指先だけで軽く突くと、花の部分を錘に左右に振れる。彼女の繊細なまつ毛が、感慨を帯びて緩やかに上下する。
     母家の方で赤ん坊の泣き声がする。シルバーははっとなって立ち上がり、早足で庭を辞した。
     温室の脇にひっそりと扉を構える勝手口の錠を焦ったくはずし、吹き抜けの廊下から寝室に入る。九つ窓のほど近く、レースのカバーをかけたゆりかごのそばでは、赤ん坊のためのおもちゃを懸命に揺らしながら、マニューラ、どうやら随分手こずっているらしい。シルバーもベッドに近づき、ふかふかの毛布の中に寝かされた状態で、顔を真っ赤にし、手足をばたつかせて泣く子どもを見た。こういうとき、どうするのが正解なんだっけ……先に母親になった姉の指南をおぼろげになぞりながら、彼女はおそるおそるという表現がてきとうなくらい、手慣れない仕草で子どもを抱き上げた。細く薄い黒髪、まるまるとして母親を見上げる金色の瞳、柔らかい素材の産衣に包まれたその子どもはたしかにシルバーが腹を痛めて産んだ赤ん坊だが、あまりにも父親の血が濃いので、生まれ変わりかもしれない、という心地が未だ抜けずにいた。抱き方は完璧にこなしたつもりなのに、何が気に食わないのか、子どもは再び声を上げて泣きはじめた。左右に揺すっても、手を握ってみても、泣くばかりで手に負えない。シルバーのワンピースの胸元をひっしと掴み、今にも引きちぎりそうな勢いだ。
     マニューラがいないと思ったら、書斎の扉を開けて出てきて、その後ろにはシルバーの父親が、草臥れた色のセーターを着て立っていた。彼は全て心得たとばかりにシルバーから子どもを受け取り、胸の上に乗せる形で縦抱きにし、その姿勢のまま静かに小さな背中を叩いた。大きな手のひら。途端に、子供はひたりと泣くのをやめ、祖父の気難しそうな顔を食い入るように見はじめた。もみじの葉を思わせる小さな手が、ひろい額や鷲鼻にぺたぺたと触った。
    「乳をやりなさい」
     彼は落ち着き払った口ぶりで、シルバーに子どもの空腹を教えた。
     子どもが戻ってくる。ボタンを外し、かすかな胸の先を含ませると、子どもは慌てて乳を吸いはじめた。マニューラが緩く鳴きながら脚に抱きついてくる。その人が親として先達だということは、シルバーがこうして生きながらえている以上自明のことだというのに、なぜだか不思議な感慨を持ってして彼女は父親を見た。父親は目を伏せたまま、夢中で乳房に吸い付く子どもの小さな頭を撫で、おまえは赤ん坊の頃からあまり泣かない子だったと、低く穏やかな声で言った。
    「だから俺はいつもおまえの代わりに神経を尖らせていた。おかげで、今となっては、赤ん坊が何を欲しがっているのか、顔色だけですぐにわかる」
    「いつも同じだよ」
    「同じなものか。空腹のときと、不愉快なとき、眠いとき、表情の使い方はまちまちだ。おまえもすぐにわかるようになる」
     乳を吸い終わり、子どもは自分で上手にげっぷした。

     おもにゴールドの意向で、結婚式は盛大に執り行われた。エンジュの、ホウオウを神と祀る神社の広大な敷地で、シルバーは仮面を被った孤独な子どもから世界で最も美しい花嫁になった。職人が細部にまでこだわって仕立てたこの上なく上等な打ち掛け、繊細な金細工をふんだんにあしらった髪どめ、小さな白い顔は三人がかりで化粧を施され、天上のものとも知れぬ麗しさだった。夫婦が通るところはどこもかしこも花と祝福で満ちて、人々の顔も喜色ばみ実に晴れやかだった。誰もが二人の未来に欠けのないことを予感した。
