月と花聖杯。それはどんな願いも叶える万能の願望器である。
そんなすごいものが、カルデアにはたくさんのようにある。もう、それはとんでもなくがっぽりと。カルデアではこの聖杯を、サーヴァントのリミッターを外すのに使える。いや、正しくはリミッターを外す というのとも違うのかもしれない。
…とにかく、これを与えるとサーヴァントはさらなる未知の力を解放できるようになるのだ。
しかし、聖杯に対して興味がない人もいる。例えば、彼。佐々木小次郎。
『大仰すぎる杯よなぁ』
そんな事を言って、彼は聖杯には全く興味を示さなかった。願いがないというか…他のサーヴァントのように興味を示さないのだ。
「…小次郎は、願い事がないの?」
「願い事?」
「うん」
「…あれば、もっと聖杯に興味を示しただろうな」
レイシフトも終えて部屋に戻る途中、なんとなくそう語りかけると彼は首を傾げる。願いが全くないというのもすごいことだなぁと思いつつ、聖杯に願うほどのことでもない細やかなお願いさえもないのかと、疑問に思う。
誰だって、小さい願いぐらいはあると思っていたから。
「…昔からないの?そういう…願いみたいなの」
「…聞いてどうする?」
「なんていうかさ、また聖杯を手に入れたでしょ?」
「そうだな」
「そしてわたしはこれを、いくつかあなたに渡している」
「…ああ」
「…願いも何もないなら、今までわたしがしてきたことはただのエゴになるのかなって」
せめて小さい願いでもあれば、こんな風には思わなかったのかもしれないけど…小次郎はそういうものさえもないように見えてしまうから。
「…。合意の上での聖杯だっただろう?」
「うん。まあ…そうなんだけどね。ちょっと気になっちゃって」
「…立香、食堂に行こうか」
「え?」
「茶でも飲みながら話した方がよかろう?ほら」
差し出された手を見つめていきなりの提案に驚くも、手を繋いで一緒に食堂へ向かう。中に入ると誰もいなくて、いすに座る前に二人でお茶の準備をする。
「珍しいね。小次郎からそういうなんて」
「ん?まあ…たまにはいいだろう」
急須を取り出し茶葉を入れ、やかんに水を入れてコンロの火にかける。シュボッと火のついた音を聞き二人で並んでお湯が沸くのを待っていると、彼はポツリポツリと語り始める。
「…願いというのはな、以前から…大してなかったんだよ」
「…」
「一つだけあったが、それはもうサーヴァントになった時点で叶ってしまっているし、この記録に刻まれたものを辿ってみても…とうに私の願いは終わってしまったことだった」
「…一つだけあったんだ?」
「ああ。…当ててみるか?」
「う~ん…強敵と戦うこととか?」
「ふ。さすが我がマスター。私のことをよく分かっている」
沸々と、水が煮立つ音が少しだけ聞こえる。やかんを見つめて彼の言葉にそうだったんだと思いつつ、やっぱりね。とどこか理解していた気持ちが顔を出す。
「…じゃあ、その願いがもう叶ってしまったから、何もないってことなんだ?」
「…ああ。困ったことに。たった一度の召喚された記憶で、細やかな私の願いが叶ってしまっていることに気づいたのだよ」
生前は、誰とも斬り合いをしたことがないと彼は話していた。ただ刀をずっと振り続けて燕を斬ろうとし…そうして死ぬまでずっと鍛錬し続けた。
(サーヴァントになって強敵と戦えるって分かったとき…すごく嬉しかったんだろうな)
なんとなく、笑いながら楽しそうに戦う姿が目に浮かぶ。きっと相手にとってもとんでもない強敵だったんだろうと、そう思える。
「…。でも、もう叶ってしまったのなら、それはそれでいいよね。…ちょっとうらやましい」
「…立香は叶っていない願いがあるのか?」
「そりゃもう、たくさん」
