さみしい光の底prologue
――寂しそうな人だな。
彼の内面に僅かながら触れるようになって抱いた感想はまずそれだった。
大人らしく落ち着いて、年少の魔法使いたちに接している彼はいつも飄々としていて捉えどころがなかった。
そんな彼が冷たい夜風に身を晒して月を見上げていたあの夜。
彼が小さく溢した「一人で石になりたくない」という言葉がずっと晶の心の奥に棘のように突き刺さって。
いつも穏やかな表情を浮かべる中で、ふとした瞬間に覗かせる何処か達観したような、どこか遠くを見るような視線の寂しさに気づいたら、もう気づかなかったフリはできなかった。
もっと彼のことを知りたくて、抱えている孤独の一端に触れたくて。
土足で踏み込んで暴きたいわけではない。
ただ、そのなんてことないように笑う顔の裏に押し隠した孤独を、少しでも和らげることができれば、そんなことを考え始めた。
そうして気がつけばその感情は『恋情』と呼ばれるものに変化していた。
生まれて二十数年、それなりに恋もしてきて、恋人だっていた。人並みの恋をしてきたつもりだったけれど、晶はその実『恋』というものをよくわかっていなかったのかも知れない。
だって、こんな胸の奥がぎゅうと切なく締め付けられるような感覚は知らなかった。
少しでも側にいて、楽しそうに笑ってほしい。叶うならば、その笑顔を引き出すのは自分でありたい。
自分が、二千年の孤独を慰められる存在になれるなら……そんなことばかり考えてしまう。
◇
「賢者様……俺はきみと同じ意味で、きみのことを好きにはならないよ」
温度のない声が、日のすっかり落ちて薄闇が支配する中庭に落ちた。
妖しい光を放つ明るい銀色の月が普段の穏やかさを削ぎ落とした整ったフィガロの顔を照らしている。
「フィガロ、あの……どうしたんですか?突然」
「どうもしないさ。ただ、期待をさせる前にちゃんと言っておかないとって思ったから」
そう言って、彼は帰り道を失くした迷子のような瞳をする。
「……だって、きみも結局俺を置いていくだろう」
小さく呟いた言葉が、晶の耳にも微かに届く。
――嗚呼、なんて……。
その日、晶は夕食の時間を過ぎても食堂に現れないフィガロを呼びにきていた。
なんとなくそこにいる気がして。
昼間の穏やかさは鳴りを潜めて、草木が風に揺れる音だけが微かに聞こえる、どこかうら寂しさを覚える中庭へと足を運んだ。
そこで、備え付けられたベンチに腰掛けてぼんやりと夜空を見上げているフィガロを見つけた。声をかけようと近づいた晶をゆっくりと振り返ったフィガロが静かな声で「賢者様」と口にしたのだ。
いつもの親しさを込めた呼び方とはちがう、距離を感じるそれに違和感を覚えながら「こんなところにいたんですね」と彼の目の前へと足を進めた。そうして、どこかぼんやりとしているフィガロの名前を呼んで、唐突に告げられたのは拒絶の言葉だった。
自分の抱える感情が、この二千歳も年上のこのひとに隠せているなんて思ってはいなかった。
時折、なにもかも見透かしたように意味深な言葉をかけられることもあった。
本気にされなくてもいい。叶わなくてもいい。ただ、想っていることを許して欲しかった。穏やかに笑う彼のそばにいられるだけでいいと思っていたのに……そんなことすらこの人は許してはくれないというのだろうか。
何度かはくはくと口を動かしただけで、突然の拒絶にうまく返す言葉も見つからない晶は結局、口を噤んで彼を見つめることしかできない。
「ごめんね、賢者様」