     だが、そのために、葬式は質素なものにせざるを得なかった。グリーンの厚意で借りられたトキワの小さな斎場で、参列者が棺に花を供えるだけの葬式をした。結婚式から一年も経っていなかった。図鑑所有者をはじめとする見知った顔が、仲間の不幸を嘆き、また美しい新妻を襲ったあまりに残酷な運命を憐れんだ。クリスはシルバーの隣でずっと嗚咽し、シルバーは何も言えず、彼女の肩を抱いたまま人の波の中に立ち尽くしていた。まだ若い彼の母親の抱く遺影の、眩しいほどの笑顔、ああ、あまりにも溌剌として、あまりにも情熱と愛に溢れすぎていた、無邪気な少年の顔を見せたかと思えば、クリスの前では行儀とてぐせの悪い中年男のように振る舞って遊び、シルバーのところへ帰ってくると、普段の彼を知る身からすると違和感を覚えるほど、誠実にこまごまと妻の身を案じてみせるのだった。やれ食べる量が少ないやら睡眠時間が短いやらと、お節介なほど気を回してきて、そっけないふりでいると今度は彼のポケモンたちからブーイングを受ける。エイパムの尾に少量のウイスキーを含まされ、バクフーンにベッドへ運ばれて、布団から恨めしく見上げる彼の目のやさしいことと言ったら、他に比類なきほどだった。その男が、シルバーの知らぬところで、シルバーでない、誰とも知れぬ女を庇って死んだのだ。クリスを伴い、花を抱いてシルバーは棺に近づいた。死装束の胸ぐらを掴んで振り回してやろうかと思った。しかし、今にも息を吹き返しそうなほど生に肉薄した死に顔を眺めていたらそんな気も失せてしまって……喪失だけが彼女の中で明確だった、ゴールドは彼女の中であまりに大きくなりすぎた、それが無理やり引き抜かれて、残った心の空白を通る隙間風だけだった……彼女は息を詰めたまま冬薔薇のブーケをゴールドの胸元に置いた。クリスがはねた前髪を退けて、その額に親愛のキスを贈った。
     花向けが済んだあとは、めいめいに思い出の品や彼が好きなものを持ち寄って、それも棺の中に入れた。トレードマークになっていた赤いパーカー、スニーカー、ゴーグルやキャップ帽、ビリヤードのためのキュー、スケートボード、アイドル歌手のCD、サイン、いかり饅頭やフエンせんべいなど地元の名産品、賭け事のためのカードセット、オレンジリキュール、にじいろのはねのレプリカ、ピチューを模した蒔絵の万年筆、それからもちろんポケモン図鑑も。いよいよ棺を外に運び出すとなったとき、真っ黒なコートの男が暗がりから影のように現れて、カロスの貴腐ワインをボトルのままゴールドに寄越した。それを最後に棺は閉じられたが、彼を知るものたちはこの異邦からの来訪者を異様なものと扱い、その後も遠巻きに眺めるばかりだった。シルバーはそうは思わなかった。ゴールドは彼の義子なのだから。
     葬式が終わり、仲間内でしめやかに飲んだあと、シルバーは夜道でふたたび影に出会った。切れかけの白い電灯が並ぶコンクリートの道、その中途に、のっぽの影は立っていた。今度こそ彼女はそこに飛びつき、羊毛で作られた黒く分厚いコートの胸に頬を擦り寄せた。涙の代わりになにか取り止めもないことを話した。まだ誰にも打ち明けていないことだが、彼女はゴールドの子を妊娠していた。ひとりで、誰の助けもなく、子どもという未知のものを育てる自信が彼女にはなかった。影はその深みの中にシルバーの言葉をみな受け止め、太い腕で弱音ごと彼女を抱きしめた。シルバーが生涯で経験したどの抱擁よりも、力強く、胸が締め付けられるようなものだった。彼の娘もまた、永遠に失われた愛だけが照らす道を歩むさだめだったのだ。
    「お父さん——」
    「つらいか」
    「つらくない。ただ寒いだけだ」
     娘の答えを聞いて、彼がどう思ったか知れない。だが確実に老いが彼の純粋な悪の資質を鈍らせた。彼は震える娘を丁寧な手つきで離し、薄い肩にふれ、腕までを撫で下ろすころに、決意をはっきりとその胸に固めていた。
    「シルバー、一緒に暮らそう」
     重々しく押しこもった声が耳元でそう囁いたかと思えば、ふと意識の表層に光が差して、浅い眠りから現実へとシルバーを押し流した。夢うつつにシルバーが瞼を開けたとき、白いリネンのカーテンは夕暮れの淡いオレンジ色に軽やかにひるがえり、子どもはゆりかごの中で盛んに泣いていた。はっと身体を起こし、ベッドでブランケットをかぶって我が身は、あれから少し眠っていたのだと知った。腹の辺りでマニューラが寝こけているのを起こさないように、音をたてずにブランケットから抜け出す。
