7章妄想マレエー『眠りの森の王子』そこは常に薄暗くカーテンが引かれた部屋だった。
自らが授けた祝福の番人として夢を渡り歩き、全ての者の安寧が守られていることを見届けてから、マレウスはいつも一番最後にエース・トラッポラの夢を訪れる。
何でも好きにして良いと言われたら、すぐさまにでも大勢いる友人達と街や海や遊園地に飛び出して行きそうな快活な印象に反して、祝福の夢の中で少年はいつも一人微睡んでいた。
今も薄暗い部屋の中で、ベッドの上に全裸で横たわって眠っている。
その部屋はマレウスには馴染み深いモノトーンに暗紫色を基調とした家具が置かれていて、どう見てもディアソムニア寮のマレウス自身の居室だった。
本来なら、この部屋を訪れたことがない少年が内装を知るはずがない。
だからマレウスはここを訪れる度に、この夢が本当にエース・トラッポラの夢なのか、マレウス自身の夢に少年を閉じ込めているのか混迷した。
恐らく、マレウスの意思も混ざわり合って、彼を自室に閉じ込めてしまっているのだろう。
マレウスが訪れると少年は花開くように目を覚まし、うっとりと嬉しそうに微笑んだ。
おかえりーと呑気に言う声は場違いなほど明るく、マレウスが思い描く通り、記憶のままのエース・トラッポラだった。
だからますます、これが誰の夢なのかわからなくなる。
寝台に腰を下ろし、相手の顔を覗き込もうと屈み込むと、少年が若枝のような両腕を上げてマレウスの首にしがみついてくる。そのなめらかな背中に手を添えて暖かい裸体を抱き抱えた。
エースは、いつの間にか寮服に姿を変えたマレウスの鎖骨に鼻先を擦り付けて、匂いを吸い込むように深く呼吸をすると唇を寄せて吸い付いてくる。
くすぐったい感触にマレウスが喉を震わせて笑うと、少年も楽しそうに弾けるような笑い声を上げた。
手袋を消した手で、まだ少年らしく華奢な身体を抱きしめ、丸く形の良い後ろ頭を撫でる。柔らかい髪の感触は小動物の背中を撫でるように心地が良い。
もともとマレウスにとって、学園内で注意を引く存在は同郷の昔馴染みだけだった。
そこに今年に入って急に割り込んで来たのがエース・トラッポラとその仲間達だ。何かと問題を起こしては、面白い噂話が大好きなリリアから話題に上るようになり、同級生の友人として付き合いのできたセベクからも度々話を聞くせいで、エース・トラッポラの名前は世情に疎いマレウスすらも覚えてしまった。
何度か遭遇した奇妙な縁で話をするようになった人の子も、格別に仲良くしていると聞く機会があり、その後、ハロウィンや誕生日に直接対面して言葉を交わして、エース・トラッポラの怖い物知らずな物怖じしない態度や、見る者の気を反らさない明るく華やかな愛嬌は噂通りだとマレウスも感じるようになった。
しかし、それだけなら顔見知り程度の下級生でしかない。
彼の夢が、マレウスの気を引いたのは、最初に訪れた時に少年が自慰をしていたからだった。
何でも望みの叶う夢の中で性的な欲望を果たしている者は少なくはなかったが、その場合は誰もに性愛の対象が存在していた。
夢の中でまで一人で欲を満たすのは何故なのか、思わず興味深く見守っていると、マレウスに気付いた少年は濡れて光る赤い果実のような瞳を兎のように軽く見張って、じっと見つめ返してきた。
その顔に、ふと違和感を覚える。
いつも左目尻を彩っているハートの紅がない。
それだけのことで、驚くほど幼くいとけなく見える。
「……マレウス先輩……?」
ぱちぱちと瞬きをする目尻の上がった瞳は、オーバーブロットしたマレウスの姿に驚いているのだろうが、怯えて逃げるような素振りもなく、興味深そうに凝視してきた。
ベッドの上で衣服を乱して自らを慰める姿は幼げに見えるだけに倒錯的な光景だった。
誘われるように近付いて手をさしのべ頭を撫でると、汗に湿った髪の感触は動物の子供のように柔らかい。
エースはうっとりと目を細めて、マレウスの手に頭を擦り付けた。
「…マレウス先輩…もっと…」
誘われるままに、なめらかな頬を撫で首筋を撫で下ろしシャツの襟足に掌を差し入れて肩の丸みを撫でると、少年は小刻みに震えながら目を閉じて唇を噛み締めていた。
眉間に寄った皺に口付けると、ぱちっと音がしそうなほど大きく赤茶色い目が見開かれる。
赤は警告色だ。
自然界では、毒がある植物も多い。
だが、甘く豊潤な果実にも多い誘惑の色だ。
