恋心 伊賀崎翔馬、高校二年生。彼は十七歳という年代の青少年であれば熱を上げて当然のもの──『恋』を馬鹿にしていた。
どんなに入れあげようと所詮他人である事に変わりはないのに、なぜそこまで夢中になるのか。自分を差し出そうとするのか。理想の形に相手をはめ込んで、違ったら失望するというのに。
恋なんて、馬鹿のするものだ。そう、思っていたのに。
「さーきーちー! おはよ!」
その声と共に翔馬の背中に衝撃が訪れる。軽い足音、晴れやかな声。振り向かずとも、翔馬にはこの突撃してきた主が誰か分かっていた。
「危ないだろう!」
「えへへ、さきちーが見えたから早くおはようって言いたくなっちゃって。ごめんね?」
眉尻を下げて申し訳なさそうな表情を作ろうとしているのに、どこか嬉しさが隠しきれていない。そんな顔で、丹羽さくらが立っていた。
「ぐ……。だからといって、人に飛びついていい理由にはならない! それに、お前だって怪我をするかもしれないだろう」
「心配してくれるの?」
「そ……、れは当たり前だろう。クラスメイト、なのだからな」
「さきちー、照れないで友達って言ってよー」
言えるか! 口に出そうになった言葉と、その続きを飲み込む。クラスメイトも友達も通り越して、好きな相手なんて口が裂けたって言えるわけがない。
そう、翔馬はあれだけこき下ろして馬鹿にしていたというのに、この台風のような少女に恋をしてしまっていた。いつから、と聞かれれば明確な時期は分からない。自分がさくらに恋をしたという事実を認めるまで、恐らく一年くらいかかった。
けれど一度自分の中で恋を認めてしまえば、さくらと過ごす時間でぐんぐんと恋心は育っていった。翔馬の中を、いっぱいに埋め尽くしてしまうように。翔馬はこの恋心を、扱いきれなくなってしまうのが怖かった。
「さきちーてば、何か考え事? 前見ないと危ないよ」
いつの間にか隣に並んでいたさくらが言う。ここでお前の事を考えていた、などと歯の浮くような台詞を言えれば、もう少し翔馬は恋をしながら生きやすかったのかもしれない。
けれど翔馬は、悲しいくらいに堅物だった。
「今日の授業の事を考えていた」
「まっじめー!」
嘘ではない、完全な出まかせではないのだ。実際、さくらが突撃するまでは今日の授業の事を考えていた。昨日の予習の範囲を脳内で振り返り、万全に備えていたのだ。
しかしさくらの顔を見てからは、そんなもの全部思考の彼方に吹っ飛んでしまった。さくらのそばにいると自分はおかしくなってしまう。しかしそれを知られてさくらに幻滅されるわけにはいかない。
さくらに嫌われたら翔馬は死ぬ。恐らく割と結構本当に。恋に本気になる人間なんてとてつもない馬鹿だと思っていたのに、今自分がそうなっている。
どうしてこうなってしまったのか、さくらを好きになったからか。まさしく阿呆のような自問自答をしながらも足は動いてくれるから助かる。
会話をしながら、というかほとんどさくらがしゃべって翔馬がそれに返しながら二人は学校への道を歩いていく。翔馬は脳を通さずにさくらの言葉に返していた。脳を経由したら多分変な事を口走る。可愛いとか、好きだとか。
いや、さくらが可愛いのも自分がさくらに惚れているのも紛れもない事実なのだが、それを素直にさくらに伝えられる性格でもキャラでもない。それにさくらは翔馬を友達としか思っていないのなんて痛い程に分かっているのだ。
気持ちを伝えたら、きっとさくらは困るだろう。彼女はきっと、どうしていいか分からなくなってしまう筈だ。優しいからこちらを傷つけないように、と考えるだろう。しかし自分の気持ちに噓を吐くのも不誠実だと思うだろう。
いや、さくらの事を慮るような理由を並べてみたが、ただ翔馬自身が臆病なだけなのだ。さくらに拒絶される事が、怖くて仕方がないのだ。
いつからこんなに弱虫になってしまったのか。こんな情けない面も、さくらには知られたくない。となるとやはり、この恋心は翔馬の中で育つだけ育って、外へ出て太陽の光を浴びる事はないのだろう。
そんな風に思考が後ろ向きになっていた翔馬の耳に、さくらの鋭い声が響いた。
「ていうか! あたしまだ、おはようって言ってもらってないんだけど!」
頬を膨らませ、怒っているぞ! と全身でアピールするさくら。しかしそんな膨れっ面すら可愛いと思ってしまうのだから、救えない。
「ああ、すまん。おはよう、丹羽」
そうだった。そんな事すら忘れていたのか、と自身を恥じて翔馬がおはよう、と返す。すると何がそんなに嬉しいのか、さくらは満面の笑みを咲かせていた。そんな彼女に、翔馬の心臓は一際大きく跳ねる。と同時に、胸の内で勝手に好きだ、という言葉が溢れ出す。
「おはよう!」
そんな何よりも眩しい彼女は、もう自分は言ったのにまた『おはよう』を翔馬に送ってきた。さくらはいつも、翔馬が彼女に渡せる以上のものを翔馬へ届けてくれる。
それは喜びとか、嬉しさとか、幸せとか、そういう名前の付くものだ。
恋は盲目、恋は人を馬鹿にする。よくいったものだ。恋を認めてしまった翔馬は、さくらの笑顔一つでこうも胸がかき乱される。
しかしそれは翔馬をこの上なく翻弄するくせに、最上の幸福を運んでくるのだ。さくらの声を聞くだけで胸が弾む。笑顔を見るだけでこちらも勝手に笑みを形作ってしまう。隣にいるだけで、今日が最高の日になると確信してしまう。
本当は全部全部、ずっと前から翔馬の中で起こっていた変化だった。
こんな幸福を認めなかったなんて、本当に大馬鹿者だ!