『 』になった弟ーーーーー弟が行方不明になった。
突然、なんの前触れも無く忽然と姿を消した。
弟が行方不明になったと気づいたのはいつも通りの仕事の日、弟も出勤日なはずなのに交番に出勤して来なかった。
遅刻かと思ったが弟は警察官になってから体調不良も起こさず、遅刻もしたことが無い。だからこそ俺は心配になって弟に何件もメッセージを送るも既読は一切付かなかった。それから休憩時間になって何回も電話をかけるも一切繋がらなかった。
仕事を終えた俺は弟の住むマンションに急ぎ足で向かった。合鍵で鍵を開けて中に入り、一人暮らしの狭い室内を探し回った。
しかし弟の姿は何処にも見当たらない。家具や荷物や洋服、シンクに溜め込んだ食器等も全てそのままだというのに弟だけがそこにいない。
まるで世界から弟の存在が消されたような感覚に陥った。弟を失った喪失感と絶望感に同時に襲われた俺は全身の力が抜けて膝から崩れ落ち、しばらくその場から動けなかった。
その後、俺は直ぐに警察署に行方不明者届を提出した。
悩み事がある時はすぐに俺を頼って相談してくれた弟。俺の隣で愛らしくヘラヘラ笑いかけてくれた弟。俺の発言する言葉全てを信じてやまない従順で可愛い弟。
そんなかけがえのない大切な弟を俺から奪った奴を俺は絶対に許しはしない。そう心に誓いながら、弟が早急に見つかるよう居もしない神に祈る毎日だった。
ーーーーー弟が失踪してから一週間が経った。
警察署の警官仲間からの話によると弟を懸命に捜索してくれてるようだが、まだ手がかりは何も掴めていないそうだ。
つまり弟は通帳やカードを使った形跡もない、街中の監視カメラにも弟らしき人物は見つからないということだ。
それはつまり自ら失踪したというより、何らかの事件に巻き込まれ誘拐された可能性が高いと警官仲間は言う。
確かに弟は正義感が強いあまり危険を省みず、危ない連中に首を突っ込んでしまうタイプではあった。だから何らかの事件に巻き込まれた可能性が無いとは否定出来なかった。
俺は警察署を出て夕暮れの空を見上げる。
途方もない絶望感に苛まれ、俺の心は粉々に砕け散ってしまいそうになりながらも、まだ弟は無事に生きてるという希望を捨てきれなかった。
今日も弟の行方についての成果が何も無く、大きな溜息を吐いてから重い足取りで家に帰ろうとした。その時だった。
スマホのバイブ音が鳴り、興味の無い号外ニュースか何かの通知かと思いながら俺は投げやりにスマホを取り出しておもむろに画面を見る。
『幸志郎:兄ちゃん』
『幸志郎:兄ちゃんは俺がどんな姿になっても嫌わないでいてくれる?』
弟からのメッセージの通知に俺は大きく目を見開き、すぐに弟のスマホへ電話をかけながら、突発的に走り出していた。
コール音を繰り返し耳にしても中々電話に出てくれない弟にやきもきしながら粘り強く待つと、ようやく弟が電話に出てくれた。
「おいっ弟ッ!今何処だ!?」
『…兄ちゃん、あのね俺…っ』
弟の声は震えていた。俺は堪らず胸が締め付けられるも冷静になろうと大きく息を吐き、それから弟に告げた。
「今から兄ちゃんがお前の元へ行くからその場から絶対動くなよ、いいなっ?」
『お兄ちゃん聞いて…!』
弟の切羽詰まったような声に俺はハッとして走るのを止めて立ち止まり、弟の声に耳を傾けた。
「な、何だよ…っ」
『さっきのメッセージ見てくれた…?』
「あ、ああ…見たよ」
『じゃあ答えてよ。俺がどんな姿になっても嫌わないでいてくれる…?好きでいてくれる…?』
弟の言っている言葉の意味がよく理解できず、俺は焦燥気味にギリッと歯を食いしばり、半ば怒鳴るようにして言った。
「当ったり前だろ!何言ってんだ馬鹿ッ!」
勢いのまま乱暴な口調で即答してやると、電話越しに弟はめそめそと泣き出してしまった。
弟の身に一体何があったというのか。
俺は一刻も早く弟の元へ向かいたくて走り出していた。その時だけは弟の居場所に確信が持てた。
だから弟がいる場所へ急ぎ足で走って向かう。
「いいかい弟、何があったか知らないがその場から絶対動くなよ…?危険を感じるなら隠れてろ、な?」
『に、兄ちゃあん…っ俺、何か悪いことしたかなぁ…っバチ当たるようなことしたのかなぁ…っうぅ…っ』
「弟、今行くから…っ兄ちゃんが来るまで大人しく待ってろっ」
『うんっ…でも、こんな姿じゃ、』
「大丈夫だからっ…!」
弟の気が変わって電話を切られないよう何度も声をかけ続け、俺はようやく弟がいるはずの弟の住むマンションに到着し、階段を駆け上がった。
弟の部屋がある階の、弟の部屋の玄関ドアを勢いよく開けて靴を乱暴に脱ぎ捨て、部屋を見回した。