色の浅い唇が開かれて濡れた赤い粘膜が覗いた。
少年の言葉を待たずに、マレウスはその唇を塞いでいた。
口内に差し入れた舌で、とろけるように柔らかい相手の舌を絡めとる。
見開かれた赤い瞳は潤んで、ゆっくりと閉ざされた。
夢の中では時は過ぎないが、何処かで不穏なことが起きて、誰かの平和な夢が醒めかけているかも知れない。
少年の甘い肉体を思う存分に味わい尽くして満足すると、マレウスは再び自らの授けた祝福の夢の見回りに戻ろうとした。
魔法で着替えた制服の裾を引かれて振り返ると、ベッドの上に裸で寝そべった少年が指先で掴んで引っ張っている。
「…行っちゃうの?」
マレウスは、どんな顔をしたら良いのかわからなくなる。
これは確かにエース・トラッポラが望んで見ている夢の筈だが、彼の夢の中に入り込んでいるのはマレウスの望みなのだ。
夢から覚めないようにと魔法を掛けているのはマレウスの方なのに、エースの方が自分の夢の中にマレウスを閉じ込めようとしているようでもある。
「行かないでよ。一人は寂しいし……ずっとここにいてよ」
ここは、エースの見る夢なのだから、寂しいのなら誰でも呼び寄せることができる。マレウスすらも、作り出すことが可能だ。そして、このベッドの上で、先ほどまで自分達が行っていたような激しい愛慾の行為を続けることもできた。
マレウスの喉は詰まって、そうすればいいと言うことができなかった。
それはとても不快なことのように思えたからだ。
エースの夢の中で、エースの望みを叶えることを拒むのなら、それは祝福とは呼べなくなってしまう。
「ね、ここで、ずっと一緒にいようよ」
キラキラした赤みの強い瞳が、楽しいことに誘うようにマレウスを見上げた。
手を握られて引っ張られる。
魔法に掛かったように、マレウスは少年に引かれるままにベッドの上に身体を横たえていた。
暖かい身体に抱きつかれて足をからめられると、もう他のものは何もかもどうでもよくなってしまう。
「…僕は、行かなくてはならないんだが…」
口先だけの抵抗を呟きながら、少年の柔らかい髪に鼻先を埋める。湿って暖かい生き物の感触がした。
「なんで?ここにいてよぉ……だって、これ、オレの夢でしょ?」
途端に、ひやりとする。
脳が痺れるような甘い幸福感が一瞬で霧散して、冷たいものを押し付けられたような衝撃を受けた。
まさか、エースが醒めているとは思わなかった。
こんなに近くで、ずっと見守っていたのに、何故醒めているのかわからなくて混乱する。
「これ、オレが見てる夢じゃん。こんなこと現実にあるわけないもんね」
エースの言葉を聞いて、マレウスは詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
エースはまだ、醒めていない。
夢の中にいる。
これは夢だと思っている夢を見ている。
エースがこんな夢を見ているのかと思うと、マレウスの胸はざわめき、身体の内側から熱いものが沸き上がるように感じた。
「……お前の見ている夢なのか?」
「うん、そう……オレ、気持ち悪いよね……ごめん」
「謝ることはない。ここは、お前の夢なのだから、お前の望みは全て叶えてやろう。何でも言ってみろ」
「じゃあね…ぎゅって抱き締めてよ」
「ああ」
「それで、ずっと側にいて」
「うむ…だが、僕にはやらなくてはならないことが……」
「はあ?!何でも叶えてやるって言ったじゃん!これ、オレの夢だろ?!」
「…そうなんだが……そうだな……そうだった。ここは、お前の夢の中だ。何でもお前の思い通りにしてやろう」
「ちゅーして」
「何度でも」
「んふふ…あー…オレ、幸せ。ずっと目が覚めなくて良いや……」
「……ああ、そうだな……僕もだ……」
エース・トラッポラの夢の中に閉じ込められたマレウスは、他の者達の夢の管理を怠った。
そのために、醒めることがないようにと願った夢から引きずり出されることになる。
世界規模の災害となるはずだったマレウス・ドラコニアのオーバーブロット事件は、目が醒めた学園内の全生徒と教員と外部の協力によって、被害を拡大することなく終了した。
その後、マレウスはリリアに怒られ、セベクやシルバーには泣かれ、学園長にはねちねち嫌味を言われ、他寮の寮長達から散々に文句を言われたり、からかわれたりもしたが、まだまだお目付け役としての自分が必要なことがわかったリリアは卒業までは側にいてくれることになったし、結果的には、かなり楽しく残りの学園生活をエンジョイできそうなので、ご満悦だった。
