レディ 水に流れる血を、すずろはただ眺める。無表情に、しかしその心の内には、静かならざる驚きを満たして。
別にこれが初潮ってわけじゃない。そんなのは何年も昔に迎えている。すずろはこれを毎月訪れる少し面倒なものだと、そう思っていた筈だった。そうやって、慣れていた筈だった。
ああ、私は女の子なんだ。
だというのに、今更その事実にぶち当たった。今まで意識してこなかったその純然たる事実が、すずろの胸に重くのしかかる。
自分の事を男の子だって思ってたわけじゃない。ただ、改めて突き付けられたその事実を、素直に受け止めるのが怖くなってしまったのだ。
個室から出たすずろはトイレの手洗い場で一人、一心に手を洗っていた。
真っ白な泡に包まれた両手をただ擦り合わせる。もう充分だろうと分かっていても、どうしてかその行為を止められなかった。ぼんやりと白い両手を見つめながらすずろは考える。
アイドルとは、「偶像」だ。人の愛には限界がある。決して永遠の愛は注がれず、その愛も無尽蔵というわけではない。だって、その愛は決して返ってこないのだ。その愛は自己満足でしかない。
だからいつか愛の対象は遠い偶像から近くにいる等身大の誰かへと変わる。伸ばした手を掴んでくれる人に。送ったものと同じだけの愛を返してくれる人に。
それでもきっと、すずろの愛の向かう先はただ一人だった。永遠に、一番近くにいる偶像へとすずろの愛は捧げられるのだろう。でも、彼はきっとすずろへ同じだけの愛を返してくれる事はない。すずろ自身それを分かっていたし、望んですらいなかった。
けれど、何故だろう。どうして今になって、こんなにも胸が締め付けられるような心地がするのだろう。痛みがあるわけじゃない。息苦しいわけでもない。
ただ現実を見据える事が、こんなにもすずろの心を苛んでいる。泡の下で、小さな痛みが指先に走る。爪の先が薄皮を引っ掻いたらしい。その見えない傷に嘆息した。
惨めだ。
だって、すずろは勝負の土俵にすら立てない。一番好きな人の一番になるための前提条件を、すずろは最初から持っていなかった。
すずろの好きな人の幸せは、すずろじゃ実現させられない。
その事実が、ひたすらに悔しかった。
すずろは蛇口の下に泡だらけの両手を差し出した。自動で流れ出る水が、すずろの手を包む泡を落としていく。呆気なく排水口に吸い込まれていく泡を目で追う事もせず、あくまで義務的に手を洗う。全ての泡が流れ落ちて綺麗になった手を蛇口の下から退ければ、すぐに水は止まった。
すずろはそのまだ濡れたままの両手から目線を外し、顔を上げる。曇り一つない鏡に映る自分と目が合った。
二つに纏めた長い髪。チークで色付いたまろい頬。リップが塗られた小さな唇。凹凸のない滑らかな喉。白くて細い指と、ピンク色の小さな爪。
どこを見たって、昨日のすずろと何ら変わってはいない。可愛らしく彩られた、みんなに愛されるアイドルの女の子。
徒然すずろは口角を上げて微笑んだ。すずろは冷めた頭と瞳で鏡の中のそれを見る。そして心の中で、誰にも届かない言葉を吐き出した。
もしも、私が男の子だったら。なんて、そんな事言える筈もないのにね。