雨の帷 得物が迫る。
中段の突き、身を屈め搔い潜りながら背後へ。振り向いた反動を使い上段から一刀。
弾き返された木刀が、かん、と高く鳴く。
一歩退いて体勢を立て直す。右の得物を小太刀に持ち替え懐へ走り、続け様に三撃。
――掠った。
四撃目を繰り出しながら身を翻し、下段の突きを左手の太刀で弾く。弾いた太刀は弧を描き、そのまま再度下段から斬撃。咄嗟に振った小太刀では受けきれず、軽い音を立てて後方へ飛んで行った。一度退く。
互いに基本の構えをとりながら、間合いをとる。微かな呼吸と床板を擦る跫が静かな雨に吸い込まれる。
とん、と床を蹴り前方へ飛び出す。同時か。
――いや。
出遅れた。守りの姿勢で身構えながら押し込む。中段か。瞬時、目が合う。師は飛び退くように一歩退き、下段に切り替え突きを繰った。
――間に合わない。
薙いだ剣に脚を捕られ、重心を崩し倒れ込む。
上体を起こし肩で息をしながら、こちらを見下ろし静かに息を整える師を見ていた。
「また駄目やった」
「守りの判断が一呼吸早かったな」
「あんたの切り替えが早すぎるんやって」
剣を教わり十五年を越したが、未だこの人に勝つのは五度に一度が関の山だ。冷静に、堅実に、しかし柔軟に、相手の隙を突き確実に仕留める水戸天狗流の真髄。実戦での判断の早さも動きの読みも、師には遠く及ばない。
締め切った道場に雨音がじわじわと響く。入口には立入厳禁の札を掛けてある。
こうまでせねば、この人と満足に手合せをすることすら出来なくなってしまった。井上源三郎が沖田総司を超す剣客では拙いのだ。
井上は、齢こそ師よりやや下だったが剣の腕は衰えがみえ、ああ、頭の中と身体の動きが噛み合わぬのだな、と数度の打合いで伺い知れた。
この馬鹿げた成り代わりの為に、誰よりも強いこの人が吹けば飛ぶような雑兵に、剣も振れぬ老耄、などと嘲られるのが我慢ならない。この人は強いのだ。近頃増え始めた隊士が全員束になってもこの人には敵うまい。新選組で勝ち抜き戦でもしてやれば、この人以外は一人残らず土を付けることになるだろう。
「総司」
考えるうち、顔を険しくしていたとみえ、柔らかい声で呼び掛けられる。
そいつの名前で呼ばないで欲しい。本当の名を呼びたかったが、雨の帳に包まれた道場は、それでもあまりに声が響く。
「もう一戦」
お願いします、と言いつつ立ち上がる。今度は小太刀は無しだ。弾き飛ばされたままになっていたそれを拾い上げ、棚に戻す。
「いいのか?」
「あると頼ってまう。太刀だけであんたに勝てたらまた使う」
太刀一本で師に勝てたことは、まだない。
一礼し、基本の構え。視線と剣の切先を、一本の軸に通すように神経を流す。つい先程まで銀鼠の光が漏れ入っていた道場はいつの間にか夕闇に包まれ、師の姿も黒く融けた。
前方へ飛び出す。同時だ。視界には頼れない。気配を読む。
――中段。
片膝を付き、身を捩り滑り込みながら半回転する。下方から頭部に向けて一突き、弾かれた勢いを殺さず斬撃、と見せかけて下段の突き。たたん、と躱した師の足音が軽く響く。着地の瞬間を狙い、更に中段。
かん。
かん。
かん。
全て弾かれるが、構わず押し込む。
外では雨粒が公孫樹の葉を叩き、土に染み込んでいる。
沖田を斬った夜もこんな雨だった。この人と初めて会った夜も。
十を過ぎた頃だったと思う。その頃の自分は、偶さか知り合った重助とふたり連みながら、そこがどこかも分からぬままにその日その日で働いて、働き口が見つからなければ漁りや盗みを繰り返しながら、当てどなく江戸を徘徊していた。
あれが果たして何処だったのか訊かずにきたのでよく分からぬが、大きな屋敷や神社仏閣、田畑や町屋の入り混じる、江戸の境のような場所だったのを覚えている。
雨を凌ぐ場所もなく、路地とも呼べぬ家と家との細い隙間にふたりで挟まるようにして寝ていたが、どこか遠くから聞こえてきた、大人の叫び声で目が覚めた。悲鳴や断末魔の類ではない。怒号だ。数名の大人が、誰かを追っているようだった。後ろ手に重助をつついて起こし、ふたりでじっと身を潜める。
ややあって、男が一人するりと路地に入り込み、こちらに背を向けたまま外を伺っている。背後に自分達が隠れていることには気付いていないらしかった。侍の恰好ではなかったが、刀を二本差している。