ぽつりと落とされた言葉は、ひどく頼りなく夜の闇に溶ける。
その姿は、いつの日か中央の市場で半ば本能的に彼の手を掴んだ時よりも、ずっと迷子のようであった。
「フィガロ……ここは冷えます。魔法舎に帰りましょう」
結局口にできたのは、そんな気の利かない言葉だけで。
「お腹も空いたでしょう?」
ぐっと喉の奥が詰まって声が震えないように、どうにか腹の奥に力を入れて、彼へと手を差し出す。
「うん、そうだね」
素直に晶の手を握り返すフィガロの手のひらは、あの夜のようにひどく冷え切っていた。
「……無理に、俺の気持ちに応えなくていいんです。貴方のやりたくないことはやらないで済むようにしたい」
賢者の書に魔法使い達のことを記す時、みんなに告げている言葉だ。今でも嘘偽りなくそう思う。
「ただ、貴方を好きな俺の気持ちは、許してください。自分勝手だってわかってます、すみません……」
「見返りを求めないの?」
「はい、フィガロがそう望むなら」
ズルい言い方だな、と思いながらもそう口にする。
彼が差し出した晶の手をぎゅっと握り返す。
その手を取りながら「どうか、どうか……」と誰へともなく願う。
この人の寂しさを、悲しい臆病さを愛させてください。
晶の方が先にいなくなるかもしれない、もしかしたらフィガロの方が先に石になってしまうかもしれない。
別れは辛いだろう。だけれども、その辛さばかりに目を向けて、一人きりになってほしくはない。
誰かと一緒にいることは寂しいばかりではないということを、この冷えた手の彼に伝えたい。
この手を温めてくれる『他の誰か』が見つかるまででもいい、彼にとっては瞬きのような一瞬でも、心を温めるような記憶が残せれば……。
もし、そう遠くない未来に彼が石になってしまうのであれば、最後までその手を握って、ぬくもりを伝える存在でありたい。
この願いは晶のただのエゴでしかないかもしれない。だけれども、そんな事を、願ってしまう。
――どうかひとりにならないで……。
言葉にできない想いを込めながら、冷たい手をぎゅっと握り締めた。
1.
「賢者様、今日はハーブティーにしない?ルチルが作ったのを分けてくれたんだ」
「いいですね、ルチルのハーブティー美味しくて大好き」
「はは、喜ぶから本人に言ってやってよ」
「明日お礼と一緒に感想を伝えます」
「そうしてあげて」
魔法でティーセットの用意をしながら、フィガロが穏やかに微笑む。
若い魔法使いたちや、夜が早い魔法使いたちはすっかり寝静まり、空に厄災がその存在を主張するように煌々と輝く時間。
もう十日ほど前だろうか。あの冷たい雨に打たれるような心元なく、寂しい会話にはお互い一切触れないまま。表面上は今まで通りに日常を過ごしている。
賢者と南の先生役として任務や賢者を交えた訓練の打ち合わせとしたり、南の兄弟に誘われてお茶会に参加したり、こうして静かな夜に二人でお茶会をすることだって、続いている。
第三者からみたら、ふたりの関係は今までと変わらないだろう。あんな会話があったことなんてきっとわからない。
だけれど、やっぱり何もなかったことになった訳ではない。
基本的に今まで通り、フィガロは人当たり良く親切で、穏やかに晶に接してくれるけれど、時折冷たく突き放したりする。
ついさっきまでの穏やかな空気が嘘のように冷えていくのを肌で感じるほどに明確な拒絶。
フィガロはそんな態度を取る度に、どこか寂しさを孕んだ表情をする。
冷たい態度を取ったフィガロから離れていかないか、手を離されないか。まるで、見極めるかのように。
