玉響月下「しゃぶい…」
「そうだな。さむいな」
「指が震える…」
「手袋すればいいだろう」
「うぅ…」
「自分から外で晩酌したいと言ったのにまったく…」
はぁ、と呆れてため息をつく小次郎に、月がよく見えるところまで歩んでいた足をぴたりと止め、虚しさのあまり思わずその場でうずくまる。わたしから言い出したのは確かにそうだけれども、もう少し優しくしてくれてもいいのに…。
「立香」
「…」
「…仕方ない」
「え?うわっ!」
片手にお酒の瓶を持っているというのに、彼は一言発するとひょいとわたしを抱き上げる。コートだって着てモコモコで抱えにくいだろうに、そんなこともお構いなしに小次郎はずんずん足を進めだしたのだ。
「こ、」
「抱えにくいな…落としたらすまんな」
「それはやめて!」
軽く笑いながらもしっかりと腕に力を込めている彼に、胸がキュンとときめく。わたしのわがままのせいなのに、まさかここまでしてくれるとは思いもしなかった。
「……」
抱えられながら、ざくざくと雪を踏みしめる音を聞く。空を見上げると真っ黒い闇の中にぽつんと淡く光る月も見え、周りにほぼ建物がない状況も相まって、まるでここに取り残されたみたいだと思った。肌に突き刺さるようなじくじくとした空気も、吐いた呼吸が白く溶けて消えていくさまも、雪の踏みしめる音しかしない状況も。…すべてここでは二人ぼっちのように思える。
「静かだね」
「そうだな」
「世界に二人しかいないみたい」
「大げさだな」
「だって他に何も聞こえないんだもん。…小次郎の声以外、なにも」
ざく。少しだけ強く雪を踏みしめた音が響くと、まっすぐ前を見据えていた小次郎がふとこちらを見下ろす。お互い寒いからなのか、彼の鼻の頭が若干赤くなっているのを見るに、きっとわたしも同じになっているに違いない。見つめる群青色の奥を眺めながら「寒いね」と言えば、冷えた唇が赤くなったわたしの鼻の頭に口づける。「寒いなぁ」とのらりくらりと話す声は頭上のはるか遠い月めがけて発せられ、抱えられた体がそっと下ろされた。
「カルデア、結構遠くなっちゃったね」
「そうだな。だがすぐに戻れるさ。お猪口は?」
「ちょっと待って。…あ、あった。はいどうぞ」
「どうも」
ポケットにしまっていたお猪口を二つ取り出すと小次郎は雪の上によっこいしょと座り、隣を叩く手につられてわたしも体育座りをする。赤く染まった指先が瓶のふたを開けるとトプトプとお猪口にお酒を注ぎ、一つをわたしに寄こして瓶をグサッと、少し積もった雪の上に挿した。
「小次郎、指先赤いけど寒くないの?」
「寒いに決まっている」
「…手袋貸す?」
「…。いや、良い。私が手袋を借りてしまえば、立香の指が冷えてしまう。それに…酒を飲めばじきに身体も暖まるさ」
白い息を吐きながら話した彼はくいっと酒を口に含み、冷たさからか眉間にしわを寄せてふぅ と一息つく。月を見上げてくっとわたしもお酒を口に含めば、想像以上の冷たさに喉から胃がキンキンに冷える。まるでつららでも通したみたい。
「つっめたいね…」
「そうだなぁ」
「…月きれいだね」
「む。それはあれか?”月がきれいですね”というやつか?」
「え?あ、ごめん。普通に言ったつもり」
「なんだ、つまらんな。まあそんな回りくどいことしなくても、立香ならば直接分かりやすい言葉で伝えてくるか」
「…うん。そうだね。好きだよ小次郎。大好き」
「知っている」
他愛ない話をしながらちびちびお酒を飲み続けていれば、気付くと体の芯からポカポカと暖まってきているのに気付く。アルコールが回ってきた証拠だろう。あんなに寒かったのに、体の中は妙に熱かった。
「小次郎、手繋ご」
「ん?なぜ?」
「指がまだ寒いから」
「…構わんが…立香の手よりは冷たいと思うぞ」
「いいよ。…わっ 本当だ、冷たい」
お猪口を持っていない方の手でぎゅっと手を繋げば、指先だけ冷えているわたしと違い、小次郎は手のひら全体がまだ冷えている。体の熱を持っていかれそうなほどびっくりしたけれど、こんなに冷えているのなら、わたしが暖めてあげなければ とも思った。
「そんなに強く握らんでも」