     あれからシルバーは一人であの子どもを産んだ。まだ雪もちらつく初春、二日に渡る難産で、町から呼んだ産婆はシルバーの身体をあれこれ検分して、母親が大事なら子どもはお諦めなさいと言った。それでもシルバーは頑として首を縦に振らなかった。まだ羊水にまみれたままの子どもをはじめて抱いたときはもうこれで死んでもいいと思った。しかし、一ヶ月を子どもとともに過ごし、どうしたことだろう、彼女の胸には不安の残り滓がわずかに澱むばかりである。
     子どもは前かけを唾液や鼻水でべとべとに汚してわめいた。おむつをかえ、乳を含ませて、しばらくはそれで黙っていたが、腹も膨れるとふたたび気ままに泣き出した。シルバーの胸まで伸びた赤毛はぐいぐい引っ張られ、繊細な乳房の皮膚も歯で強く齧られて血が滲んだ。ついに髪を一束むしり取られたとき彼女はこの生き物との合理的なやり取りをあきらめた。産衣を厚手のものに着替えさせ、なおも泣く子どもを抱きかかえて寝室を出る。勝手口で野歩き用のブーツを履き、片手間に錠をおろせば、森全体を吹く湿った風がシルバーの前髪を吹き上げた。花の中にはもう閉じて頭を垂れたものも見られ、家に重たく覆いかぶさる無数の葉の向こうには、薄紫色の夕暮の空に細い月が浮かんでいる。シルバーはすこしの逡巡ののち、一度家に立ち戻り、黒のチェスターコートを羽織ってから今度こそ庭へ出た。花は赤ん坊の泣き声に不平も言わず、静かに従順に女主人を迎えた。夜の森は殺風景にすぎるから、少し派手なくらいの色がいい、でも癇癪ついでにこの子がむしってしまわない大きさの……あざやかなオレンジ色のエピデンドラムを一房切り落とす。芍薬の植え込みをかき分け、植え替えをしようと思ってそのままにしてあったデイジーの鉢植え、もう長らく使われていない様子の古井戸をよぎって、母子と花は森の薄暗がりと同質のものになった。
     トキワの森はカントー・ジョウト一帯ではよく見られるブナを中心とした原生林で、ほかにもウワジロモミ、ミズナラ、ウリハダカエデ、ヒッコリーなど、多種の樹木が低く枝を広げている。ブナは保水力が高く、また森の深い部分には湖があることもあって、この辺りはやや湿地帯、そうでなくとも腐葉土でいつも湿っている。その決して良くない足場、ブナの根の絡んだ土壌を、子どもを抱えたまま、サンダル一つで進んだ。子どもはいつの間に泣くのをやめ、大人しくシルバーの肩に顎を載せて、揺れるエピデンドラムの花房を掴もうと手をさかんに動かしている。
     細い小川をまたいですぐのところに、春楡の幼木に隠されるようにしてひっそりと、茂みの奥に通じる抜け穴が口を開けている。身をかがめて潜ると、木を組んだだけの簡素な作りの墓標と、それを中心に草木のひらけた場所に出る。つい二週間前にもシルバーが花を活けた花瓶には、みずみずしく露をいただいて、大輪の白薔薇が一輪咲いていた。ここはゴールドの墓だ……新妻が彼を弔うためだけに、遺灰を少しばかり持ち帰って作った慰霊の処。
    「おまえのお父さんだ」
     しずまりかえった、ポケモンたちの足音ひとつしない天然の霊廟にあって、父親の墓を眺める子どもの顔すら静謐だった。まるまるとした赤ん坊の横顔は至ってあどけなく、その鼻梁の小さな突っかかりや、膨れたくちびるに、シルバーはなにか夫に対しとてもひどいことをしている気になってこうべをたれた。ゴールド、夭折、あまりにもふにあいな二つの単語を、自然につなげることができずいまはひどく苦しい。
     エピデンドラムを薔薇の隣に挿す。それだけで墓の雰囲気が少し明るくなったような気がして、引き攣る唇でシルバーは微笑んた。

