君は僕の心を惹く人 江灵魂はロバートの恋人だ。
彼とは高校時代からの付き合いがある。そして今はなんと母校で教師として一緒に働いている。
ロバートは体育教師、江は社会科の教師だから授業関係で関わる事は少ない。だが、終業後は一緒に飲みに行く事がままあるし。その席で、ここまで来ると腐れ縁だな、と江が以前言っていた。それに自分はどう返したんだっけ、とロバートは向かいの机でキーボードを叩く江を見てぼんやりと考えた。
江は良い教師だ。恋人の欲目を抜きにしてもそう思う。生徒にも結構人気があるし、他の先生達からの信頼も厚い。顔が良いものだから生徒のお母様方にも密かに人気だったりする。けれど、本人はその事に頓着していない。
どうしてかと尋ねたら、親しくなりすぎても面倒だと言っていた。江は基本的に人付き合いというものが好きではないらしい。彼が気に掛ける人間といえば、家族である兄と妹くらいだった。そこに友達というポジションで入り込んだ事は、ロバートの自慢の一つだったりする。更にそこから恋人関係へ発展した事は、ロバートの生涯で一番の僥倖と言っていいだろう。
今でこそ江は他の先生や生徒とも当たり障りなく普通に接しているが、昔の江は何と言うか、孤高という言葉が似合う男だった。
江は高校二年の年度始めにロバートの学校に転校してきた。クラスはロバートのクラスで、確かあの時は転校生が来るらしい、と話題になったのを覚えている。
高校二年の始業式の日。その日はクラス替えの盛り上がりよりも、転校生という珍しいニュースの衝撃の方が大きかった。
その噂の出所はどこだったのか分からない程、ロバートが登校した時にはその話題で持ちきりだった。
その転校生、つまり江がロバートのクラスに入ってきた時、美人だな、と漠然と思った。涼しげな目元も、少し長めの黒い髪も、とても綺麗だった。
江は転校生という事で一躍注目の的になったけれど、彼自身は積極的に人と関わろうとはしていなかった。勿論話しかけられれば最低限の受け答えはする。だが、教室の一番後ろの席でロバートには理解できないであろう難しそうな本を読んでいたり、イヤホンをして音楽を聴いていたりしている事が常だった。
そんな江に話しかける生徒は段々と減っていって、いつの間にか一匹狼、なんて呼ばれるようになっていった。
その事についてもきっと江は何とも思っていなかったのだろう。
でも、ロバートは違った。他とは一線を画した雰囲気の転校生の事が気になって仕方がなかったし、あわよくば仲良くなりたいという目論見があった。
それに、一匹狼──lone wolfという呼ばれ方には、ファミリーネームがウルフである事から勝手な親近感を抱いていた。
つまるところ、ロバートは江に尋常ではない興味があったのだ。そして、元来好奇心が旺盛であるロバートにはそれを我慢する事など出来なかった。
「なぁ、江」
「何?」
ロバートは教室に入るなりまず江の席に向か。何もせず窓の外を眺めている江の横顔はとても綺麗だった。して、声を掛けて振り向いたその涼やかな瞳に自分が映っているのだと思うと、なんだか柄にもなく緊張してしまう。
「僕、ロバート。ロバート・ジェーン・ウルフ。よろしく」
「知ってるけど」
「え?」
ロバートは驚いた。普段からクラスメイトと話しているところなど見た事のない孤高の一匹狼が、自分を認知していたという事実に。どきりと跳ねた心臓は、そのまま加速してひとりでに走り出そうとする。
「クラスメイトの名前くらい知ってて当然でしょ」
しかし心臓のスタートダッシュは失敗に終わった。江の言葉を聞いて、鼓動はたちまち落ち着いてしまったのだ。まるで一歩目で大転けしてしまったみたいに、鼓動は通常の速度へ戻っていく。
そんな風に感じる事を不思議に思いながらも、ロバートはそれは一旦横に置いておく事にする。