まるで晶の気持ちを試すような、酷いことをされているとも思うのに、迷子のような途方に暮れたような表情をされてしまうと、怒りよりも遣る瀬なさと共に、そんなフィガロを放っておけないという気持ちの方が強くなってしまう。
気が遠くなるような年月を生きてきた、大魔法使いである彼に抱くには相応しくはないかもしれないけれど、放っておけない。そう思って、余計彼から離れがたく感じてしまう。
自分ではあまり自覚がなかったのだけれど、そうしているうちに昼間もフィガロといる時間が増えていて、それをフィガロも嫌がなかった。
今日はついにルチルに、にこにこと笑みを浮かべ微かに頬を染めながら「なんだか最近のフィガロ先生と賢者様、とってもいい雰囲気ですね」なんて言われてしまった。
まあ、晶はフィガロに明確に恋心というものを抱いているから、もしかしたらそれが傍にいることで傍から見ていても分かりやすい何かとして表にでてしまっていたのかもしれない。
気を付けなければ、とは思うけれどありえなくもない話だ。
でも、フィガロの態度は時折晶を突き放すようなことをする以外は以前と少しも変わらなかったように思える。
ルチルはそんな彼の何を見て、何を感じてそんな言葉を口したのだろうか……。
「賢者様?考え事?」
ふわりと目の前にティーカップを差し出しながら、フィガロが首を傾げている。鼻先をふわりとハーブの優しい香りが擽っていく。
「いえ、ちょっと」
曖昧に言葉を濁す晶を追及することはなく、フィガロは自分の分のティーカップを傾けている
今日はお酒の気分ではないらしい。
「そういえば、明日は朝から任務だっけ?」
「はい、西の国で狂暴化した魔法生物が出没するらしくて。西の魔法使いたちと一緒に行ってきます。なので、今日はこのお茶をいただいたら戻って休みますね」
「うん、そうした方がいいね。寝不足は判断力の低下を招くから」
「はい、ありがとうございます」
今日はどうやら穏やかなまま一日を終えられそうだ。
他愛のない話をひとつ、ふたつゆっくり交わしながらお茶を飲み干せば、ほわりと身体が温まって眠くなってくる。
やはり、ルチルの作るハーブティーの効果は絶大だ。
「じゃあ、俺は戻りますね。きっとフィガロが寝ているうちに出掛けてしまうと思います」
「明日、俺は特に予定もなくゆっくりしているからね。ミチルが起こしにきてくれるまでベッドで眠っているよ」
ぱちりと、お手本のようなウインクをしながらおどけるフィガロに、思わずふふ、と小さな笑いが漏れる。
フィガロとフィガロを慕っているミチルとのやり取りは何時だって楽しそうで、晶の心を暖かくしてくれる。
「では、おやすみなさい」
「おやすみ、気を付けて行ってきてね」
気遣う言葉にこくりと頷いて、晶はそっと明かりの絞られた魔法舎の階段を昇っていく。この穏やかな眠気のままベッドに入ってしまおう。
そして、明日帰ってきたらまた、任務での出来事を土産話に、フィガロと『お仕事』をしよう。
そんなことを呑気に考えていた筈なのに。
「賢者様、お辛いでしょうがもう少し辛抱なさってください」
「賢者様、大丈夫?ごめんね、痛いよね」
何時もの西の魔法使いらしくない、余裕のない声に「大丈夫」と返すこともできないまま、晶は青白い顔で僅かに頷いた。
この日は予定通り、朝早くから中央にほど近い西の国の村に訪れていた。
西の首都のように栄えてはいなく、どちらかというと牧歌的な空気を感じる小さな村だ。どうやら大きな街と村を繋ぐ街道に狂暴化した魔法生物を出没するらしい。