怒号と跫が近くなる。
助ける?と重助に目線を投げかけると、そうしよう、と頷き返す。悪党なのかもしれないが、後で礼をせびれるかもしれない。
せえの、で、ぐい、と腕を引き、路地の奥に引きずり込んだ。ぴちゃりと泥水が跳ねる。男はそれで初めて自分以外にも人がいたことに気付いたらしく、盗人のような覆面の奥で面食らったような目をしていた。腕を掴んだまま、男に、しい、と身振りで伝え、横を重助がすり抜けて、期を見計らって通りに出る。お侍はん、あっち行ったで!と叫ぶ声が聞こえた。
その男は何を思ったか、ただの乞食だった薄汚れたこども二人をそのまま水戸へ連れ帰った。
かん。
木刀が鳴る。
そういえば、あの時のこの人は丁度今の自分ほどの齢の頃だったのではないか。随分大人だと思っていたが、当時のこの人には何とか追いつけているのだろうか。
横一閃、薙いで距離をとる。
こちらの剣を払うように下方から斬撃。受け流し、中段の突き。身を躱し上段から斬りかかるのを更に避け、上段の突き。
かん。
身を低くした師が勢いよく斬り込んでくる。連続して三撃。四撃。五撃。防御に徹しながら期を窺う。
六撃防ぎ、かん、と音の響くのと同時に両膝を付き股の間に滑り込む。背後から一刀。後ろ手に弾かれた勢いで一歩下がり、強く踏み切り、軸足を撓らせ、跳ぶ。基本の構えで上空から狙いを定める。太刀を振り抜く速さを利用し、強撃。がつ、と鍔が迫った。
暗がりに薄ぼんやりと顔が浮かぶ。
力比べなら若い自分に分がある筈だ。迫り合いを続けながら、じり、じり、と壁際へ追い込む。
とん、と鈍い音を立て、師の足が壁に当たった。
――追い込んだ。
刹那、軽い衝撃と共に追い詰めていた筈の身体がひらりと回り、視界から消えた。壁を蹴ったか。
顔の横に剣を構え、一刀防ぐ。そのまま胸の脇で更に一刀。常に背後から狙われる連撃に体勢を立て直しきれない。思い切って逆方向に旋回し、正面から叩き込む。木刀がぎしぎしと軋んだ。
十字に切り結んでいた剣がゆっくりと倒され、再び鍔迫る形になる。膠着。師が、くい、と腕を動かした途端、握り締めていた筈の木刀が抜け、からん、からん、と軽い音を立てながら道場の隅へ飛んで行った。得物を失い、呆気にとられて、一時、思考が鈍る。
ひゅん、と空気を割く音が耳元で鳴る。頭の横で鋭い突きが止まった。
「今……」
鍔を引っ掛けたのか。
「あんなん初めて見た」
「一度目の迫り合いをしながら思い付いて」
試せないかと期を見ていた、と照れたような顔で笑う。真剣では柄巻がある分、こうはいかないだろうが、とも。未だ研鑽を重ねる師に、感嘆するしかない。やはり新選組、いや、京の街中探したところでこの人を超える使い手はいるまい、と思った。
はあ、と息をつきながらその場に座り込む。師は、道具棚から置行灯を取り出し、同じように傍へ腰掛けた。
「いつになったら勝てるんやろ……」
「確実に腕を上げているよ」
焦ることはない、と言いながら行灯に火を入れる。じゅ、と音を立てて師の顔が薄く照らされた。
「初めてあんたの剣見た時の事、今でも覚えとる」
侍など、偉そうに刀を差しているだけの威張り散らした大人だと思っていた。長じてから分かったことだが、実際、士分にあっても碌に実戦経験もない者は殊の外多い。
刀というのはこうして振るものなのか、と思った。無駄のない動きに、目にも止まらぬ三連突。刃が陽の光に照らされてきらめいていた。
「お前も重助も目を輝かせていた」
今の俺くらいの齢やったやろ、と先程考えていたことを口にする。
「今のお前の方が余ッ程強い」
「ほんまかなあ」
鴨さん優しいからなあ、と言いながら床に倒れ込む。声に出してから、しまった、と思ったが、窘める言葉は聞こえてこなかった。少し考えて、そういえば今し方この人も同じ間違いをしたな、と思い当たる。横目でちらりと窺うと、小さく苦笑し、うっかりした、と呟いた。この人もこんな過誤をするのか、と思うと同時に、自分が気付かなければ誤魔化すつもりだったな、と少し可笑しくなる。
ごろりと転がり、師の膝元へ頭を寄せる。
すっかり夜は更け、雨脚は勢いを増している。湿った空気はひやりと烟り、濡れた土がしっとりと香った。もう今日はここへ来る者もいまい。
今だけは、と心で念じ、近付く掌に擦り寄った。