「欲深いなぁ」
「だってしょうがないでしょう?…人間だもの」
人間は欲のある生き物だ。少なからず…誰にだって欲というものがある。
いつだったかキアラと話した時に、彼女がそう言っていたのだ。だから欲深くても貴女のそれは正しいと。人間らしいと笑っていたような気がする。
「…であれば…道具として扱えと言った私に願いが少ないのも当然か?」
「でも願いはあったんでしょ?…じゃあ、小次郎は人間だよ。ちゃんと…人間らしい」
「…。そうだといいがな。それよりも、立香の願いとはいったい何なのか…そちらの方が気になる」
やかんが音をたてる。ふたを開けて中を確認するも、まだお湯は沸いていない。ふたを戻して隣を見ると優しい目つきで見つめる小次郎と視線がぶつかって、二人きりだということにドキドキした。
「わたしの願いは…いっぱいあるけど、何を聞きたい?」
「選べるのか?」
「選べるほどたくさんあるので」
ふふ と笑うと小次郎は天井を仰いで考え出し、はて何を聞こうかと真剣に考える。そんな大したことでもないのにうんうん唸って考え出すから、ちょっとだけ笑ってしまう。
「そうだなぁ…では……一番 身近な願いは?」
「一番身近な願い?」
「ああ。手が届きそうで届かない、そんな願いは?」
…手が届きそうで、届かない願い。落ち着いた声で言われた言葉を頭の中で反芻して、そう言う願いがあっただろうかと、真剣に考える。
わたしの抱えている願いはどちらかというと…もっと深くて、問題の多い願いが多いから。
「……なにかなぁ…」
「…たくさんあって逆に思いつかない?」
「…そうかもしれないけど…ちょっと待って…考えるから」
そう言うと彼はゆっくりでよいと話しかけて頭を撫で、傍を離れて湯呑を食器棚から取り出す。テーブルに置きまたこちらに戻ってくるとやかんの中の水を確認して、少しだけ火を強めた。
「…小次郎とこのままでいたい」
「む?」
「だから…小次郎と、このまま…一緒にいたい」
「…それが、身近な願い?」
「うん。…そう」
◆
はきはきとした声でいつものように語る少女に、思わず瞬きを繰り返す。真剣に悩みぬいて見つけた一番身近な願いがそれだとは…なんと言えばいいのか分からなくなる。
そもそも私はサーヴァントで、立香は生きている生身の人間だというのに。
(…生死を乗り越えなければいけない事なのに、一番身近な…手が届きそうで届かない願いなのか。それは)
…私は、もし同じ願いを持つのだとしたら…それを身近な願いだとは思わないだろう。それこそ聖杯にでも願わないと無理なことだ。
「…本当に、身近な願いなんだろうか。それは」
「わたしはそう思っているよ。だって、今こうして一緒に隣にいるんだもん」
「私はもう死んでいるんだぞ?」
「…うん。わかってる。でも、わたしにとっては身近なの。…身近な願いでいさせてよ」
哀愁漂う顔が振り返ると、少なからず胸が痛む。申し訳ないことを聞いたと思い小声で謝罪をすれば、気にしていない と無理やり明るくしたような声が食い気味に答えた。
「そう言う小次郎こそ、本当に願いってないの?」
「…ふむ。改めて考えてみたのだがな。…なかなかそうないのだよ」
「…月は?」
「月?」
「うん。…小次郎、自分の印象に残っているものとして…よく月をわたしに見せてくれるでしょう?」
バレンタインも、絆が深まったときも。そう言えば彼女にはよく月を見せていた。自分が無意識にでも、一番印象深く残っていることを立香に見せてしまっていたのかと思うと、少々照れくさい気持ちもある。
「だが…月と、願いと…何がどう関係があるんだ?」
沸々と、水が煮える音。先ほどよりも顕著に響き、ふたがわずかにカタカタと揺れる。