少々数が多いけれど、人間には脅威でも魔法使いにはそう難しい敵ではない。
直ぐに討伐を行う手筈を整えて、問題なく終わるはずの任務だった。
ムルとシャイロック、ラスティカとクロエでペアを組んで、見事なチームワークで次々と魔法生物を駆逐していくのを、晶は少し離れた後方で見守っていた。
戦闘の時に前に出ていくと、逆に彼ら魔法使いが動き辛くなるから、基本的には危険が及ばない所で、彼らを見守っている。
共に任務に同行しているのに、何もできないのが申し訳なくもあるけれど、これが魔力や自分を守る術を持たない晶が賢者の魔法使いたちと任務に幾度も出て学んだ最適解だ。
西の魔法使いらしく、派手でそれでいて正確な戦闘を見守っていると、ふと、晶の横を勢いよく駆け抜けていくものが視界に入った。
「えっ⁉」
「止めて!その子を止めてっ!」
晶が驚愕の声を上げると同時に、背後から悲痛な声が突き刺さった。
振り返れば、お腹の大きな妙齢の女性が顔を真っ青にして叫んでいた。はっと身体を急いで前に向ける。二、三歳くらいの男の子が魔法使いたちが戦っている場所めがけて全力疾走をしているではないか。
「うそでしょっ!」
声を上げると同時に、晶はダッと小さな背中に向かって駆け出していた。
村の人たちには討伐を行っている間は念のため家の中にいて、決して外に出ないように通達していたけれど、あんな小さな子がその意味を正しく理解は出来ないだろう。
何時ものように外で遊ぼうと、母親の目を盗んで外に出たら、なにやら派手な花火やら花びらやらリボンやらピンクの煙やらが飛び交うものが見えて、好奇心が刺激されてしまった、といったところだろうか。
確かに、何も知らずに見ていれば楽し気に見えるかもしれないけれど、あの魔法の下では的確に仕留められた魔法生物が悲痛な声を上げて石になっているのだ。
巻き込まれる前に、あの子を捕まえて無事に母親の元に返してあげなければ。
ただそれだけを考えて、晶は必死で足を動かす。
元気が有り余っているだろう子は、小さな手足を目一杯に動かして走っていて、なかなかに早い。
晶も全力で走って、どうにかその背中に手が届く、というときだった。
「賢者様っ!危ないっ!」
頭上から鋭い声が降ってくる。
「う、わっ!」
こちらに気付いた鋭い牙を持った犬のような魔法生物がこちらに牙を剥きながら向かってくるのが見えた。
標的は一番この中で非力な男の子だ。
このままでは、ダメだ。咄嗟にそう考えた晶は、飛びつくように男の子に覆いかぶさった。それとほぼ同時に、肩口に灼けるような痛みと、生臭い獣の呼吸を感じる。
「う、ぐぅっ」
「賢者様っ!」
「アモレスト・ヴィエッセ」
クロエの悲鳴のような晶を呼ぶ声と、ラスティカが呪文を唱える声が同時に聞こえる。
肩口に食らいついていた獣から力が抜けていく。
「いったぁ……ッ」
魔法生物が地に伏せるのに合わせて肩を下げれば、直ぐに上空を飛んでいた箒から飛び降りるように晶の傍に降り立ったクロエとラスティカが顔を覗き込んでくる。
「ああ、賢者様。僕たちが傍にいながら」
「こんなに血が出てるごめんね、痛いよね」
「いえ、俺は大丈夫、なので……この子を」
晶の腕の中で恐怖に身を固くしている男の子をクロエに託せば、彼はそっと男の子の手を受け取ってくれた。
後ろから半狂乱の身重らしい母親が駆け寄ってくるのに、クロエが彼の手を引いて対応してくれる。
「いま応急処置をします」