     まだ陽も上らない、薄暗い暁のころ、シルバーの肉体は茫漠とした眠りの海から静かに引き上げられる、そのようにできている。とはいえすぐに身を起こすと血が引いてよいことはひとつもないので、しばらくはとろんとした眠り気にひたされたまま、手足に滞留するぬくみをもてあそんだり、寝返りを打ったりする。昨日洗濯したばかりの枕は頬擦りすると花の香りがする。カーテンごしに朝の冷えて澄んだ空気がしんしんと掌に降りてくる。ふと思いたち、ベッドに寄せて置いたゆりかごを覗くと、中はもぬけの殻だった。よくあることだ。莢から飛び出た豆の気持ちで毛布から這い出し、裸の足先を床板に置けば、古い木の冷たいことが皮膚から背筋のほうへ伝った。
     寝間着がわりのシャツの上にショールを羽織って廊下に出る。階下のダイニングから温められたミルクのにおいがして、彼女は寝ぼけ眼をしぱしぱと瞬かせた。音を立てないよう、つとめて静かな足運びでダイニングまで歩く。オレンジ色の光が扉の隙間から漏れている。そこでは、いつものあの草臥れたふうのセーターを着た父親が、紐で子どもを背にくくった格好でキッチンに向かっていた。キッチンは古風な銅のコンロに白樺でできた棚や流し台をそなえ、ラックには慎ましやかな花の装飾を施されたマグやポットが並べられている、ドールハウスの品物然としたもので、大熊を思わせる背格好の父親がそこで背を丸めている様子はあまりふにあいだった。彼が小鍋をかき混ぜるたびに子どもがなにか赤ちゃんことばを喋る。
    「おはよう、お父さん」
     振り返って彼は、おはよう、と優しく落ち着いた声でそう返した。夜泣きする子どもをずっと見ていたのだ、少し疲労の滲む様子だった。彼は、シルバーと暮らすようになってからロケット団とはすっかり関わらなくなり、それに替えて日中は何か書き物をし、夜になるとシルバーの産後の身をいたわってよく子どもの面倒を見てくれる。歳も歳なのだし、若者のように働き回るのはよしてほしいというのは娘の意向であるのだが、そういうときまって、夜のほうが身体がなじむから、と言い訳して躱すのだった。
     紐を解いて子どもの身を預かる。夜の間に思うままに泣き、思うままに食べたのだろう、うとうとと首を揺らしながら大人しく抱かれている。人差し指を握ってくる小さな掌があたたかい。「おまえも、おはよう」ふくよかな頬のあたりに鼻を擦り付けると、初夏のころの花の香りがする。
     父親は温めたミルクにオートミールを入れてふやかし、蜂蜜、少量の塩を加えた。そのうちに別のコンロで銅のやかんが湯気を吹きはじめ、彼はこんどこちらを火からおろすと、陶器のティーポットに慎重に注いだ。茶葉から色が染み出してばら色にすきとおる。シルバーはそのあいだに手早く子どもを背に結び、低い冷蔵庫を身をかがめて覗き込んだ。いつか離乳食にもなるだろうと思ってレシピを覚えたカッテージチーズが少量、たまごが三つ、レタスサラダ、ハム、バターひとかけ、眠れない夜のためのワイン、……このぶんだと今日は買い物に行くのが良さそうだ。ハムにバター、たまご、それから野菜室に忘れ去られ乾燥しきったニンジンの破片をとり出す。ガラスのボウルに卵を割り入れ、細かく切った具材を混ぜ、泡が落ち着くまでのあいだにフライパンを温める。バターを広げて待ち、香ばしいくるみ色になったタイミングで卵液を注げば、じゅっという音とともにはじから黄色く固まってくる。完全に固まってしまう前にフライパンを揺すり、まだ液体の部分を箸でかき混ぜる。たまごの匂いを嗅ぎ分けたのか、子どもが後ろで何か言った。
     日が昇ってきたのだろうか、天窓から白い光が降ってきて子どもの丸まるとした顔を明るく照らした。シルバーはオムレツを二つ焼き上げ、ひとつは半熟のうちに、もうひとつはしっかり両面焼いたものを皿に盛った。調味料入れから乾燥パセリを取り出して、黄色くおだやかな丘の上にふりかける。そのあいだ父親も自分が見ていた鍋の火をとめ、底の深いボウル皿を二つ、オートミールを均等に分けた。