「小次郎と絆が深まったときに話してくれたことがね、なんとなくなんだけど…」
「…?」
「あなたは月を斬ってみたいのかなって」
カチッ。コンロの火を止める。沸騰してぼこぼこと音を立てていたそれを止め、煮え立つ湯気を見つめながら、立香の言葉を噛みしめる。
あなたは月を斬ってみたいのかなって
…そういえば、よく月にこの刀の切っ先が届かぬものかと空高く掲げていたこともあったのを思い出した。
まるであの頃の、ひたすら鍛錬に励んでいた時を思い出して、無意識にこの気持ちが沸々と煮えていくのを感じた。
「……そういう、ことも…考えていた時もあったような気がする」
「月に刀の切っ先が届いたことはある?」
「…いいや」
「届いてみたいと思ったことは?」
「……ある…のかも、しれない…」
「そういうの、お願いしてみようって思ったことはないの?」
真剣に語りかける声に、やかんを持つ手に力がこもる。そのまま移動して急須にお湯を入れ、二人分の湯呑に茶を注ぎ、いすに座る。お湯を耐熱性のポットに移して漂う湯気を見つめ、茶を啜った立香が美味しい と呟いた。
「……願うほどの、ことでもないだろう」
「そうなの?」
「自らの実力で、届いて斬ってこその刀だ。…何かに頼って願った時点で、それは…私の意に反する」
「…。…そっか。うん。…なんか小次郎らしい答えだ」
ふふ と小さく微笑む声に湯呑を持って茶を啜り、いつも通りの苦みとうまみに息を吐く。ほう と一息つけば彼女はまぶたを閉じて頬杖をつき、伏せたまつ毛をついジッと見つめてしまう。
「……立香は、月のことをどう思う?」
「…え?月?」
「其方はどう見ているのかと、気になってな」
「…」
茶を、啜る。揺れる水面を見つめて丸い形に月を連想し、目の前に座る彼女を見る。立香は首を傾げながら小さく唸って斜め上を仰ぎ、ポツリポツリと言葉を紡いだ。
「月は、きれいだよね」
「そうだな」
「それから…小次郎っぽい」
「私っぽいとは?」
「あくまでイメージなんだけどね。わたしの中では小次郎はお月様だから」
小さく笑う声を聞き、それはどういう意味なのかと聞き直す。すると立香は何かと私が月を見せてくるため、どうしてもそういうイメージがあるのだと嬉しそうに呟いた。
「特にバレンタインとかさ、大事なことがあったときに…小次郎は月を見せてくれるでしょ?」
「…ああ」
「それが、嬉しくて。あなたの中の大事なものをわたしだけに共有してくれているみたいで、本当に…嬉しいなって」
…穏やかな時間だと思った。普段せわしなく動いてやることをこなさなければいけない彼女の、唯一の落ち着ける時間。頬は緩み余裕のある視線で私を見つめ、どこかでこんな時間が続けばよいと思う自分もいた。
(…願い、あるじゃないか)
細やかな願いさえないと思っていた。そういうことは己の中にはないと思っていた。だが…それは違ったようだ。
細やかな、どうしようもない身近な願いも…私にだってあるじゃないか。
「立香、この後の予定は…なにかあるのか?」
「え?急に予定?」
「…もう少し、このまま話していたくてな」
「…。それは、小次郎の願いだったり…する?」
「ああ。身近な、小さい願いだ」
「…。今日はあと何もないよ。大丈夫」
「それはよかった。…しかし…私の願いはすぐに叶ってしまうものばかりだな」
「…いいんじゃない?それでも。むしろわたしは…叶わないお願いをずっともっているよりも…小次郎みたいな叶いやすい願いを持っている方がいいなって思うよ」
「…そうなんだろうか」
「わたしはね。…そう思うよ」
しんしんと、沁みる時間。立香とこうして話す時間はとても貴重なもののように思える。限られた時間で、お互いの気持ちを話しあい、理解を深められるのは愛情を持ってこそなんだろう。
