それを私は愛と呼びたい「夢じゃなかったんだ」
事後の気だるげな空気の中で、玲於は小さく呟いた。殆ど吐息のようだった自分の言葉に自分で驚く。まるで唇が勝手に動いた様に感じた。玲於の中に芽生えた安堵のような、驚愕のような、そんな名状しがたい感情がぽろりと零れ落ちてしまったみたいだ。
「夢じゃないよ」
優しい声が玲於の鼓膜を震わせる。その声には先程まで玲於をどろどろに溶かしていた甘さとはまた違う、包み込むような緩やかな慈しみに似たものが込められているのを感じる。
すると胸の底がうずうずして、犬堂の顔を見るのがどうしようもなく恥ずかしくなった。自分を抱き締める犬堂の感触を確かめるように胸に額を擦り付ける。暖かな命の温度と力強い鼓動が玲於に直に伝わって、それにひどく安心している自分がいた。
「どうしたの? 玲於ちゃん」
柔らかい玲於の大好きな声が、玲於の名前を呼んだ。初めて名前を呼んでくれた。その事がどうしようもなく愛しく感じられてしまうのは何故なんだろう。そう思っても答えは出なくて、けれどそれがとても心地よかった。
なんだかふわふわして、身体から自分が少し剥離しているような気すらしてくる。そんな初めての感覚が、無性に可笑しく感じられてしまった。
「ふふ」
いきなり笑い出した玲於を、犬堂は不思議そうな瞳で見つめている。初めて見たその表情に更に気分が高揚してしまって、また笑いが溢れた。
「やっと名前で呼んでくれましたね、犬堂さん」
好きな人に呼んでもらう名前が、こんなにも胸を暖かくするものだなんて知らなかった。なんてことのないように呼ばれた名前が、今まで何度も呼ばれてきたもののように響くその音が。心の奥底にじんと沁みるような、柔らかな熱を玲於にもたらした。
玲於はその熱に浸るようにして目を閉じる。
多分、これを幸せというのだろう。夢じゃないと言われてもまるで緩やかなまどろみを揺蕩っているような心地で、自分と現実の境目が曖昧に感じられた。
「大事にされるって、こういう事なのかしら」
どこか夢見心地のまま呟いて、瞼を下ろしたままに抱き着く力を強くした。
そうしていると、お互いの息遣いと鼓動だけが鼓膜を揺らすのが分かる。少しずれたタイミングで、それでも早さは同じくらい。違うタイミングで息をして、同じ早さで心臓を鳴らす。
その事実を意識すると、玲於の中で小さな感情が大きく暴れ出すのだ。まだ幼くて制御の効かないそれを押さえ込まないと、自分自身も呑まれてしまいそうだ。そう感じた玲於は、縋るようにぎゅうと更に強く犬堂を抱き締める。
感情を持て余した玲於のそんな幼稚とも思える行動を笑う事もなく、犬堂もまた玲於を抱き締め返す。そして、玲於にだけ届くような声で言うのだ。
「大事にするよ」
その短い言葉は、それだけで玲於の心をぎゅっと掴んだ。
聞かれてたんだ。でも、これだけ近ければ聞こえるのは当たり前か。
耳元で低く響く声はじんと玲於の心に浸み入って、ぶわりと体温を一気に上昇させる。
「ありがとうございます、犬堂さん」
嬉しかった。飾り気のないその言葉が、もの凄く嬉しかったのだ。嬉しい、というただそれだけの感情が心の中で渦を巻く。でもそれを伝える最善の方法など玲於には分からなかったから、ただ愛しい人を抱き締める事しか出来なかった。
こんな幼稚な行為に何の意味があるとも思えないけれど。これで少しでも、玲於の心が伝わってくれたならいいのに