    「上達したな」
     肩越しにシルバーの手元を覗いて、感心したように父親が言う。
    「そうかな」
    「最初のころは、おまえ、コンロの付け方も知らなかっただろう」
    「そんなことないと思うけど」
     ダイニングテーブルはマホガニーでできた小さな円卓で、チェック柄のクロスがかかった上に、昨日シルバーが庭で摘んだデイジーの花が二輪慎ましく咲いている。その上に、オートミール、オムレツ、レタスサラダに残り物のミニトマト、カッテージチーズを並べ、キッチンでマグに移した紅茶も二杯、それぞれの手前に並べておく。何か戸棚をごそごそ探っているかと思ったら、父親が金の箔押しが施された紙箱を持ってきた。イッシュの名のあるブランドのチョコレートなんだという。
     父娘の食卓はいつだって静かだ。父親は寡黙に唇を結んだまま紅茶に口をつけ、シルバーもぺらぺらと無駄話ばかりするたちではない、黙々とオートミールを咀嚼する。ベビーチェアに座らされた子どもだけがむにゃむにゃと何か言う。
     食事のあと、父親は書斎にこもり、シルバーは子どもに乳をやった。おむつをかえると彼はすぐにころりと寝てしまうので、そのあいだに掃除や洗濯を済ませてしまうことにする。一度寝室に戻ってゆりかごに子どもを寝かせ、レースクロスの覆いをかけてやる。自分のベッドから毛布とマットレスカバーを引き摺り出し、階下の脱衣所に持っていって洗濯機に放り込む。それから、家中の窓を開け、陽光と風を招き入れる。空気の澱んでいた家のなかが急に生き返ったような気がする。埃の積もった床を小型の掃除機で隅々まで磨いたあとは、庭に出てポケモンたちを解放し、朝食用に作られたフーズを与える。夜の間どこかに出掛けていたらしいマニューラが戻ってきて、また森から人に慣れた野生のポケモンたちもいくらかおこぼれ目当てにやってきて、家はにわかに騒がしくなる。
    「おはよう」オーダイルのしめった鱗を撫でてやりながら、ドンカラスの立派な胸毛を繕ってやりながら、シルバーはみなの調子をたしかめる。さみしがりやのリングマはそれとなく主人の傍らに寄り添い、水タイプ同士のギャラドスとキングドラは水を掛け合って遊ぶ。マニューラは器用にシルバーの肩に昇ってきて、ざらざらした舌で頬を舐めてきた。「こら、くすぐったいったら……」
     彼らの助けも借りながら庭の手入れもしてしまうことにする。花々のあいだにしつこく生える雑草を抜き、終わった花や、ブナの木々から落ちてきた落ち葉は熊手でひとまとめにしてしまう、これは腐らせてのちのち肥料として使えるのだ。ここのところの温暖な気候で伸びに伸びたつるばらの剪定、壊れかけたフェンスの修理、芝生の刈り込み。働き回っていれば余計なことを考えずに済む。何も望まずにいられる。温室にも手を入れようとしたところで、二階からけたたましい鳴き声が聞こえてきた。顔を上げて陽の高さを見、もう正午と言ってよい時間になったのだと気づく。踵を返すシルバーにマニューラがついてくる。彼女は簡単に土を落として家にあがり、足早に階段を上って寝室に入った。ゆりかごの中では小さな猛獣が手足をばたつかせて泣いているところだった。
     シルバーは子どもを抱き上げてあやす。いつもであれば、乳を与えておむつを変え、身体をゆらせばじきに泣き止むのだが、今回はそうもいかないようだった。仕方なしに、腹の前に子どもを抱いた状態で、昼食のための買い物に行くことにした。有事のさいに迎撃できるよう、マニュラーとオーダイルを連れて行き、ほか四匹に留守を任せた。