晶の肩口に屈みこんだラスティカが再び呪文を唱えれば、キン、と高い澄んだ金属音のような音と共に、どくどくと脈打つ度に痛みと共に血が流れ出ていた傷口の痛みが少し和らいだ。
賢者の為の真っ白なパーカーは右半身がすっかり血に濡れていて、生ぬるい血の感触が気持ちが悪い。
「傷は一応塞ぎましたが、僕の治癒は専門ではないので……。早く戻ってフィガロ様に診てもらいましょう」
「すみま、せん、ご迷惑をおかけして」
「迷惑だなんて言わないでください。貴方はあの子を守ってくださったのですから。僕たちこそ、お傍にいながら」
綺麗に整った顔を歪ませながら、ラスティカは痛ましそうに首を横に振る。
「ラスティカ、賢者様のご様子は?」
「敵は俺たちがぜーんぶ倒したよ!」
魔法生物の駆除を終えたシャイロックとムルも晶たちの元へとやってくる。
「直ぐに魔法舎に戻りましょう」
晶の様子をみて、シャイロックが即座に口にした。
「ええ、そうしましょう」
「わあ、賢者様血まみれだね。痛い?苦しい?」
「ムル、おやめなさい」
シャイロックがムルを窘めているうちに、母親へと男の子を引き渡したクロエも戻ってきた。
「ラスティカ、クロエと賢者様を連れて先に魔法舎に戻ってくださいますか。私とムルは村に討伐完了の報告を。終わり次第すぐに後を追いますから」
「わかったよ。さあ、クロエ行こう」
「うん……賢者様、すぐフィガロに診てもらおうね」
「賢者様、僕が抱えていきます。お辛いでしょうから、力を抜いて身体を預けていてください」
さっとこの後の行動を決めた彼らはとても頼りになる。
まるでダンスに誘うように優雅に晶を自身の箒へ導いたラスティカに抱えられて、晶は魔法舎に戻ることになった。
大きな血管が傷ついたのだろう、血が足りなくてラスティカに抱えられて飛んでいる途中に、意識が落ちていた。
◇
昨晩、賢者と話していたように、この日のフィガロは特に用事もなければ、南の国は休養日で訓練も授業もない、完全に自由な一日だった。
西の魔法使いと賢者はフィガロがミチルに引っ張られながら食堂へ朝食を摂りに行った時には既に出発したあとだった。
ゆっくりとネロの用意してくれた朝食を食べたあとは、自室に籠ってストックしている魔法薬を補充する為にあれこれ煎じたり蒸したりの工程を正確にこなしていた。
厄災や魔法生物の討伐だの、訓練だので魔法舎にいる魔法使いの一部は怪我をすることが多いため、こうして空いている時間に魔法薬を補充するのも、魔法舎で唯一の医者であるフィガロの習慣となっている。
ゆっくりと薬剤を火にかけていると、俄かに玄関の辺りが騒がしくなったのを感じる。
一筋縄ではいかない魔法使いが二十一人も揃った魔法舎だ。毎日どこかでなにかしらの騒ぎが起こっているけれど、これはそういった類の物ではない気がする。
フラスコの下に置いていたランプの火を止めた辺りで、廊下をバタバタと駆ける足音が聞こえた。
「フィガロ先生!」
「フィガロ!賢者様が!」
ドンドン、とフィガロの部屋のドアと叩く音と共に、ミチルとリケが半ば叫ぶようにフィガロを呼んでいる。
リケが叫んだ呼称に嫌な予感を抱きつつ、部屋の扉を開ければ、勢い込んだミチルがフィガロの白衣をぎゅっと掴んだ。
「フィガロ先生、大変なんです!」
「賢者様が、怪我をして戻りました」
「いま、レノックスさんが運んできてくれます。僕たち先に先生に知らせてっていわれて」
「そっか、分かったよ、ありがとう」
焦りの色を浮かべる二人の頭を撫でて、フィガロは私室の横に設けた診療室を開ける。
「フィガロ先生」