「…こんなところにマスターと二人きりでいるとは珍しい」
「あ、荊軻さん」
「…」
いい雰囲気を破る、はきはきとした声。声のした方を見れば立香の言葉通り荊軻殿が食堂の入り口に立っており、少し残念にも思う。
荊軻殿とは…まあ酒飲みでよくはち会う。共に飲んだことはないが、なかなかに酒癖が悪いという風に聞いたこともある。もしそういう状態であれば、出来ればあまり立香とは絡ませたくないのだが…いまのところ酒は飲んでいないようだ。
「荊軻さんもお茶飲みに来たの?」
「まさか。酒を取りにきたのさ」
「…立香殿。そろそろお暇しようか」
「え?」
「おい侍」
呼び止める声に扉に向かう足をぴたりと止め、はてどうしようかと踏みとどまる。振り返ろうか、それともこのまま行ってしまうか。…しかしそう悩んでいる間にも立香と荊軻殿の楽しそうな話し声が聞こえてきて、仕方なく振り返った。
「何かな。荊軻殿」
「…マスターの言った通り、月のように静かな男だな。貴様は」
「…」
「マスター、気をつけろ。月は人を惑わす効力もあるからな。…変に惑わされないように警戒しておけよ」
「え」
「立香殿に変なことを吹き込まないでいただけるかな」
きょとんと声を発した立香の手を掴んで食堂を後にすれば、後ろからついてくる彼女が戸惑いの声をあげる。少し歩くのが早すぎたか、ハッと意識を取り戻して歩く早さを遅くすると、握る手にぎゅっと力がこもった。
「小次郎、足早いよ」
「…いや。すまん。少しらしくなかった」
「荊軻さんが言ったこと気にしてるの?」
「…少しな」
「…別に気にしなくてもいいのに」
「というと?」
「も、もう惑わされているので…」
くぐこもった声で語る彼女の言葉に、思わず振り返る。視線を泳がせてこちらを見ようともしない立香に、もう一度言ってくれないかと話しかけるも、もう一度はさすがに照れくさいのか言えないらしい。
…しかし、聞き間違いでなければ…もう惑わされている と言っていたような気がするのだが…?
「…そ、そういう恥ずかしいことは何回もいうべきことじゃないですし…」
「…言ってくれないのか」
「………言わなきゃダメかな」
「私が聞きたいと言ってもだめか?」
「…。小次郎のめったにないお願いなら、言うけど…」
唇を尖らせる顔。憎たらしいぐらいに可愛らしい。わたしは彼女の腕を引いて廊下の端に寄り、大きな窓際にて、真っ直ぐ見つめながら頼む と声をかける。手は繋いだままじっと見つめ合うと、彼女はゆっくりと口を開いてもう一度話し始めた。
「…もう惑わされているから」
「…私に?」
「他に誰がいるの?」
「…いや。いないな。…いるわけがない」
「うん。…だって、わたしにとっての月は…小次郎だけだから」
見上げて微笑む顔はいつも以上に嬉しそうに口角をあげて、懐にずっと閉まっていた 細やかな願いが顔を出す。そんなものはないと言っておきながら…本当はずっと胸にしまっていた願いがあること。けれどこれは言ったところでどうしようもないこと。すべて理解したうえで、私はこれをずっと胸の奥底にしまっていた。
(らしくない と言えばらしくないか…)
しかし、こういうものはやはり口にいちいち出さない方がいいと思うのだ。だから、結局私はまたこの顔を出してきた願いを胸の奥底にしまって、伝えない代わりに…小さくて細い体を抱きしめた。
「わっ」
「…月なんぞ大層なものではないと思うのだが…。だが、立香がそういうのであれば…私は其方のことをきちんと見守る、其方だけの月としてあり続けよう」
これが、精一杯の言葉だ。願いを言えぬ代わりの、私なりの…彼女への言葉だった。
…ある意味、告白などよりも緊張した言葉かもしれない。
・