     庭を出てしばらく歩くと、トキワの町に向けて整備された山道に出る。ブナの木々、名も知れぬ低木の間に野生のカンパニュラが咲き、ヘビイチゴが真っ赤な実をつけている。四月、森は一種の盛りを迎え、若葉の香りでいっぱいになる。子どもは相変わらず喚いていたが、羽化したばかりでまだ羽根の柔らかそうなバタフリーが寄って来たのを見てぴたりと泣くのをやめた。かと思えば、草むらからナゾノクサの一隊が飛び出してきてヘビイチゴに群がったり、木の葉の中からコクーンがぶら下がってきたりした。子どもの目が丸々となる。小さな手が目の前で動くものを捕まえようと伸ばされる。なかなかの長文で喋るのを聞いて、シルバーは微笑んだ。いまはまだ不明瞭な母音ばかりだが、もう少しすればなにか聞き取れるものもあるかもしれない。
    「あうにゃ」
    「そうだな」
    「えーあうあばー」
    「そのとおりだ」
     適当に相槌を打っていると、子どもはシルバーに柔らかい笑顔を見せ、嬉しそうに手のひらを母親の肩に打ち付けた。首筋に鼻を埋めてふんふん鳴らしたかと思うと、そのまますうっと寝入ってしまう。シルバーは子どもを抱え直し、落とさないようにしながらゆっくりと坂を下った。やがて坂道は緩やかなものになり、平坦なコンクリートの道になったかと思えば、いつの間にかトキワシティの大通りに出ていた。休日、それも昼時ということで、往来は大いに賑わっている。
     バケットを買うために立ち寄ったパン屋でグリーンに会った。ラフな黒いポロシャツ姿で、今年二歳になる、利発そうな顔の娘を片腕に抱えて、彼は美しい妻のために菓子パンを物色しているところだった。連れ立って店の中を歩き回りながら二人は淡々と近況を報告し合う。「最近どうだ」「特に変わりはない……です。姉さんは元気ですか」「ああ、それなりだ」娘が物珍しそうに子どもに触れようとするのをやさしく咎めながら、グリーンは切長のまなじりをゆるめた。
    「このひと、誰?」娘は、母親によく似た青くつぶらな目をいっぱいに見開いて、シルバーを指差す。
    「シルバーだ、お母さんの妹。おまえも会ったことがあるだろう」
    「ええ、ないよお」
     言いながら、考え込む表情が母親に似ている。シルバーはくすぐったい気持ちになって、はじめまして、とあいさつをした。娘の目がきらきらと輝く。ヤナギに連れ去られたころのシルバーがちょうど同じ年頃だが、その彼女が、父親の元で幸福そうにするのが、シルバーには嬉しかった。グリーンは昼食を食べて行くようにと誘ってくれたものの、子どもにまた乳をやらなければならないということを考えて、丁重に辞してシルバーは店を出た。
     パン屋で購入したバケットにバターロール、新鮮な野菜の類、たとえばとうもろこしやトマト、ほうれん草、じゃがいもなどの根菜、牛肉、ベーコン、コンソメ、甜菜糖を1キロほど、ヨーグルト、散々迷ったが結局イチゴを二パックほど買い上げて帰宅した。昼食のための買い物のはずが、存外に時間を食ってしまったようで、時刻は三時を回ったところだった。庭に離していたポケモンたちをボールに収め、子どもの身の回りの世話、それからポストの中に詰め込まれていたダイレクトメールや税金のはがきを処理していたらもう四時になっていた。さんざん歩き回ってつかれた脚を奮い立たせてキッチンに向かう。せっかくじゃがいもがあるのでコテージパイを作ることにする。
     ボウルの中でじゃがいもを潰し、バターと塩、それから牛乳を加えて混ぜる。味を染み込ませているあいだに玉ねぎ、にんじんをみじん切りにして挽き肉と炒め、肉汁が出てきたらコンソメを溶かして火からあげる。釉薬で花柄を施したパイ皿に肉と野菜を敷き詰めて、これをマッシュポテトで満遍なく覆い、最後にチーズをかけて温めておいたオーブンに入れる。十五分ほど温めればチーズが溶けておいしいパイができるだろう。手持ち無沙汰に待つこと五分、ふと思い立ち、シルバーは庭に出て大量のブルーベリーを収穫した。まだ青いがなんとでもなる。先に買ったばかりのいちごの、ヘタを取ったのと一緒に小鍋に放り込み、中火で火を加え丁寧に灰汁をとる。レモン汁に甜菜糖を追加し、煮詰めれば、ヨーグルトにもバケットにもあうベリージャムの完成だ。保存のために瓶に詰めておいたところで、オーブンの中でもコテージパイが出来上がった。薄く焼き色がついてよい塩梅だ。