そのタイミングでちょうど、腕の中に賢者を横抱きにして危なげなく運んでくるレノックスと、その後ろに西の師弟を認めて、フィガロは大きく診療室の扉を開いた。
「レノ、賢者様は手前のベッドに寝かせてくれる?」
「分かりました」
真っ白な賢者の服を血で染めた晶が慎重にベッドへ寝かせられる。
「何があったか手短に聞かせてくれるかな?」
ベッドに寝かされる晶を見守っていた二人が一度顔を合わせて、それからゆっくりと青ざめた顔を強張らせながらもクロエが当時の状況を説明し始める。
たどたどしいながらも、分かる限り当時のことを理性的に説明できるクロエに、時折ラスティカが補足する形だ。
会話が脱線しがちなラスティカではなく、西の中でも割と常識的なクロエのお陰で、当時の状況をしっかりと知ることができるのはありがたいことだ。
「で、男の子を賢者様が庇って、噛まれちゃったんだ」
「そいつに毒はなかった?」
「うん、毒はないってムルもシャイロックも言ってた」
「わかった、ありがとう」
血濡れになった賢者の服を脱がせて処置の準備をしながら聞いていたフィガロは一度手を止めてクロエへと向き合う。
「ごめんなさい、俺たちが一緒にいたのに……」
「今回のことは不可抗力だろう。大丈夫、フィガロ先生が傷跡の残さず綺麗に直してあげるよ」
ミチルやルチルにしてあげるように頭をぽんぽんと撫でてやれば、安心したようにクロエがぎこちないながらもはにかんでみせた。
「さあ、じゃあ処置を始めるからね。みんな一度部屋を出て」
「……わかった」
「よろしくお願いします。フィガロ様」
聞き分けのいいレノックス含めた三人は素直に廊下へと出て行った。
処置室の外でそわそわと待っていたリケのミチルが賢者の容体を案ずる声が小さく聞こえてくる。
丁寧に閉められた扉を確認して、青白い顔色でベッドに横たわる賢者へと向き直る。
服を脱がせて露わになった右肩は、一応止血はされているけれど、噛みつかれた形に皮膚が引き攣って痛々しい。
「……う、」
引き攣れた傷口に指先を触れると、薄い皮膚が感覚を過敏にしているのだろう、小さく呻いた賢者が薄らと目を開けた。
「フィガ、ロ?」
「大丈夫?賢者様」
「おれ……」
「怪我してラスティカとクロエがここまできみを運んできたんだよ」
告げると、ひとつ、ふたつと瞬きをした賢者様がはっと目を見張る。
「そうでした、任務の途中で」
「無事に魔法生物は討伐したって。治療するから大人しくしててね」
「すみません、ご迷惑……フィガロ?大丈夫ですか?」
「え?」
弱々しい声で、こちらの心配なんてしてみせる賢者に思わず硬い声がでた。
この場で大丈夫ではないのは、間違いなく賢者ひとりだ。
「俺は大丈夫です、だから、そんな顔しないでください……」
そんなに血塗れになって、血の気のない青白い顔で、弱々しい声で、何が『大丈夫』だというのだ。
呪文ひとつで石にしてしまえるような生き物相手に怪我をして、死にそうになるほどの弱い生き物だというのに……。
「やっぱり、無理だよ」
小さく溢れた声は賢者の吐き出す荒い呼吸にかき消されてしまった。
「傷跡ひとつのこさず、綺麗に消してあげる」
『神様』のように整った温度のない笑みを浮かべたフィガロが晶へと手を翳す。
「ポッシデオ」
純度の高い氷を割るような、キンと澄んだ美しい音と共に、緑と淡い青の混じった光が晶を包み込む。
その光に包まれながら、晶の意識は再びゆっくり沈んでいく。
「ごめんね」
ぽつりと、ひどく寂しそうな声が、いつまでも耳に残った。
2.