「だって小次郎の手、冷たいよ?」
「…まあ寒いからなぁ」
「じゃあ、暖めてあげないと」
「ふ、別にそう気を使わんでも良い。どうせ死人の腕だ。冷えているのは道理だろう」
「そんなこと言わないでよ」
むぅと頬を膨らませれば小次郎は小さく笑って、月を見上げながらお酒を飲み干し再び瓶を手に取る。繋いだ手が離れそうになってグッと抑え込めば、ふたが開けられない という言葉を聞いて、お猪口を置いた手でわたしが瓶のふたをひねった。
「はい」
「そんなに惜しいのか…」
「うん」
繋いだばかりの手を離したくなくてそんな風にはっきりと返事をすれば、若干呆れたように彼は笑うものの、やれやれとお猪口にお酒を注ぐ。相変わらず周りには何の音もなくて真っ暗で夜空に輝く月しか見えないけれど、わたしはこの静かな空間で小次郎と話せているだけでも幸せだった。
「風冷たいね」
「そうだなぁ。先ほどよりは勢いがないゆえ、多少楽だが」
「うん。…あ、」
「なにか?」
「う、ううん」
何気なく当たり前のように繋いだ手に指先を絡めて来るから、ちょっと驚いた声を出してしまった。しかし彼の反応を見るに、結構当たり前のことなのかもしれない。あまり気にしていない風な言葉に、敏感に反応した自分が恥ずかしくなり、ついフイッと顔をそらす。
「小次郎の手、ちょっと暖かくなったね」
「立香の熱を全部取ってしまったのかもな」
「じゃあ今度は小次郎から熱取らないとだめだから、手、離せないね」
「離さずともいいだろう」
「…」
「離す理由もない」
上下に動く喉仏。月明かりに照らされたきれいな横顔。淡々と語る声に聞き惚れて返事をするのも忘れていると、ふと小次郎がこちらを振り向き、ドキッと心臓が高鳴る。いつものことなのに顔を逸らせば布が擦れる音がして、冷えた指先が顎を掬いひょいっと自らの方へと振り向かせる。
「目をそらすな」
「ご、ごめん…」
「お前は月よりも”こちら”を見ていればよかろう」
「え、小次郎、酔ってる?」
「酔ってない」
「…本当…?」
「まあ、あえて言うのならば、酒に酔ったというよりは…月に惑わされたのかもしれんな」
「……」
饒舌によく話す唇を見つめて、顎を掴む指先が離れていくのを感じる。ここまで思ったことを素直に話すなんて酔ったとしか考えられないのだけど、なるほど、月に惑わされた とは…実に小次郎らしいとも思った。
「…わたしに惑わされることはないの?」
「ん、立香の方こそ酔っているのでは?」
「酔ってない」
「…。まあ、仮に惑わされているとしても、そんな様子を見せるのは…玉響のごとき時の間だけだろうよ」
「たまゆら…?」
「む。二杯目も飲み干してしまったな。どうする立香?まだ飲むか?それとも、帰って”続き”を楽しむか?」
含みのある言い方に肩を竦めてサッと頬を染めれば、「其方は分かりやすい」と囁かれ、すくっと小次郎は立ち上がる。離れた手を名残惜しく思い月を見上げる彼を見つめれば、再び手を差し出されてぎゅっと握りしめる。
「小次郎の言う続きって、なんかいやらしい」
「それもそうだろう。”そういう意味合い”も含めて言ったのだから」
「!…やっぱり酔ってない?」
「酔ってない。それとも立香に酔ったとでも言えば良いか?」
「それは~……やっぱりますます酔っていませんか?」
「じゃあ酔っているということにしておく。ほら、戻るぞ。さすがにもう冷えすぎるのはよくない。…帰って暖まらねば」
「…うん。ねぇ小次郎」
「なんだ」
「大好き」
「知っている」
同じ言葉が返ってくるのを期待していたが、やっぱりいくら酔っていてもなかなか小次郎はそういうことを言ってくれない。でもこの繋いだ手の強さを見れば言われなくても分かってしまうので…これでもまあいいか。と思ってしまう自分もいる。
(でもたまには言葉で聞きたいなぁ)
なんて、こんな浅はかな願いはすべて小次郎にはお見通しで、帰った後は文字通り…。たっぷり”暖めて”もらった。もちろん、欲しかった言葉も浴びるほど 受け止めて。
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