「で、用は?」
江の黒曜石のような瞳がロバートを見据えた。また駆け出そうとした心臓を必死に押さえ付けて、そこでロバートははたと気付く。
しまった。江に話しかけるという事だけを考えていて、何を話すかなんて考えていなかった。
「あー、えっと……」
ロバートは彼にしては珍しく、言葉を探すように視線を宙に彷徨わせる。普段は考える間もなく次から次へと言葉を繰り出す癖に、肝心なところでこの口は職務をさぼっているようだった。
ただじっと何も言わず江はロバートを見つめている。その怜悧な視線を浴びているとどうにも胸の辺りがそわついてしまって、思考がとっ散らかってしまう。
それでも何かを言わなければ、と思って口を開く。
「そう、教室!」
咄嗟に出した言葉だった。そのせいか想定より大きな声が出てしまって自分でも驚く。江もぱちくりと目を瞬かせていて、その表情にまた胸の奥が大きく跳ねた。
「次、移動教室なんだけどまだ江は校内に慣れてないだろ? だから一緒に行こうかと思って」
一度口を開いてしまえば、元来お喋りなロバートはするすると言葉を紡ぐ。
だが実際、これは出任せでもなんでもなく彼の善意から出た言葉だった。授業自体は数日前から開始していたが、移動教室は今日が初めてだ。
「そう。ありがとう」
江は言葉少なにそう言うと、教科書と筆箱を持って立ち上がる。そしてロバートを見つめた。
「……行かないの?」
「え、ああ、うん!ごめんな、今俺も用意するから待っててくれ!」
ロバートはリュックサックの中からペンケースを取り出すと、ロッカーから教科書を持って江の元へ戻る。一連のロバートのどたばたとした動作を、江は相変わらず涼やかな目で見ていた。
「よし、準備できた。行こう」
「うん」
ロバートは江と隣り合って授業の行われる教室へ向かった。普段友達と歩いている何の変哲もない廊下が何だか特別なもののように感じられてしまって、無駄に口数が多くなってしまったように思う。
しかし元から多弁なロバートの口数が増えたところで、大して何も変わらない。その上江がロバートとまともに話すのは今日が初めてだったのだから彼のそんな変化に気付く筈もなかった。
ロバート自身にすら理由も分からず回っている口に相槌を打ちつつ、江は転校してから初めて誰かと一緒に廊下を歩いた。
そんな初対面、ではないが彼らの初交流の後も、ロバートは飽きずに江の世話を焼いた。とはいっても彼が出来たのは、精々が教室の案内くらいだった。
江はクラスメイトだけでなく、教師の名前と担当教科も一度授業を受けるだけで完璧に覚えてしまっていた。その上成績もとんでもなく優秀で、ロバートが教えられる事などたちまちなくなってしまったのだ。
ロバートなんて、今年から担当になった科学教師の名前がまだうろ覚えだというのに。
そして半月が過ぎる頃には、ロバートが江に教えを乞う事ばかりになっていた。
「江~、ここの答え教えてくれ……」
今日もまた、ロバートが江の机に突っ伏して助けを求めていた。予習してくるべき箇所を忘れ、あまつさえ授業直前の休み時間に聞いてくるという始末。
江ははぁ、とため息を一つ溢して、教科書の一文を指で指す。
「ここに答えがあるから」
「うおお…… ありがとう」
ロバートはまるで神でも見たかのような声を上げ、江の指差した箇所に視線を走らせた。実際、今のロバートにとって江は神に等しい存在だった。
悲しい事にロバートの成績は余り良くなくて、勉強自体も余り好きではなかった。
結局予習も後回しにしてしまっている。直前で泣きを見る事になるのが分かっているというのに。
ロバートは江の呆れ混じりの視線を受けながら予習を進める。たまにからかってくる他の友人達をあしらいつつ、どうにか最後まで終える事が出来た。
「終わったぁ~、江ありがとう……」