薬草と消毒とお日様の匂い。
心を落ち着かせるような香りを認識しながら、ゆっくりと瞼を押し上げる。
「あれ、賢者様目が覚めた?」
どこか見覚えがあるような、でもやっぱり見覚えがないような天井を見上げて瞬きをしていると、聞きなれない声と共にこちらを見下ろす男の顔が視界に入った。
毛先にいくにつれて少し色が薄くなっている群青色の髪、芽吹きの色を孕んだ薄曇りの空色をした瞳。
上品に整った容貌をした男の人だ。
白衣を肩に掛けた、医者らしき男は不思議な光彩の瞳を少し曇らせて、心配そうにこちらを見下ろしている。
「賢者様?大丈夫?」
確かに自分は、この異世界に召喚されて『賢者』と呼ばれ、賢者の魔法使いと共に生活を共にしているけれど、こんな親し気に自分を呼ぶこの男と知り合いになった覚えはない。
「えっと……」
まずは現状を把握しよう。
視界を横にずらすと、見覚えのない部屋のベッドに寝かされているようだ。
部屋の中に作りつけられた棚には薬草や魔法薬の入った薬瓶がいつくも収められている。
「あの、貴方は、誰ですか?ここは……」
「賢者様?」
訝し気に男が晶を呼んだ時だった。
「賢者ちゃーん!」
「フィガロや、賢者ちゃん起きた?」
ノックもなしにバン、と開け放たれたドアから、揃いのケープの付いた衣装を纏った双子が飛び込んできた。
「スノウ、ホワイト」
「賢者ちゃん!目が覚めたんじゃな!」
「よかったよかった、具合はどうじゃ?」
北の魔法使いであり、賢者の魔法使いの中で最も古い、双子の魔法使いであるスノウとホワイトンの姿を認めて、晶は無意識に身体に入っていた力を抜く。
ゆっくりと肘を立てて、ベッドの上に起き上がれば、ベッドの真横へと迷わず駆け寄ってきた二人が晶の手をそれぞれ片方ずつ取る。
「大変じゃったの」
「なかなか目覚めんから心配しておったのじゃ」
慈愛の籠った優しい二対の瞳が晶を見上げる。
「……俺は確か……」
「任務の途中で怪我をしたのじゃ」
「西の国での任務じゃな。覚えておるか?」
こくり、と頷く。
確か、魔法生物に襲われそうになった男の子を庇って、右肩を噛まれたのだ。それからラスティカとクロエが助けてくれて、それから……。
「えっと、ここは魔法舎、ですよね?」
恐る恐る尋ねてみれば、スノウもホワイトも、そして二人の後ろに経っている白衣を羽織った長身の男も、なんだか深刻そうにこちらを見ていて、落ち着かない気分になる。
「あの……?」
「賢者ちゃん、自分が誰だかわかる?」
「真木晶、です。異世界からこの世界に呼ばれてきた」
「ふむ、我らのことも分かっているようじゃな?」
こくりと頷けば、思案顔で双子が顔を見合わせている。
「じゃあ、この男は?」
スノウが白衣の男を指差しする。
「……すみません、その、分からなくて……スノウとホワイトのお知り合い……?」
双子の表情が分かりやすく曇っていくのと同時に、こちらを見下ろす男の顔から表情がすっと抜け落ちていく。
能面のような表情をした男が、感情の乗らない瞳でこちらを見下ろしている。
「賢者、賢者の魔法使いは全部で何人じゃ?」
「二十人、ですよね」
さきほどからよく分からない質問ばかりされるのは何故だろう?
混乱しながらも答えれば、いつの間にか手を繋いでいた双子が呪文を唱える。
「「ノスコムニア」」
淡い暖かな光が一瞬晶を包んで、すっと収束していく。
それを見守っていた二人がぎゅっと眉を釣り上げて、背後に立っている男を睨み上げた。
「まったくもって愚かな子じゃ」
「まったくもって馬鹿な子じゃ」
急に男を糾弾しだしたふたりについていけない。
男は二人に詰られても言葉を返すことなく、ぎゅっと唇を引き結んでいる。やはり、瞳は渇ききったように、感情が伺えなかった。
なぜだかその瞳をみていると、心の奥が騒めいて落ち着かない。
再びくるりとこちらに向き直った双子は、晶を落ち着かせるように、優しく手を握ってくれる。
「心配はいらんぞ、賢者」
「病み上がりでまだ疲れておろう。少し眠っているとよい」
ゆっくりと上体を倒すように誘導されて、それに抗わずに横になれば、そっと額を撫でられた。
「おやすみ、賢者よ」
「おやすみ、賢者ちゃん。よい夢を」
やさしく身体を包み込む熱を感じて、意識がすっと溶けていく。
――ああ、魔法を使われたのだな、と認識する前に、深くて優しい眠りの底に沈んでいた。