「幸志郎…ッ!何処だ…っ!?」
『「ーーーー兄ちゃん…っ」』
まだ通話中のスマホと室内から同時に弟の声が聞こえた。
弟は確実に部屋の何処かにいる。
「幸志郎、何処にいるんだい…?」
弟を怖がらせないよう優しく声をかけると、寝室の押し入れの襖が静かにスー…っと開かれる。
俺は開かれた襖をまじまじと見つめながら一歩一歩そろりそろりと歩み寄る。
「…幸志郎、そこにいるのかい…?」
「……うん」
薄暗い襖の中から弟の声が聞こえた。
ようやく弟と再会できた俺は喜びのあまり自然と笑顔が溢れる。
「出てきておくれ」
「……兄ちゃん…俺の姿見て、嫌いになったりしない…?」
「しないよっ…何十年一緒に居たと思ってんだ」
「信じていい…?」
「お兄ちゃんを信じろ」
「……………うん」
ようやく説得に成功し、弟が襖から姿を現した。
俺は弟の姿を目にして、
笑顔で迎え入れようとした表情が一瞬にして凍りついた。
フードを深くまで被っているそいつは俺と同じ身長で見慣れた白ぶち眼鏡をかけているまでは弟とそっくりだ。
声までも弟とそっくりなのに、フードの下の顔は弟じゃなかった。
ーーーー弟以前に、俺の目の前にいる奴は人間じゃなかった。
頭の両脇にある焦げ茶色の丸い耳、両眼の周囲は黒く、尻の割れ目の上から垂れ下がる細く長い尻尾。
弟だと思った奴は灰白色の体毛に覆われた獣だった。
二足歩行の獣。決して特殊メイクや着ぐるみなんかじゃない。
俺は呼吸を忘れるほど酷く動揺した。スマホが手から滑り落ちて床に落ちるのさえ、すぐには気づけなかった。
人間の衣服に身を包んだ獣は昔見た動物図鑑か何かで見たことある小動物に酷似しているが、俺の脳が目の前の獣の存在を受け入れられず、過去の記憶を遡っている余裕が無く、何の動物だったか思い出せない。
俺は目の前の獣を弟だとは到底思えなかった。
俺が愕然と立ち尽くしていると獣は不安げに俺を見つめ、それからくしゃっと表情を歪ませるとフードを引っ張るように深く被って顔を俯かせた。
「………っ嘘つき」
「…え」
「兄ちゃんなら俺の事すぐに分かってくれると思ってたのに…っ!」
「…っ……」
「う、うわぁぁんっ…!ひっぐっ…兄ちゃんの馬鹿ぁ…ッ!」
「……」
目の前で座り込んで大泣きし始める獣に俺は大きく目を見開いた。泣く姿まで弟にそっくりだった。
俺は座り込んだまましゃくりあげて泣いている獣に恐る恐る歩み寄り、床に膝をついて獣の肩にそっと手を置き、名前を呼ぶ。
「……幸志郎…?」
泣きっ面の顔を上げて俺を不安げにうるうると瞳を揺らして見上げてくる獣をまじまじと見つめる。
数十年も顔を合わせてきた弟とコイツはよく似ている。獣の見た目なのに不思議と弟の面影がハッキリと残っている。
ああ、本当にコイツは弟なんだ。
俺の脳がようやく目の前の獣を弟だと認識した瞬間、ずっと行方不明だった弟がようやく見つかった安心感で心が満たされる。
俺は今にもまた泣きそうな獣になった弟に優しく微笑みかけた。
「幸志郎」
「に…にぃ…ちゃん…っ」
「幸志郎…可愛い俺の弟…今まで何処に言ってたんだよ…っめちゃめちゃ心配したんだぞ…っ?」
俺の言葉に獣になった弟の瞳が揺らぎ、俺に抱きつくと、糸が切れたように大泣きし始めた。
「……うっ……うわぁぁん…ッ!兄ちゃあぁ…ッ!」
子供みたいにわんわん泣く獣の弟を俺は再会の喜びで貰い泣きしそうになるのを我慢しながら優しく抱きしめてやった。
「ったく、連絡くらい寄越せっての…っ」
「だってだってッ…こんな姿、誰にも見せられなかったんだよぉ…っ着ぐるみみたいで気持ち悪いじゃん…っ」
「そんなことねぇよ…可愛い小動物みたいな見た目して、弟らしくて可愛いって」
「う、嘘だぁ…っ最初俺の姿見た時の兄ちゃん…酷い顔してたよ…っだから俺、兄ちゃんに嫌われたって…思ってッ…!うぅ…っ」
「分かったからもう泣くなって…ッこれからのことは心配しなくていい。お兄ちゃんが弟の傍に居てやるから……な?」
お互いの顔が見えるくらい距離を離して弟の顔を見て俺は呆れながらも小さく吹き出すように笑った。涙でぐしゃぐしゃな弟の顔を服の袖で拭ってやりながら大人しく顔を拭かれる弟に微笑みかけた。
「ぐすっ…ほ、ほんとに…?」
「そんな姿じゃ街歩けねぇだろ…?だからお兄ちゃんが弟の面倒見てやるからさ…安心していいぞ」
「うん……あ…ありがとぉ、お兄ちゃん…っ」
獣になった弟はふにゃりと、安心しきった様子で嬉しそうに笑った。
その笑顔は人間だった時の、困り顔で笑う弟の顔にそっくりだったーーーー