     レタスをちぎっただけのサラダにカットトマトを飾り付けていると、書斎から出てきたらしい父親が顔を覗かせた。「手伝いが必要か」
    「だいじょうぶ。もうできるから座っていていいよ」
    「コーヒーは俺が挿れよう」
     彼は戸棚からミルを取り出し、瓶に詰まった豆をいくらか入れて粗く挽いた。二人分のマグにペーパードリッパーをかけて、やかんの中の熱湯を注ぐ。香ばしいコーヒーの香りとともにキッチンに平和な空気が充ちる。シルバーはココットの中に盛ったジャムを少しばかりスプーンで掬って、父親の口許に差しだした。彼は一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐに笑って唇を開いた。
    「ん、うまい。だがブルーベリーがまだ硬い。熟してないのを入れたな」
    「ひとつき、ふたつきくらい、そう変わるものじゃないよ」
    「大雑把な」父親は苦笑したが、その唇には満足そうな気風が蓄えられていた。
     食事を終えたあと、ポケモンたちにフーズを与えているあいだに父親が風呂をためてくれた。浴室は青のタイルでスタイルを統一した、手狭だが清潔感のあるところで、右端に寄せるようにして猫足のバスタブが置いてある。弱めのシャワーで子どもの全身を洗ってやったあと、自分の身体もざっと洗い、彼を抱いたまま温い湯に浸かる。子どもはもう満腹のはずなのにやたらにシルバーの乳房を吸った。溢れた乳が浴槽に滴り落ちる。そのままうとうととしだしたので、早々に湯から上がり、濡れた身体のまま産衣を着せてゆりかごに寝かせた。
     子どもが眠ってからはシルバーひとりの時間だ。乾燥も済んだ洗濯機から毛布を取り出してベッドに敷く。ランプをつけただけの作業机で、誰に見せるとも知れない日記を書く。そして、薄暗くなった寝室でベッドの上に腰掛け、マニューラにブラッシングをしてやりながらこまごまと物思いに耽るのだった。理解ある父親、あたたかい家庭、やさしい日々。なに一つ不自由はない、不満などあるはずがない。それでもシルバーは、ふとした瞬間に、まるでうたた寝の間にみる悪夢のように、ゴールドの笑顔を思い出す。子どもと遊べば、彼は十分すぎるほどによい相手になるだろう。庭に溢れる花を見れば、心底おかしいといったふうに笑うだろう。一緒に食事をとり、不平を言いながら仕事をし、やがて夜が来て、シルバーがねだれば抱いてくれるだろう。そうした空想がかけなく空想であることを、彼女は思った。時が戻ればいいのに。すぐ戻るという背中に抱きついて、そう、——ほんとうに、苦しいほどおまえだけだと——言えたらいいのに。なぜ伝えておかなかったのだろう。不運な幼少時代に終わりがあったように、幸福な時間もまた有限のものだと、少女のシルバーは知らなかった。
     今度こそこぼれると思った涙は幻想だった、そのかわりに、嗚咽のなりそこないが、シルバーの繊細な喉にやってきた。マニューラがかなしいいたわりを帯びた目で見上げてくる。
    「だいじょうぶ……大丈夫だよ」
    「にゅ」
    「大丈夫」
     マニューラの赤い胸毛に鼻先を埋め、深く呼吸しようとつとめる、そうすれば理性の部分だけでも大丈夫でいられるから。彼は利口にもじっとして抱擁を受け入れていたが、ふと、シャツの裾を軽くひいて、外着から着替えるようにと促した。緩慢な手つきでボタンを外す。時刻は深夜帯にさしかかり、まだ春の中頃なのだ、不安定な気流が雨雲を呼び、やがて雨が降りはじめた。雷鳴が遠く轟く。やわらかく葉や花びらを打つ音がシルバーの意識をかき混ぜる。シャツを脱ぎ捨てて、下着のままシルバーは毛布に潜り込んだ。雨は嫌いだ。ゴールドの濡れた死に顔を思い出すから……いっそ投げ出した指の先を誰かが掴む。顔を見ないうちに眠ってしまったけれど。