ごね得である。
あまり、反省はしていない。
廊下でエース・トラッポラに遭遇した。
遭遇したと言うのは、実は正しくない。
鏡の間に向かって歩いているエースを待ち構えていた。
マレウスを見たエースは一瞬足を止めて、無表情のまま軽く会釈をしてすれ違おうとする。
現実に目の前にする少年は素っ気ない態度で、あの夢の中のように甘やかな笑顔を見せてはくれなかった。
思わず腕を掴んで引き留めると、エースはびくりと身体を跳ねさせたが、怖い顔でジロリとマレウスを睨み上げてくる。
猫のように目尻の吊り上がった赤みの強い瞳。
左目尻にはトレードマークの赤いスートがあり、アシンメトリーなバランスが少年の顔を大人びた蠱惑的な表情に見せている。
怯えられることは多いが、不機嫌な顔を向けられることは滅多にないので、マレウスは驚きを覚えた。
そして、やはり、このエース・トラッポラが、あの夢の少年なのだと確信する。
ただの下級生が、マレウス・ドラコニアに対して、こんな横柄な態度でいられるわけがない。
「……なんすか?」
機嫌の悪い低い声で問いかけられると僅かに怯む。
明るく柔らかい彼の声を鮮明に覚えているので、不機嫌な声には戸惑いを覚えた。
「……お前は……僕のことが好きなんじゃないのか?」
「……はあ?!」
「僕の夢を見ていただろう?」
エースは一瞬言葉に詰まると、気まずそうに目を反らした。
少年らしい丸みの残る頬が羞恥に染まり、すぐに俯いて表情を隠してしまう。そのまま無言で逃げるように立ち去ろうとするので、マレウスはエースの腕を掴んだ手に力を込めて引き止めた。
「……ただの夢でしょ」
「夢は見る者の願望を顕にするものだ。あれが、お前の望みなんだろう?」
「違ぇよ!あんなの、オレじゃねぇしっ!」
「……声が大きいな。ここでは目立つ。僕の部屋に来るか?」
マレウスの誘いにエースの赤い目は迷うように揺らめいたが、しばらくの逡巡の後に頷いた。
「……行く」
了承を得たマレウスは、次の瞬間にはエースを連れて寮の自室に転移していた。
突然の瞬間移動にエースは身体を強張らせていたが、訪れたマレウスの部屋を見ると赤い目を兎のように丸くしてぱちぱちと瞬かせる。
「ここ、知ってる…来たことがある」
「……そうだな」
不思議そうなエースの呟きに、マレウスが同意する。
「夢の中の部屋だ……なんで?ここ、マレウス先輩の部屋なの?オレ、ここに来たことある?」
疑問を口にしながらも、賢い少年はすぐに自分で答えを導き出した。
「あれはオレの夢じゃなかったんじゃん?」
「いや、お前の夢だ」
「でも、オレの夢ならマレウス先輩の部屋なはずないでしょ。来たことないんだから」
「あの部屋は……恐らく、僕が作った」
「……おかしいと思ったんだよなー……なんで、マレウス先輩?ってさー……」
「トラッポラ、お前の夢は何だったんだ?」
今となっては、エースが夢の中で最初に誰を思って自慰をしていたのかが非常に気になる。反応を見ると、当然のことながら、マレウスが相手ではなかったのだ。
「……うーん……オレは別になりたいもんとかないし、今の生活に満足してるんだよね。ちょこーっと不満なのは、4人部屋だからオナニーできないってことくらいかなーって……」
それでは、エースの夢はシンプルに一人の部屋で気兼ねなくマスターベーションを行うことだったのだ。
唖然として呆れるマレウスに、エースは悪びれずに能天気に笑って見せる。
左目にはハートのスートが描かれているが、その笑顔は夢の中の少年と変わらず、屈託がなく可愛らしかった。
マレウスは思わず手を伸ばす。
手袋を溶かすように消し去って、素手でエースの頭を撫でた。
ふわりと柔らかい髪の感触は夢の中と同じだ。髪の流れに反って撫で下ろすと、後ろ頭の丸みは丸くなって眠る猫の背中のようだった。そのまま項を撫でて制服のシャツの襟足に指を滑らせる。
エースは身動ぎもせずに、マレウスの手を拒まなかった。
抱き寄せて髪に鼻先を埋める。
夢とは違う生々しく湿った感触と、汗と埃と生き物の匂いがした。
マレウスの産み出した祝福の夢はリアルな臨場感があり、現実とほとんど同じはずなのだが、匂いや痒みなどの微かな不快感までは再現していない。
