アズフロまとめ『爪』
「アズールさ、爪きれーにしてるよね」
書類仕事は飽きる確率の高い幼馴染が、ふと気まぐれに呟いたのにアズールは手元から視線を上げた。確認する気分のうちに計算を終わらせたのか、書き込みの見える紙束が鎮座する前で、頬杖をついた金とオリーブの目がこちらを見ている。下がり気味の目尻が決して優しそうには見えないあたりは普段の行いというやつだろうか、可愛く見えるのは間違いなく贔屓目であることは自覚できた。今は離席している彼の兄弟がここにいたならうんうんと頷いていただろう想像が頭を過ぎるのをそっと振り払う。
爪、と言ったか。紙を捲るために手袋を外した自分の指先はゆるやかなカーブを描いている。深爪ではないがどちらかといえば短めのそれは、手袋をする際に邪魔にならない程度に整え、かつ多少の衝撃から皮膚を守る役割はきちんと果たせる長さとカーブを保っている。髪一本から足のつま先まで、かのポムフィオーレ寮長ほどではなくともアズールは己の見栄えに気を使っている上に、タコの人魚である故かそれなりに感覚の鋭い指先は大切なセンサーの一つだ。温度も、形も、感触も、条件が揃えばそれ以上に多くの情報をそこから得ることができる。
「ええ、もちろん」
思い出すは一昨日の夜。しなやかな筋肉を覆う皮膚の溝をゆっくりとなぞった。覚えている、へその上をたどり、首元まで滑らせるまでの間に滲んだ汗の温度。引っ掛かることなど一度もなかった爪の先、滑らかな皮膚の下で呼吸が乱れる振動を。
「お前を傷つけるといけませんから」
つう、とフロイドの視線を横に切るように空を撫でて見せる。人魚には縁遠い空の青さを宿す目が、真っ直ぐにフロイドを射抜いた。
『匂いの海』
柔らかな銀の髪に手を伸ばして指で遊ぶ。寮長室のベッドは本を読むアズールに加え横にフロイドが寝転がっても十分な広さがあった。海から陸に上がった途端に窮屈になったものは多いが、寝床が平面のみとなり狭まったとも言えるこのベッドというものをウツボの人魚はそれなりに気に入っている。毎日シワ一つなく整える兄弟ほど大切に扱ってはいないが、常に流れている水と異なり、匂いを留めることにおいて布というものは存外優秀だった。ごろり、と枕に顔を埋める。鼻を通り抜け胸に満ちるアズールの匂い。
海において匂いとは痕跡であり、存在証明である。フロイドは気に入っても気に入らなくてもその時意識に入れた相手を尾びれで両手で絞めてきた。悲鳴と共に鼻腔に入り込む匂いは、締めた相手が気に食わなければさっさと消えてほしいものであり、好ましい相手であれば気分が向く限り味わっていたい。
コロンと、アズール個人の匂いが肺の奥底にまで染み渡る。海では至近距離にいなければ味わえないそれである。ちらりと隣を見ると今なお集中し続けている横顔がまるでこちらのことなど忘れているかのように真剣であるので、いくら部屋に入る時の条件とはいえ気に食わない。
枕を立てて背を預け、ひょい、と恋人を持ち上げた気まぐれなウツボは、足の間に何やら文句を言っているタコを配置し直し首筋に顔を埋めた。
「アズールの匂いがする〜」
「お前、たまには可愛いことも言うんですね」
「は?」
ぽん、と本が遠くに置かれる。読むのを諦めたらしい部屋の主は背にぐっと力を入れた。体格で言えばフロイドが上回るが、力勝負となればアズールが勝つ。しなやかな筋肉の上、鎖骨に後頭部を押し付けてアイスブルーが力づくで自分の首から引き剥がしたゴールドとオリーブを見上げた。
「そうやって嗅ぐくらいには僕の匂いが好ましいんでしょう?」
「そうだけど」
「僕もお前が僕の匂いを纏っていると気分が良い」
人間は不思議ですね、匂いを嗅がれるのを嫌がる人が多いそうです。
そう言いながら伸びてきた腕が、有無を言わさずフロイドの襟ぐりを掴み顔を引き寄せた。
「所有欲はそれなりにありますがね。フロイド、誰のものでもないお前が僕の匂いをつけたまま好きにフラフラ泳ぎ回って、最後には僕のところに戻ってくるのがたまらなく可愛いんです」
溺れるようなキスをしているとき、匂いなどわかるはずもない。タコに食いつかれる喜びを知るウツボは、見下ろす先にある爛々とした光を宿す空の青に沈んだ。
『銀変幻』
海中で魔法石が幻想的に放つ光のように、モストロラウンジの照明を溶け込ませる紫がかった銀の髪がフロイドの眼下で押さえ込まれている。座る銀の髪に喉を沿わせて顎を置くなど、アズールがよほど深く考え事をしているときにしかできない。左耳の前に除けられているひと房を指でくるくると遊ぶと、きらきらと光の粉が舞うように反射するのがフロイドの一番のお気に入りだった。襟足の刈り上げが背を揃えられた直後に手のひらで触れるとちくちくと皮膚を撫でてくるのは二番目だ。三番目は海の中で水を含んでいる硬質な銀色。住処で本を読んでいるときは銀食器のように硬質で、泳ぐことで海流に揺れる様は海藻よりも柔らかそうに見える。面白えの、と本人に言ったこともあるが理解できないという顔をしていた。フロイドとて共感は端から望んでいなかったので別に構わないのだが。
呼吸に合わせて銀が揺れる。目を閉じてわずかに脱力しても、おそらくは無意識で体幹に力が入ったのか銀色はびくともしなかった。コロンと整髪料の混ざる香り、顔に触れる柔らかな感触。魔法でセットをしているそれは、体を離してしまえばすぐに元通りになってしまう。この銀の髪の持ち主は、ともすればポムフィオーレのベタと同じほどに乱れることを嫌うのだ。指を差し込んで掻き上げたときの色も好きなウツボにとっては時折それが残念でならない。
銀色は三度印象を変える。海の底から真上を見上げた時に透過する光のように、温度の消えた輝きを持つ。当人が執着する体型について美しさを見出したことはないフロイドであったが、至近距離で見る光を透かした髪は綺麗だなと思うことがある。かじりついても美味しくはなかったが。
「……重い」
「んー?」
思考の海から戻ってきてしまったらしい。文句が飛んできたもののまあいっかと無視をして、フロイドはぐりぐりと頬をつむじに押し付けた。やはり魔法のないときの、風呂上がりの髪のほうが良い。
「アズール、今日オレ部屋泊まりに行って良い?」
「構いませんけど髪は弄らせませんよ。早く寝たいので」
「勝手にいじるからいい」
良くない、と言われる前にうるさい口を軽く塞ぐ。声を口内に飲み込んで満足し、ソファから離れようとして、いつの間にか伸びてきていた腕に顎が捕まる。首を捻ってかじりついてやろうとすれば、下から強い力で引き寄せられて気がつけばキスの主導権が奪われていた。
「気が変わりました。僕の髪でお前が遊んでいる間、」
対価に好きなだけお前をいただきますけど構いませんね?
眼下の銀色は、四つ目の色を持つことをフロイドは思い出した。
明かりの落ちた部屋の中、指先でたどる銀の糸は、飽きるほどに見た自分の発光体の光のように、夜の海で唯一縋る色だった。