     五月になった。冬眠から目覚め損ねたリングマ親子も、そろそろ空腹に耐えかねて外へ出てくるころだ。実際、こうして森に出ると、シルバーの敏感な感覚器官は冬の間より多くの気配を拾う。卵から生まれたばかりのキャタピーの鳴く声、群れを逸れたピチューが親を探して草を踏み分ける音、スピアーの羽音……ときおり虫とり少年がせかせかと歩き回る足音もする。風はなく、葉擦れも少ない中、森のゆったりとした営みに耳を傾けるのは楽しい。湖のふち、水の波が地面を濡らさない辺りの草地の上で、シルバーは足を組んで座っていた。彼女の傍には毛布をいっぱいに詰めたひと抱えもあるバスケット、落ちてくる葉を追いかけて遊ぶマニューラ、それから金髪をポニーテールにした小柄な少女。イエロー。座高ほどの高さのあるスケッチブックを器用に抱え、湖の対岸でくつろぐポッポの群れに目をやっては、色鉛筆で柔らかそうなクリーム色の体毛を描き込む。その手元に、木々の合間を抜けて降りてきた白昼の光が散るのを、シルバーは何をするわけでもなく、ただ見ていた。
     置いてあったバスケットからウヤア、と低い猫の鳴き声のような音が上がった。ポッポたちが飾り羽を立てて警戒の姿勢を見せたかと思うと、一斉に飛び立ち、やがて湖には誰もいなくなった。イエローは色鉛筆を握ったまま、夢から覚めたみたいにひとつ大きなため息をつくと、そうだ、もうお昼ですね、気の良さそうな笑顔でスケッチブックを閉じた。シルバーのかたわらのバスケットに寄ってきて、レースクロスの覆いを跳ね上げる。シルバーも身を乗り出して中を覗き込むと、ぱっちり開いた金色の瞳と目があった。毛布の中で身体をもぞつかせている。家にいるうちは寝返りを使って身体を起こせるようになったが、バスケットの中では狭くてそれができないのだろう。
    「ごはんにしましょうか」
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    💖😭🙏✨
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    Replies from the creator

    うーん

    DOODLE断念したものを、女体化で恐縮なのですがせっかくなので掲載します。PKSP金銀です 死ネタ・キャラの実子の存在 ご注意ください
     すぐ戻ってくるからと、言いながら頬にふれたいいかげんで優しい唇のこと、きっと死ぬまで忘れない。
     彼は戻ってこなかった。冷ややかな永遠の存在を教えて、それだけ残して、シルバーから静かに立ち去った。言い訳はいくらでもつく、足下がぬかるんでいたのだろう、頭の打ちどころが悪かったのだろう、その人は不具だったのだから仕方なかろう、シルバーだってそのときその場にいれば同じようにした。だが、蕭条と霧雨に濡れた皮膚、不健康に血管の色を透かして青白く、今にも内側から破けそうな、またすでにいくらか硬直もはじまってさえいるその身体を前にして、彼女はすんでのところで自らの錯乱を抑えた。女の啜り泣き、警察があたふたと場を検証する足踏み、雨が街を洗う音、全てが遠かった。揺らぐことなく闊達で、晩年は老成したおだやかな目で妻をよく守った、この男。こんなところで、あえなく、失うことになろうとは。へたり込んだ姿勢から上半身だけを彼に傾け、血色の引いた唇に最後のキスを返したとき、ふと、彼の固く結ばれた右手に何かを予感した。開くと、硬い外皮に包まれた植物の小さな種がいくつか、傷ひとつなく守られていた。
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