やりきった、という風に予習したノートを掲げるロバートに、江はデコピンを一つかました。
「今燃え尽きてどうするの? 授業はこれからなのに」
「おっしゃる通りで……」
そのタイミングで教師がやってきたから、ロバートはよろよろと自分の席へ戻っていった。
* * *
ある日、江は放課後に一人で教室に留まっていた。今日は朝から重たい空で、いつ雨が降りだしてもおかしくない天気だった。
だが江は傘を持ってきていなかった。朝学校に来る時はまだ曇り空だったものだから、傘の存在を失念していたのだ。
しかし午後から降りだした雨は放課後になっても降り続けていて、江は帰るに帰れない状況だったのだ。だから江は暇潰しがてら自習をしていた。
雨音が止んだ気がして、ノートから顔を上げて窓の外を見る。太陽が顔を出しているわけではないが、先程まで窓ガラスに打ち付けられていた雨粒はなくなっていた。
帰るならばこのチャンスを逃すわけには行くまい。
江は手早く勉強道具を鞄に入れ、一人残っていた教室を後にした。
下駄箱から靴を取り出し、さあいざ帰ろうとした時に気が付いた。ロバートが校門の辺りを歩いている。江は思わず靴を土間に下ろす事も忘れて、ロバートの後ろ姿を眺めた。
彼も今帰り始めたばかりなのだろう。そういえば、部活動の終了時刻もつい先程だった。
ロバートは一人でただ歩いていた。珍しい、というかロバートが一人でいるところを江は初めて見た。
人の輪の中心にいる彼の回りに誰もいないというのは見慣れない。江と二人でいる時だって、人気者の彼は誰かに話しかけられる事が多い。いつもロバートは笑顔でそれに対応しているのを思い出した。
ロバートがいるのは、距離にしてほんの十メートル先。少し大きめの声を掛ければこちらに気が付くかもしれないが、それは些か躊躇われる。
明日も会えるのだし、火急の用もないのだし。
まぁいいか、と江が靴を下ろそうとした時だった。
ロバートが振り返った。何の脈絡もなく、突然に振り返って、そして笑った。
江の姿を目に留めたのか、一瞬目を見開いた後すぐに笑顔を浮かべてこちらへ走ってきた。
「江!」
大きく手を振られ、大きな声で名前を呼ばれる。江が躊躇った行為を、ロバートはいとも容易くやってのけた。
「声かけてくれれば良かったのに」
「後ろ姿だけじゃロバートかどうか分からなかったからさ」
嘘だ。けれど声をかける事に尻込みしてしまったと知られるのはどうにも決まりが悪かった。
「折角だから一緒に帰ろうぜ」
ロバートが余りに嬉しそうな顔で笑うから。断られる事なんて微塵も考えていなさそうな表情を浮かべるから。
江は考えるよりも早く、首を縦に振っていたのだった。
* * *
ロバートは上機嫌で帰り道を歩いていた。隣を歩く江と歩調を合わせながら、下らない会話をするのが楽しくて仕方がないのだ。ほとんどロバートが一方的に喋っているようなものだったけれど、短くとも江が言葉を返してくれるのが嬉しいのだ。
それに、なんてったって江と下校するのは初めてだ。その事実が何よりロバートの心を高揚させる。校門で振り返ってよかった。江に気が付いてよかった。
しかしそう思っていても、別れは訪れるものである。
「じゃあ、俺こっちだから」
そう言って帰ろうとする江の腕を、ロバートは咄嗟に掴んだ。
あ、と思ってももう遅い。江は驚いたようにロバートが掴んだ己の腕を見つめていた。
「どうせならさ」
内心大慌てだというのに、口は勝手に動いていた。掴む強さは変えずに、にかっと笑って江に言う。
「寄り道してこうぜ」
江は虚を突かれたような表情をしたものの、いいけど、とロバートの誘いに乗ってくれた。それにまた上機嫌になったロバートは、江の腕を掴んだまま意気揚々と曲がり角を別方向に進んだ。
江がロバートを連れてやって来たのは、どこにでもよくあるコンビニだ。
「寄り道って、ここ?」