マレウスの魔力なら些細なディテールも完全再現するリソースが十分にあるのだが、それらの不快や不具合はノイズになり夢の妨げになるから消されているのだ。
今、マレウスは夢の中で何度も抱き合った少年の身体を腕の中に招き入れて、その暖かさや華奢な硬い感触には既視感を覚えつつも、相手の匂いや吐息や心臓の音という小さいが小さいからこそゼロ距離の今しか知覚できない感覚に敏感に反応していた。
とても生々しく、生きているという感じがする。
相手が生きていることを知覚する時、抱き締める掌にすら意識が集中した。
力が強すぎないか、どう思われているのか、嫌がられていないか、今まで覚えのない緊迫感に苦しいほどだ。
しかし、離れたいとは思わない。
1日学園で授業を受けて、汗の匂いや思春期の少年らしい生き物の匂いを発している少年を全く不愉快に感じない。
良い匂いというわけではないのだが、何故か不思議と心踊るような、好きな匂いだった。
高い鼻梁を旋毛に押し付けて匂いを嗅いでいると、エースが嫌がってマレウスの胸に腕を突っ張るようにして身体を離そうとする。
ムッとして、ますます強く抱き抱えたが、ふと自分の方が嫌な匂いを発しているのではないかと思い至った。
エースの汗の匂いはマレウスにとって好ましいものだったが、自分の匂いを相手がどう感じているのかが気になって、慌てて身体を離す。
急に引き剥がされたエースはぱちぱちと瞬きしてマレウスを見上げた。
「……何?」
「……いや……匂いがしないか?」
「え?!……マレウス先輩は、いつも花みたいな匂いがするじゃん。オレのが汗臭いでしょ。今日、体育あったし」
3年生にもなると消臭や香りの魔法を習うし、洒落気のある者ならコロンを使用している。
マレウス自身は、体臭を消す魔法を普段から使っていた。
「衣類についている洗剤の香りだろうか……」
「えーっとぉ……着てない時も、花の匂いだったんだよねー」
「それは、お前の夢だからだな。花の香りが好きなのか?」
そう囁いた時には、もうマレウスからは花の香りが溢れ出ている。
エースがそれを好きだと知った瞬間から、脳死で魔法を使っていた。
「好きなのかな……わかんねーけど……マレウス先輩の匂いは好きだよ」
エースの言葉にマレウスの脳内には花が咲き乱れるような極彩色に満ち溢れた。
「僕も好きだ……お前の汗の匂いが……」
「は?!……え、いや……それは、ちょっと……」
顔を伏せて戸惑ったように言い澱む相手の様子に、世情に疎いマレウスでも自分の発言が気持ちの悪いものだったという自覚が遅れてやって来る。
慌てて言い訳をしようと長身を屈めるようにして伏せられた顔を覗き込むと、エースの顔は髪色に近付くほど赤く染まっていた。
「……はずいじゃん」
尖らせた唇が呟く。
マレウスは息苦しさを覚えた。
呼吸を止めていたからだった。
動物の子供のような愛らしさ。
挑発的な赤い瞳。
物怖じしない大胆さと、少年らしい物慣れなさ。
エース・トラッポラの全てがマレウスを捕らえる罠だった。
夢の中に閉じ込められたのは、やはりマレウスの方だったのだ。
捕らえたエースには、そのつもりはなかったのだろうが、開かれていた扉の中に入ったマレウスは、その快さに魅了されてしまった。
その後、現実に行おうとした性行為は、夢の中のように都合良く上手くはいかず、思いがけない忍耐力を互いに強いられることになる。
しかし、彼らは諦めが悪くて負けず嫌いなNRC生だったので、時間を掛けて目的を果たした。
「その内、お前のことを閉じ込めてしまうかも知れない」
現実にエースを手に入れてもマレウスはまだ満足できない。
リリアの件で側にいる者が急にいなくなることがあるのを知ったせいだった。
どこかに閉じ込めて、永遠に自分だけの物にして安心したい。
一番の望みは、あの部屋に戻って怠惰に二人きりで、いつまでも少年の身体を貪り続けることのように思えてくる。
「へー……それも良いかもねー」
マレウスの妄執をエースは平然と了承した。
あの夢はもともとはエースの夢なのだ。
マレウスを拒まずに受け入れたのもエース自身で、ずっと放さずに引き留め続けたのもエースの意志だった。
過去に拘らず、先のことは何も考えずに、ただひたすら快楽の夢を貪り続ける退廃的な暮らしを、エースも時折夢見てしまう。
「その時は、オレが退屈しないように、ずっと一緒にいてよね」
王子様を閉じ込めてしまうことができたなら、その眠りの森は今度こそ永遠になるだろう。