「そ。江、腹減ってない?」
「まぁ、そりゃ空いてるけど……」
「じゃ、ちょうど良いな! 買い食いしようぜ」
ロバートは江を連れて自動ドアを潜る。軽快な入店を知らせる音と、やる気のない店員の声が二人を迎えた。
「江は何食う?」
「え、えぇと」
江は少し戸惑った様子で店内を見回した。特に目的もなく店内を闊歩しながら、江がレジ横のスチーマーに目を留めた。
「肉まんにしようかな」
「おっ、いいな」
じゃあ自分もホットスナックにしようと、ショーケースを見ながらレジに並ぶ。悩んだ結果ロバートはチキンを購入する事にして、先に支払いを済ませていた江の元へ向かった。
コンビニの駐車場を出て、早速それぞれ選んだものに食らいつく。
「なんか新鮮。歩きながら食べるなんて」
肉まんを飲み込んだ江がそう言うのを聞いて、ロバートは驚いて江の顔を見た。そのせいであまり噛まずにチキンを飲み込んでしまったが、己の胃腸なら大丈夫だろう、多分。
「え!? 江、今まで買い食いした事ないのか?」
「ないよ。これが初めて」
そう言うと、江はもう一口肉まんにかぶりつく。表情の変化こそ少ないものの、ほんのり口角が上がっているように見えるから美味しいのだろう。
「ふうん、そうか」
ロバートはなんだか優越感に似た感情を覚えた。理由も分からないけれど、どうしようもなく嬉しいような、誇らしいような、そんな気持ちになってしまったのだ。
「ロバート、何ニヤニヤしてるの?」
「ん~、何でだろうなぁ」
「とぼけないでよ……。何か面白いものでもあった?」
いや、本当に何で自分が笑っているのか分からないのだ。おかしいものなどない筈なのに、胸の奥底がむず痒くなって、その感覚が勝手に口を笑みの形にしてしまうのだ。
でも、そう。どんな些細な理由でも良いのなら。
「なんかさ、江に教えられたってのが嬉しくて」
「え? それって、買い食いを?」
「うん、そう。買い食いを」
江は不思議そうな表情を浮かべてロバートを見つめている。その顔もまたロバートの胸を疼かせている事を、江はきっと知らない。
ロバートはこの感覚のせいでどうにかなってしまいそうだった。それくらいに、嬉しいとか、楽しいとか、誇らしいとか、他にも沢山のそういった感情がロバートの中で暴れまわっている。
これをどうにか落ち着かせるためには、この感情を江にも共有してやるしかない。
だからロバートは、胸の中で渦巻く感情全てを乗っけて、言ってやったのだ。
「もうお前は一匹狼じゃないな。僕がいるから二匹狼だ!」
ロバートは江の肩を組む。そしてにっかりと笑って江の方を見やった。
そして、その笑顔は、見事に真っ赤に染められたのだった。
「ははっ! なにそれ」
だって、江はロバートの言葉に笑ったのだ。それはロバートが初めて見た、江の年相応の笑顔だったから。
その瞬間にロバートは理解してしまった。理解せざるを得なかった。
今までに体験した事がないくらいの衝撃がロバートを襲ったのだ。例えるならば、隕石が降ってきて、心臓に直撃して爆発を起こしたような。それくらいの衝撃だったのだ。
その衝撃は、それと同時にロバートの脳みそへとただ一つの事実を突き付ける。
ロバート・ジェーン・ウルフは江灵魂に恋をしている。
それを自覚した途端、ロバートの世界は変わった。
胸の中にいた感情達が恋心という名前をもらって、一つの大きな怪物になったのだ。
その怪物はロバートから飛び出した。怪物は勝手に視界をキラキラ輝かせて、暑くもないのに汗なんてかかせてきやがった。
ロバートは食べ終わったチキンの袋をぐしゃりと握り潰す。何かに縋っていなくては、怪物に飲み込まれてしまいそうだった。例えそれが油の染みた紙ゴミであろうと、藁よりはマシである。
今はただ、どうやってこの怪物を宥めようかという事でロバートの頭はいっぱいであった。